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本blog更新終了のお知らせーSNSをご覧ください!
本blogを訪問してくださっている皆様、ありがとうございます。

表題にある通り、本blogの更新を終了させて頂きます。
ご存知の通り、世の中の情報発信が目まぐるしく変わる中、BFPでも最近はSNS投稿に移行していました。携帯から気軽に投稿できるなどの利点もあり、本blogよりも容易に情報発信出来ることからやむを得ない事と理解しています。また、閲覧数という点においても、以下のSNS経由でのリーチ数の方が多くなった現状もあります。

blogを楽しみにしてくださっていた皆様には誠に申し訳ありませんが、これ以上投稿をお待たせするような状況があってはならないと判断しました。心苦しいですが、ご理解頂けたら幸いです。何か良い投稿方法などの改善が見出せたら、また方法を考えてみたいと思います。

今後は、以下のいずれかでBFPの最新情報を受け取って頂けたら光栄に存じます。何卒よろしくお願い申し上げます。


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| BFP日々の出来事 | 21:00 | comments(0) | - | pookmark |
BFPフィリピン・ツアー2024
BFPフィリピン・ツアー2024
今年2月に実施したフィリピン・ツアーのレポートです。
ぜひご覧ください(50音順)


我が人生初の海外旅行(石崎誠一)
初めてのBFPツアーでの気づき(市川健太)
呼びかける声に応答できるように(金子聖奈)
フィリピンざっくり旅日記(あんぺ)
時間がかかっても実現したい二つのこと(神直子)
初のBFPツアー(油野敏子)
| フィリピン訪問レポート | 19:05 | comments(0) | - | pookmark |
我が人生初の海外旅行(石崎誠一)
 2024年2月16日、午後、僕はこの世に生を受けて74年目にして初の海外旅行の為、中部国際空港、セントレアより、フィリピンの首都マニラのニイノ・アキノ国際空港に向け機上の人となった。搭乗機はフィリピンのセブパシフィック航空である。


 僕がフィリピンという国を初めて意識したのは、昭和34年(1959年)に、ラジオから流れてきた、あるニュースを聴いた時であった。当時は一般的にはフィリピンではなく、フイリッピンと表記されていたのだが、この時代にはテレビを所有していたのはごく限られた一部の高額所得者のみであり、殆どの家庭の情報源はラジオと新聞に限られていたのだが、そのラジオのニュースでフイリッピンのルバング島で終戦したことを知らない2人の元日本兵が村人の1人を殺害したため怒った村人たちが、この2人の元日本兵を捕える為山狩りの準備をしている、というものだった。その後続報は流されなかった為、この事件のことは、すっかり忘れていたのだが、1974年に小野田寛郎少尉が発見され、小野田少尉が帰国した際の証言からこの2人の日本兵は小野田少尉と彼の部下であった、小塚金七上等兵と判明するのだが、木塚上等兵は1972年に病死したとのことだったので、2人は山狩りでは、発見されなかったのか、山狩り自体が行われなかったのだろう。つまり僕は約7000以上あるというフィリピンの島々の中で最初にその名を知ったのは、首都マニラのあるルソン島ではなくルバング島だったわけである。

 機は途中、建付けの悪い中古住宅を連想させるような、振動にも見舞われながらも予定どうりアキノ国際空港に到着。墜落もせず無事に到着したのは僕の日頃の善行が故であったと思う。またフィリピンとにほんでは約1時間の時差があり、なんだか得した気分。

 かねてマニラで見たかったものは2つ。ひとつは世界の3大夕日と称されるマニラ湾に沈む夕日(因みに他の2つは、北海道の釧路港の夕日とインドネシアのバリ島の夕日だそうだ)そしてもう1つは、世界第2位といわれるマニラの交通渋滞である。因みに1位は、インドのベンガール、3位は南米コロンビアのボゴタだそうだ。マニラ湾に沈む夕日を見ながら、ひとり佇み、物思いにふける孤独な孤独な男それは僕。なんて昔の日活映画のような情景を思い描いていたのだが、ここで想定外の出来事の為、その夢は無残にも打ち砕かれることになろうとは神ならぬ身の知るところではなかったのでした。それは、入国手続機の予想もしない大渋滞だった。入国手続き用のブースは何個もあるのだが、我々が並んだブースには怖い顔をした、いかにも厳しそうなオッサンが座っており、他のブースが1〜2分で終わるのに対しこのブースだけが、時には1人に10分以上もかかるのだ。そこで我々は、隙を見て隣の婦人係官のブースに並び直し、なんとか入国審査を通過することが出来たが、想定外に時間を取られてしまった。

