NPO法人ブリッジ・フォー・ピース(BFP)の公式blogです。
ここに記載される会員もしくは参加者の見方や考え方は、必ずしもBFPを代表するものではありません。
個人の自由な想いを尊重して運営しています。
Copyright(C) 2005-2015 Bridge for Peace All rights reserved.

BFPフィリピン・ツアー2020
今年2月に実施したフィリピン・ツアーのレポートです。
ぜひご覧ください。


初めてのBFPフィリピンツアー(浅井久仁臣)
BFP2020年度 フィリピン・ツアーに参加して(伊吹由歌子) (03/20)
Bridge For Peace, Bridge For Smile (佐々木苺乃)
20年の節目だからこそ感じられた事と、得られた3つの収穫(神直子)
BFPフィリピン・ツアーに参加して(刀川和也)
初めてBFPフィリピン・ツアーに参加して(渡辺洋介)
| フィリピン訪問レポート | 16:03 | comments(0) | - | pookmark |
初めてのBFPフィリピンツアー(浅井久仁臣)
今回、私は初めてBFPフィリピン・ツアーに参加しました。
その役目は息子(6歳児)の子守り。あとは場を盛り上げる、言ってみればチアーガール(^_^)。ハイ、気楽な立場でした。

ただ置かれた状況は、火山の噴火あり、コロナウィルスの状況悪化ありのけっして気楽なものではなく、飛行機に乗る人たちの表情にもなんとなく硬いものがありました。
マニラに到着後はネグロス島行きフライトのターミナルに移動です。

当時日本は世界中から「アブナイ国」と見られていました。だからわれわれ日本人は体温測定器を持つ係員に呼び止められて額に当てられます。息子も神妙な面持ちで測定器を当たられていました。幸い私たちはひとりも高熱を出す者はなく無事に機上の人。
すると、息子が言います。
「パパ、操縦室に入れるようにパイロットに頼んで!」
「いい子にしていると客室乗務員が応援してくれるかもよ」と私。
安定飛行に入ると、私は客室乗務員の詰所に行き、雑談から事前交渉。
「了解。わたしからパイロットに言っておくから降機する際にもう一度声をかけて」とひとりが言ってくれました。

着陸すると競って降機する乗客を尻目に前方に進み、先ほどの女性乗務員に話しかけました。
すると、彼女からパイロットに話が通っており、われわれは操縦室に招じ入れられました。

現実に見るホンモノの操縦室に息子は息をのんでいます。それでも、操縦席に座ることを許されると緊張気味ではありましたが、しっかりとした口調で「Thank you」と言えました。


そんな息子の姿を見る私の顔は、間違いなくデレデレ弛緩しきっていたはずです。

その夜は、20年前に大学生であった代表の神直子(以下、直子)がホームステイした家庭の子供のひとりが遠路会いに来てくれました。
あつ〜い抱擁→再会。当時は子供であった彼女も今では小学校の先生。ふたりは本当に懐かしそうに再会を喜んでいました。
翌日は朝早くからコケコッコ〜 !の鳴き声の大合唱で目覚め。
そう。フィリピンはニワトリの国なのです。卵を産ませたり、肉として食べたり、また闘わせたりと、まあいろいろな目的でニワトリが多くの家庭で飼われています。
フィリピンは常夏です。2月でも気温は30度にまで上がります。
朝食後、「プールで泳ぐ!」という息子に連れられて私たちはひと泳ぎ。水がかなり冷たくて気持ちがピリッと引き締まりました。

ひと泳ぎした後は部屋でツアー参加者とミーティング。その日に会うことになっている、先の戦争の被害者であるエミリオさんと直子との20年前の映像を見て、直子からいろいろな説明を受けます。


エミリオさんは当時エミリオ市の市長で、学生であった直子たちの訪問を受け入れる立場でした。その出会いに関しては、直子の訪比報告をお読みください。

エミリオさんの息子さんがホテルにまで迎えに来てくれて自宅に連れて行ってくれました。少し前に脳梗塞を患われたとのことでしたが、エミリオさんは元気な姿でご家族と一緒に私たちを出迎えてくれました。私たちのために昼食まで用意されていました。

