BFPフィリピンツアーへの参加は、2018年ぶり、4回目であった。前回から6年も経っていたのかと驚くばかりだが、2016年、2017年(当時20歳になったばかり!)の自分のフィリピン報告リポートを読み返すと、あけすけな感情ばかりを書いていて恥ずかしい。だが、思考の根幹は、当時から変わっていないかもしれない。うまく筆が進まないけれど、もう帰らぬ人となってしまったAlex Maralitさんへの手紙のつもりで、霊前に花束を贈るつもりで、少しずつ書いていこうと思う。
【2月16日】
羽田空港からマニラへ!実は2023年3月、9月にもフィリピンに来ていたので、フィリピン渡航自体は5ヶ月ぶり。羽田からの参加は私一人だけだったが、「ふふ、慣れたもんよ」と高をくくりながらタクシーを拾う。
夜、中部国際空港から参加する皆さんと合流。27歳にもなって、ちょっと人見知りしてしまった。2016年・2017年にバウアンでの日本軍による戦争加害を説明してくれたランディさんと再会、ディナーを共にした。時間の流れを思うと同時に、BFPとのディナーのためにわざわざハードなスケジュールの合間に片道4時間もかけて来てくれたRandyさんへの感謝がつきない。
【2月17日】
1945年2月に日本兵による「マニラの大虐殺」が行われた首都マニラで、追悼式典 Memorare Manila 1945へ参列した。
メキシコ大使館、スパイン大使館、オーストラリア大使館、アメリカ大使館……からの献花が並ぶなか、日本大使館の影も形もない。日本とフィリピンの戦後外交が、表向きの「友好」を基調としてきたために、戦争の記憶が後景へしりぞいてしまったというのは中野聡先生の論文※1の受け売りだが、このような形で尾をひいているのだと実感した。
マニラ市街戦で多くの市民を犠牲にした、都合の悪い過去に見ないふりをする、日本の集合的な「記憶喪失」―。しかし、同様の違和感をもったのは、在マニラ米国大使館の代表者のスピーチである。「フィリピンとアメリカは悲劇を乗り越えた」、「過去にColonizer(植民者)とColonized(非植民者)の関係でありながら今とても強いパートナーシップを持っている例は他にない」と関係を強調していたが、こうした語りもまた、過去にフタをしていないだろうか?覇権国となったアメリカには、戦後の冷戦構造や、現在の国際情勢のなかでフィリピンとの関係を良好に保ちたいという地政学的な背景がある。だが、このスピーチのように現在/未来をきれいに語ってしまうことで、アメリカも過去にフィリピンを植民地としたことを見えなくしていないだろうか。
もちろん、雑駁に戦後責任を転嫁したいのではない。しかし、都合の悪い記憶から目をそむけるという点では、この式典に象徴される元植民国・アメリカ、そして元占領国・日本のふるまいが似ているような気がしてしまったのだ。このようなふるまいは、フィリピンで起きた「戦争」のひとつひとつの証言を、どんどん不可視のものにしてしまい、フィリピンが悲惨な戦場になった背景を見えなくしてしまうのではないか。
この感覚に対して、式典のあとに、マニラ市街戦を生き抜いた3人の証言者によるRecollectionsを通して、被害者が生きた戦争の、具体的な話に触れることができたのは貴重な機会であった。「日本人に対して今どう思っているのか」や慰安婦像の撤去についての批判的意見など、日本では聞くことのできない率直な思いに触れた。
さらに、フィリピン大学ディリマン校で歴史学を教えるRicardo Trota Jose先生のご厚意で、イントラムロス周辺の戦跡を案内していただいた。どんな場所がどのように使われていたのか、具体的な想像をめぐらせることができる。そのあいまに、Jose先生がどうして日本軍占領期フィリピン史を専門にするに至ったのかという個人史を聞くことができた。Recollectionsで聴いた証言・記憶もそうなのだが、こうしてひとりひとりのライフ・ヒストリーには、毎度、大きな衝撃を与えられる。表向きの「友好」関係の網目からこぼれ落ちてしまうような、ひとりひとりの声。それを聴いた者としての責任が、私にはあるのだと思う。
【2月18日】
午前中は、17〜18日にかけて宿泊したMabiniのビーチリゾートでのんびり。海風にあたりながら飲むサンミゲル・ビールは最高だった。他のBFPツアーメンバーの皆さんと過ごせたのはほんとうに貴重な時間だった。
午後はバウアンへ。Brianさん、Derrickさんに案内してもらいながら、日本軍が住民を虐殺した教会と周辺の建物などを巡った。過去にRandyさんに案内してもらった場所だ。地元で過去の戦争被害を語りつぎ、こうして日本人のツアーにも時間を割いてくれる人びとがいるからこそ、バウアンでの虐殺事件が生々しく蘇ってくる。ここから生き延びた、今は亡きCornelioさんのことも思い出され、もう会えないけれども、やはり共有してもらった記憶を大切に残していかなければならないと思った。