 そして我々は現地で集合した金子聖奈さんを含む7人で予めチャーターしてあった1台のミニバン(トヨタのハイエースであった。因みにフィリピンではトヨタ車が圧倒的に多く次いで多いのが三菱で続くのが韓国の現代やキアで、ホンダや日産はまれに見かける程度であった。)に全員が乗り込み、宿泊先のホテルに向かったのだが、ここで我々はマニラ名物の渋滞に捲き込まれることになる。マニラの渋滞は首都高速が完成する前の昭和30年代の東京のそれを思い起こさせるものであり、交通ルールに従うというよりも、ドライバー同士の暗黙のルールというか、阿吽の呼吸によって、運行がなされている感じで、気の強いものが優先されると言った感じで、しかも日本のように、小ぶりな軽自動車とか、コンパクトカ―といった類の車は少なく、走行する車の殆どは日本の規格では3ナンバー枠に入る大型の乗用車とかSUVばかりで、しかもそれらに混じって乗合バスのジプ二―とか、バイクの横にリヤカーに簡易的な座席を付けたトライシクルまで混在しているのだから、一言でいえば混沌(カオス)状態であったがその割に大きな事故は少ないらしい。

 翌日、マニラ市街戦の犠牲者を悼む追悼式典に参加したのだが、アメリカ、フィリピンの政府関係者は参加していたにも関わらず、一方の当事者である日本政府からの参加者はゼロ。主催者側は毎年、日本政府にも招待状を送っているとのことだが、日本からの参加者は民間のNPOである我々B.F.P.だけとのことで、これもまた無念、残念、また来年。日本政府も当事者であり、しかも加害者でもあるのだから、真の国際友好を考えるなら、大使が駄目ならせめて領事を派遣するとか、又政府与党である自民党もエッフェル塔に行く時間と金があるのならアジア各国で開催されているであろうこのような催しにもう少し積極的に参加することを検討してもよいのではないかと思う。検討するだけで、ちっとも実行しないことで、検討氏と称される岸田首相がそのことは検討もしないのは、日本国民として実に、無念、残念、また来年。

 また当日は今回の旅の企画者であり、リーダーでもある神直子さんがスピーチを実に落ち着いて披露された事にも感銘をうけたが、当初は、今回はスピーチの予定はないと聞かされていたので、ヴィデオカメラはホテルに置いてきてしまった為、急遽スチールカメラの動画モードでしか撮影できなかったのは無念、残念、また来年。

 式典終了後、会場に近接した講堂で日本占領時代に関する識者の講演と証言集会があったのだが、全編英語で行われた為内容の全てを理解することは出来なかったが、それでも断片的に理解できる単語の端々から何かしら居心地の悪いものを感じた。もし全てを理解出来ていたなら日本人として、あの場所にはいたたまれなかったであろう。


 午後はフィリピン大学のホセ先生とも合流して、市内の観光名所でもある、サンチアゴ要塞の見学を行ったのだがその際、兄弟と思われる3人の少年達にお金をせびられた。最年長と思われる少年は12〜13歳だろうか。足が悪いのか松葉杖をついていた。他の2人は5〜6歳くらいのあどけない顔をした兄妹のようだった。可哀想だとも思ったが、彼らの顔をまともに見るのは辛いので、出来るだけ目を合わさないように、無視することにした。こんな自分は薄情な男だとは思ったが、ここで彼らにお金を渡しても、彼らの生活が変る訳もなく、根本的な解決にはならないと解ってはいるのだが、本来ならば学齢期にある筈の彼らの、まともな教育も受けられず、将来の夢も描けずその日その日をただ生きながらえてゆくだけの人生には同情を禁じ得ないし、同時に日本という恵まれた国に生れ育ったことの幸運を感じたりした。毎年5%以上の経済成長を続けるフィリピンの克服すべき課題のひとつはこの貧富の格差の解消であろう。

 その後、マニラをあとにした我々は南部バタンガス州に向かい、17日の夜はバタンガス湾を望むリゾートホテルに宿泊。周囲の景色は渥美半島の三河湾に臨む宇津江海水浴場のそれと酷似しており、また波の穏やかさも三河湾を彷彿とさせるものであった。
 翌日、午前中は海でカヤックなどで遊び束の間のリゾート気分を味わった。

その後、バウワンの日本軍によって行われた虐殺現場を見学誤、我々はリパ市へ向かった。リパに着いたのは夕刻。リパもマニラほどではないが交通状況はカオスだった。

 翌19日、同市バガオの役所を訪問し、女性の村長さんに日本から持参したお土産を贈呈したのち、同地に残る虐殺現場へ。しかしそこでは、ここがその現場であると案内されなければ、絶対に解らないような場所であり現地の住民であっても79年前にそのような悲惨な事件がおこったとは、知らない人が大半なのではないかと思う。現在慰霊碑建立の話がかなり具体化しているとのことだが、それさえも、いつ完成するかは未定とのこと。そこで一つの提案なのだが、次回訪問する時に30センチ四方くらいの看板に、広島の原爆慰霊碑に掲げられている「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから。」という文章を丸パクリして、一段目はフィリピン語で、二段目は日本語で三段目は英語で書いて持ってゆく。その際「過ちは繰り返しませんから。」という文章は加害者である我々日本人の決意であるので、それを被害者であるフィリピン人に書かせるのは筋違いだと思うので、一段目は空白にしておいて、現地の人には「安らかに眠って下さい。」とだけフィリピン語で書いてもらい現場に建てるというのはどうだろうか。勿論一年の半分は雨季と言うフィリピンでは文字はすぐに消えてしまうだろうが、我々戦後世代の決意は消えることはないし、またその精神は現地の人々にも理解してもらえると思うのだが。

 その後B.F.P.のよき理解者でもあり日本軍の虐殺の手から逃れた証言者の一人でもあったアレックスさんのお墓に詣で、その後リパ市内のショッピングモールにて日本へのお土産物を買ったりしたのだが、入店する際拳銃を携行した警備員が入店者全員のセクュリティ検査をしていたのはおどろきだった。


 2月20日、実質的にフィリピン最期の日となったこの日、リパからマニラに向かったのだが、マニラでは交通渋滞対策として当局が発行する登録番号の末尾が奇数か偶数かによってマニラ市内に入れる車の制限を行っているとのことで、それまで我々の足となっていた車は市内に入れない日になっていた為、市境で荷物の乗せ換えをおこなったのだが、我々以外にもそのような車が多くここでもカオス状態だった。マニラに入った後我々一行はマニラ在住の加藤千登勢さんの住むマンションを訪問したのだが、愛犬とともに元気に暮らしているようで嬉しかった。又ここには直子さんが初めてフィリピンを訪れた時友達になったという2人の女性が訪れてきて、3人で当時と同じ配置で写真を撮り、けっこう盛り上がっていたようだった。
 今回の旅でフィリピンで美味いとおもえたのは移動販売の店で飲んだ果実に穴をあけ飲んだココナッツジュースだった。飲み終わった後外殻を削って作ったスプーンで中の寒天状の果実を食したのも結構うまいと思った。10年以上前、日本でもブームとなり、今では普通にスーパーでも売られるようになったナタデ・ココはこの果実が原料なんだと納得がいった。ココナッツを加工したらこんなんなったでココ。ということか。 


 そして翌日早朝5時にホテルをチェックアウトし当日の午後中部空港に到着し僕の初の海外旅行は無事終了したわけだが、やはりテレビやユーチューブでは解らない、現地に行って自分自身の目で見て体験して初めて分かることや、考えさせられることも多く、その意味でも行ってよかったと思える旅だった。昔、山本七平がイザヤベンダサンのペンネームで書いた「日本人とユダヤ人」という本の中で「日本人は水と安全はタダだと思っている世界でも稀な幸福な民族である。」と喝破していたが、確かにフィリピンとだけ比べてみても、フィリピンでは空港ばかりでなく、多くの人が出入りするショッピングセンターや大手ホテルの入り口には拳銃を携行した警備員が入場者全員のチェックをしていたり、日本ではどこの通りにも普通に設置されている自動販売機が、フィリピンでは建物の中にしかないという治安の悪さとか、1年の半分が雨季であり森林資源にもめぐまれている筈なのに、日本のように水道から出る水を直接飲むのはためらわれるなどの現実を見るにつけ日本と言う国に産まれ育ったことは幸運だったと思わされる旅であった。
| フィリピン訪問レポート | 18:58 | comments(0) | - | pookmark |
初めてのBFPツアーでの気づき(市川健太)
 今回の旅は人生で二度目の海外旅行でした。
現地に行く前はフィリピンのことについて何も知らず、どんな場所だろうと多少不安はありました。本屋の旅行関係のコーナーでるるぶの雑誌を見た時は、フィリピンの特集の少なさからなんとなく旅行向きではない国なのかと思っていましたが結論、めちゃくちゃ楽しかったです。