Randyさんは、バウアンでの日本軍による戦争加害と、虐殺事件に関する映像を後日共有してくれた。来年度から、私は大学の教壇に立つ予定である。学生たちに見せる機会を持てたら良いなと思う。私も少しずつ、彼らのように、「伝えていく」ことを担えるようになりたい。
【2月19日】
この日は、リパ市パガオを訪れた。BFPの活動を長年支えてくれていたAlexさんのお父さんが、日本軍に連行され、そして集落の多くの男性とともに井戸へ落とされ、殺されてしまった場所である。何も記憶をとどめる指標のないこの場所に、慰霊碑を建てようというのが数年前からのプロジェクトだった。2016年、17年、18年にここを訪れたときにも、Alexさんを中心にその話を進めていた。Alexさん亡き今、今回の訪問ではDerrickさんやLeoさん、パガオのバランガイ・キャプテンといった多くの人々のあつい気持ちが、この計画を後押ししてくれているようで、とても感慨深い。Alexさん、見てるかな〜
Alexさんのお墓を訪れた午後は、彼を思い出しては泣けてしまって、周りの人、特にトシくんをびっくりさせてしまった。ゴメンナサイ……。ティッシュをくれたあんぺさん、とし子さんの優しさが沁みました。ありがとうございました。
歴史にifは無いとしても、Alexさんの戦争被害を媒介にして私たちは出会ったのだから、理想的なクロニクルでは「出会わないほうが良かった」のだ、というジレンマを、私は2017年のリポートに書いていた。しかし、出会えたからこそ、私的な「思い出」がたくさんできたのだ。これは考えても仕方のないジレンマかもしれない。
だが今の私なら、哲学者・野家啓一の「物語られることによってはじめて、断片的な思い出は「構造化」され、また個人的な思い出は「共同化」される」※2という一節を思い出す。野家によれば、ある出来事が「思い出」から「歴史」に転生を遂げるためには、出来事が「物語行為」を媒介され、「解釈的事実」とならなければならないという―。
私的な「思い出」としてAlexを語り、涙することでカタルシスを得ることも、間違ってはいないのかもしれない。しかし私は、単なる「思い出」ではなくて、構造化された(するべき)「歴史」のひとつとして「思い出」を物語りたい。語りきれぬほど語り続けようと思う。それが、どこかにいる未来の聴き手に届くかもしれない。
リパのホテルで朝食を提供してくれたナイスなカフェがなくなっていたのが、とても残念!だけど、この日の夜には愛知から参加していた皆さんとリパの街を歩いたり、ローカルフードを食べたりしたのも素敵な思い出である。
【2月20日】
リパを発ち、マカティで加藤千登勢さんと再会。マイクさんが去年亡くなってしまって、もう会えなくなってしまったのはとても悲しい。もっと話を聞きたかったのに、2022年にzoomでお話ししたのが最後になってしまった。マイクさんが安らかに眠っていることを祈りながら、千登勢さんの手料理に舌鼓をうった。千登勢さんは笑顔で迎えてくださって、これから教壇に立つんです、という報告を喜んでくれた。自分の芯を大事に生きてこられた千登勢さんから、たくさんのことを学ばせてもらったなと思う。
それなのに私はお腹を壊してしまった!!みなさん、心配かけてゴメンナサイ……。
夕方はBFP一行と別れ、私は一人で2015年、初めてフィリピンに来たときにホームステイをした北ルソンの家族のもとへ向かった。夜行バスで片道10時間という緊張感のせいで、どっと疲れてしまったけれど、家族たちと再会できたのもほんとうに嬉しかった。当時、私がBFPに関わるきっかけになったのが、このキリノ州に住むホストファミリーの言葉だったのである。そして2月24日に無事帰国した。
何も知らず、ただ「悔しい」とばかり繰り返している2016年のリポートと比べると、まがりなりにも大人になったようだ。そんないま、思うことは、ひとりひとりの声に耳を傾けながら、応答していくことの大切さということ。Memorare ManilaでのBFP代表の神さんのスピーチには、日本人として呼びかけられている声に、戦後世代として答えたいという「応答可能性としての責任Responsibility」※3を想起させられた。私は私の方法で、聴いた者としての「応答責任」を考えつづけていきたいと思う。
ツアー主催者の直子さんには、今回も貴重な経験をさせてくださった感謝がつきない。また、現地で時間を作ってくれた多くのフィリピンのみなさんからはもちろんだが、ツアー中には様々な話を聞かせてくれたあんぺさん、とし子さん、トシくん、けんたさん、ジャンピーさんからも、たくさん気づきをもらい、多くを学んだ。この素敵なチームで5日間を過ごせたことはかけがえのない思い出であり、幸せな時間だった。関わってくれた全ての皆さんへ、Maraming salamat po ^^
※1 中野聡「追悼の政治——戦没者慰霊問題をめぐる日本・フィリピン関係」(池端雪浦、リディア・N・ユー・ホセ編『近現代日本・フィリピン関係史』2004年4月、岩波書店)
※2 野家啓一「物語と歴史のあいだ」(『物語の哲学』2005年2月、岩波現代文庫)
※3 哲学者・高橋哲哉が『戦後責任論』(1999年12月、講談社)で提起した概念。