 首都メトロ・マニラの美しい街並みや、バタンガスのカヤック体験、快適な宿泊施設、美味しい料理もさることながら1番感動したのは現地の人々のホスピタリティの高さです。店員さんでさえ初めて会ったばかりの我々に対し笑顔で親切に接してくれるしサービスもとても融通が聞きます。(店による)日本の接客とはまた違った良さを発見することができました。

 活気あふれる賑やかなこの街で過去に悲惨な戦争が行われていたとは想像がつきません。また、この国に住む人々は貧富の格差が激しく毎日外で生活し物乞いで生きている人も少なくありませんが厳しい環境下にもかかわらず、みんな笑顔で無愛想な人が滅多にいませんし実に幸せそうです。このフィリピンの旅で本当にいい暮らしとはなんなのか考えさせられました。

 集団の時間と個の時間のどちらも大事にしたいZ世代の私は、なんとなく集団は疲れるので苦手意識があるのですがフィリピンの方々と接していると、もっともっとこの人たちと過ごせたらいいのにと思えてくるので不思議です。

 ただ楽しい旅もしながら残酷な過去の歴史のお勉強もするので気持ちの切り替えをするのには苦労しました。

 今回のツアーへの応募は歴史にあまり詳しくない自分なりに歴史を知る機会を自ら取りに行く初の試みでしたが、一つ学んだことは「どんなに嫌いな物事でもその情報に触れている限りは必ずいつかわかってくるし知識が体系化されていく」ということです。「苦手だから嫌いになり知ろうとしない」ではなく苦手という現状をどうすれば打破できるか考えるのも面白いことだなぁと思いました。

 旅行中にはそんな真面目なことばかり考えていたわけではなく、旅の最後のホテルでは結構なおふざけをしてメンバーを死ぬほど笑わせていました。しかしながらこんなテキトーなことが多い自分に忘れかけていたambitionや多くの気づきを与えてくれるこのBFPの活動、Global Studies Cafeは最高です。まずは現地で会ったデレックさんの英語が聞き取れるように苦手なリスニングを頑張り自分の可能性を広げていきたいです。
| フィリピン訪問レポート | 18:50 | comments(0) | - | pookmark |
呼びかける声に応答できるように(金子聖奈)
BFPフィリピンツアーへの参加は、2018年ぶり、4回目であった。前回から6年も経っていたのかと驚くばかりだが、2016年、2017年(当時20歳になったばかり!)の自分のフィリピン報告リポートを読み返すと、あけすけな感情ばかりを書いていて恥ずかしい。だが、思考の根幹は、当時から変わっていないかもしれない。うまく筆が進まないけれど、もう帰らぬ人となってしまったAlex Maralitさんへの手紙のつもりで、霊前に花束を贈るつもりで、少しずつ書いていこうと思う。

【2月16日】
羽田空港からマニラへ!実は2023年3月、9月にもフィリピンに来ていたので、フィリピン渡航自体は5ヶ月ぶり。羽田からの参加は私一人だけだったが、「ふふ、慣れたもんよ」と高をくくりながらタクシーを拾う。
夜、中部国際空港から参加する皆さんと合流。27歳にもなって、ちょっと人見知りしてしまった。2016年・2017年にバウアンでの日本軍による戦争加害を説明してくれたランディさんと再会、ディナーを共にした。時間の流れを思うと同時に、BFPとのディナーのためにわざわざハードなスケジュールの合間に片道4時間もかけて来てくれたRandyさんへの感謝がつきない。

【2月17日】
1945年2月に日本兵による「マニラの大虐殺」が行われた首都マニラで、追悼式典 Memorare Manila 1945へ参列した。
メキシコ大使館、スパイン大使館、オーストラリア大使館、アメリカ大使館……からの献花が並ぶなか、日本大使館の影も形もない。日本とフィリピンの戦後外交が、表向きの「友好」を基調としてきたために、戦争の記憶が後景へしりぞいてしまったというのは中野聡先生の論文※1の受け売りだが、このような形で尾をひいているのだと実感した。

マニラ市街戦で多くの市民を犠牲にした、都合の悪い過去に見ないふりをする、日本の集合的な「記憶喪失」―。しかし、同様の違和感をもったのは、在マニラ米国大使館の代表者のスピーチである。「フィリピンとアメリカは悲劇を乗り越えた」、「過去にColonizer(植民者)とColonized(非植民者)の関係でありながら今とても強いパートナーシップを持っている例は他にない」と関係を強調していたが、こうした語りもまた、過去にフタをしていないだろうか?覇権国となったアメリカには、戦後の冷戦構造や、現在の国際情勢のなかでフィリピンとの関係を良好に保ちたいという地政学的な背景がある。だが、このスピーチのように現在/未来をきれいに語ってしまうことで、アメリカも過去にフィリピンを植民地としたことを見えなくしていないだろうか。

もちろん、雑駁に戦後責任を転嫁したいのではない。しかし、都合の悪い記憶から目をそむけるという点では、この式典に象徴される元植民国・アメリカ、そして元占領国・日本のふるまいが似ているような気がしてしまったのだ。このようなふるまいは、フィリピンで起きた「戦争」のひとつひとつの証言を、どんどん不可視のものにしてしまい、フィリピンが悲惨な戦場になった背景を見えなくしてしまうのではないか。

この感覚に対して、式典のあとに、マニラ市街戦を生き抜いた3人の証言者によるRecollectionsを通して、被害者が生きた戦争の、具体的な話に触れることができたのは貴重な機会であった。「日本人に対して今どう思っているのか」や慰安婦像の撤去についての批判的意見など、日本では聞くことのできない率直な思いに触れた。

さらに、フィリピン大学ディリマン校で歴史学を教えるRicardo Trota Jose先生のご厚意で、イントラムロス周辺の戦跡を案内していただいた。どんな場所がどのように使われていたのか、具体的な想像をめぐらせることができる。そのあいまに、Jose先生がどうして日本軍占領期フィリピン史を専門にするに至ったのかという個人史を聞くことができた。Recollectionsで聴いた証言・記憶もそうなのだが、こうしてひとりひとりのライフ・ヒストリーには、毎度、大きな衝撃を与えられる。表向きの「友好」関係の網目からこぼれ落ちてしまうような、ひとりひとりの声。それを聴いた者としての責任が、私にはあるのだと思う。


【2月18日】
午前中は、17〜18日にかけて宿泊したMabiniのビーチリゾートでのんびり。海風にあたりながら飲むサンミゲル・ビールは最高だった。他のBFPツアーメンバーの皆さんと過ごせたのはほんとうに貴重な時間だった。

午後はバウアンへ。Brianさん、Derrickさんに案内してもらいながら、日本軍が住民を虐殺した教会と周辺の建物などを巡った。過去にRandyさんに案内してもらった場所だ。地元で過去の戦争被害を語りつぎ、こうして日本人のツアーにも時間を割いてくれる人びとがいるからこそ、バウアンでの虐殺事件が生々しく蘇ってくる。ここから生き延びた、今は亡きCornelioさんのことも思い出され、もう会えないけれども、やはり共有してもらった記憶を大切に残していかなければならないと思った。
Randyさんは、バウアンでの日本軍による戦争加害と、虐殺事件に関する映像を後日共有してくれた。来年度から、私は大学の教壇に立つ予定である。学生たちに見せる機会を持てたら良いなと思う。私も少しずつ、彼らのように、「伝えていく」ことを担えるようになりたい。

【2月19日】
この日は、リパ市パガオを訪れた。BFPの活動を長年支えてくれていたAlexさんのお父さんが、日本軍に連行され、そして集落の多くの男性とともに井戸へ落とされ、殺されてしまった場所である。何も記憶をとどめる指標のないこの場所に、慰霊碑を建てようというのが数年前からのプロジェクトだった。2016年、17年、18年にここを訪れたときにも、Alexさんを中心にその話を進めていた。Alexさん亡き今、今回の訪問ではDerrickさんやLeoさん、パガオのバランガイ・キャプテンといった多くの人々のあつい気持ちが、この計画を後押ししてくれているようで、とても感慨深い。Alexさん、見てるかな〜


 Alexさんのお墓を訪れた午後は、彼を思い出しては泣けてしまって、周りの人、特にトシくんをびっくりさせてしまった。ゴメンナサイ……。ティッシュをくれたあんぺさん、とし子さんの優しさが沁みました。ありがとうございました。
 歴史にifは無いとしても、Alexさんの戦争被害を媒介にして私たちは出会ったのだから、理想的なクロニクルでは「出会わないほうが良かった」のだ、というジレンマを、私は2017年のリポートに書いていた。しかし、出会えたからこそ、私的な「思い出」がたくさんできたのだ。これは考えても仕方のないジレンマかもしれない。

だが今の私なら、哲学者・野家啓一の「物語られることによってはじめて、断片的な思い出は「構造化」され、また個人的な思い出は「共同化」される」※2という一節を思い出す。野家によれば、ある出来事が「思い出」から「歴史」に転生を遂げるためには、出来事が「物語行為」を媒介され、「解釈的事実」とならなければならないという―。
私的な「思い出」としてAlexを語り、涙することでカタルシスを得ることも、間違ってはいないのかもしれない。しかし私は、単なる「思い出」ではなくて、構造化された(するべき)「歴史」のひとつとして「思い出」を物語りたい。語りきれぬほど語り続けようと思う。それが、どこかにいる未来の聴き手に届くかもしれない。


リパのホテルで朝食を提供してくれたナイスなカフェがなくなっていたのが、とても残念!だけど、この日の夜には愛知から参加していた皆さんとリパの街を歩いたり、ローカルフードを食べたりしたのも素敵な思い出である。

【2月20日】
リパを発ち、マカティで加藤千登勢さんと再会。マイクさんが去年亡くなってしまって、もう会えなくなってしまったのはとても悲しい。もっと話を聞きたかったのに、2022年にzoomでお話ししたのが最後になってしまった。マイクさんが安らかに眠っていることを祈りながら、千登勢さんの手料理に舌鼓をうった。千登勢さんは笑顔で迎えてくださって、これから教壇に立つんです、という報告を喜んでくれた。自分の芯を大事に生きてこられた千登勢さんから、たくさんのことを学ばせてもらったなと思う。
それなのに私はお腹を壊してしまった!!みなさん、心配かけてゴメンナサイ……。

夕方はBFP一行と別れ、私は一人で2015年、初めてフィリピンに来たときにホームステイをした北ルソンの家族のもとへ向かった。夜行バスで片道10時間という緊張感のせいで、どっと疲れてしまったけれど、家族たちと再会できたのもほんとうに嬉しかった。当時、私がBFPに関わるきっかけになったのが、このキリノ州に住むホストファミリーの言葉だったのである。そして2月24日に無事帰国した。


何も知らず、ただ「悔しい」とばかり繰り返している2016年のリポートと比べると、まがりなりにも大人になったようだ。そんないま、思うことは、ひとりひとりの声に耳を傾けながら、応答していくことの大切さということ。Memorare ManilaでのBFP代表の神さんのスピーチには、日本人として呼びかけられている声に、戦後世代として答えたいという「応答可能性としての責任Responsibility」※3を想起させられた。私は私の方法で、聴いた者としての「応答責任」を考えつづけていきたいと思う。

ツアー主催者の直子さんには、今回も貴重な経験をさせてくださった感謝がつきない。また、現地で時間を作ってくれた多くのフィリピンのみなさんからはもちろんだが、ツアー中には様々な話を聞かせてくれたあんぺさん、とし子さん、トシくん、けんたさん、ジャンピーさんからも、たくさん気づきをもらい、多くを学んだ。この素敵なチームで5日間を過ごせたことはかけがえのない思い出であり、幸せな時間だった。関わってくれた全ての皆さんへ、Maraming salamat po ^^

※1 中野聡「追悼の政治——戦没者慰霊問題をめぐる日本・フィリピン関係」(池端雪浦、リディア・N・ユー・ホセ編『近現代日本・フィリピン関係史』2004年4月、岩波書店)
※2 野家啓一「物語と歴史のあいだ」(『物語の哲学』2005年2月、岩波現代文庫)
※3 哲学者・高橋哲哉が『戦後責任論』(1999年12月、講談社)で提起した概念。
| フィリピン訪問レポート | 18:45 | comments(0) | - | pookmark |
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