昼食後、エミリオさんが当時9歳であった75年前の首都マニラでの体験を語ってくれました。
「日本兵は私たちフィリピン人を集めて銃剣で刺し殺し始めました。子供も大人も構わずにです」「父は私と母をかばって日本兵の銃剣に刺されました。銃剣は父の体を貫通し、剣先が私の体に刺さりそうでしたが、父は身を呈して私を救ってくれました。母は血まみれで卒倒していたので日本兵は死んだと見たのでしょう。命拾いをしました」

エミリオさんの証言は聴くに堪えない恐ろしい話です。6歳児の息子には到底理解できない話でしたが、その深刻な空気は分かったようでおとなしくしていました。と言っても、実は私自身がエミリオさんの体験を文章化した証言を読むうちに大きな衝撃を受けたために息子の表情を観察する余裕を失っていました。


エミリオさんの「戦争は男たちを狂わせる」「母が生きていたら絶対にあなたたち日本人と会うことはなかったでしょう」などの言葉は証言ヴィデオで聴いていましたが、直接本人の口から聞くとその重さに私の心は圧倒されてしまいました。
数日かけてもお話を聞きたい気持ちでしたが、エミリオさんの体調を考えて後ろ髪を引かれる思いで長居をせずにお暇(いとま)しました。

グループはその後空港に直行。マニラに戻りました。

その夜、宿泊するホテルから隣のレストランに向かう際、我々の前に数人の子供たちが立ちはだかりました。彼らの小さな手は我々に向けられています。お金を欲しがる小さな手は遠慮なく息子にも向けられます。

「しまった。この事を事前に説明してなかった」
私は反省しながら「レストランに入って説明しよう」と息子の手を引きました。

レストランの中で子供たちの置かれた状況を説明。「おこずかいからお金を上げることになるけどいいかな?」と息子の意見を聞きました。
「うん。上げたい」
金額にすれば少額ですし、それが最善策かは私にも分かりませんでしたが、息子の意見を尊重して子どもたちにお金を上げることにしました。
コインを手にした息子は神妙な面持ちで子どもたちに手渡しました。

翌日からの2日間はマニラから南下、リパ市とバウアンを訪問しました。戦争被害者や遺族との面会と殺戮現場の慰霊訪問をするためです。それに加えて慰霊碑設置の進捗状況を知ることも目的のひとつでした(これも詳しくは、直子の報告をお読みください)。

遺族のひとりのアレックスさんは以前に会っているため、息子にとっては「旧知の仲」。自分から彼に近付いて膝にもたれかかったりします。その光景は日比友好、平和の象徴です。

直子の報告にもありますが、アレックスさんのお父上が眠る殺戮現場でも息子は「何か深く感じる」ところがあったようです。また、日本軍によるバウアンの教会施設爆破の慰霊碑を訪れた際も同様でした。

彼は銅像の前で木の枝をかざし、「戦争を止めてあげた」と言ったのです。

その枝は抗日戦士の銅像が持つ銃の銃口に置かれていました。大人からすれば一本の枝で戦争を止められるはずはありませんが、6歳児なりに一所懸命に考えた上での行為でした。

アレックスさんとはかねてより直子が「絶対に会ってもらいたい人」と言っていただけに会えるのを心から楽しみにしていました。そして実際に会ってみると、「話し方」「気の遣い方」「ユーモアのセンス」それら全てにfall in loveしました。短い間ではありましたが非常に心地よい時間を過ごすことができました。

リパを後にした我々はマニラに戻りました。
75年前のマニラ市街戦で起きた惨劇を悼む「メモラーレ・マニラ」という記念式典に参加するためです。

それまでフィリピンを占領していた日本軍に圧倒的な戦力を持つ米軍が襲いかかり、十分な武器弾薬も食料もなく指揮系統も崩壊した日本兵たちは、無防備の地元民に性別や年齢に関係なく牙を剥(む)いたのです。そして10万人以上の命が奪われました。

戦闘に巻き込まれて亡くなった方もいましたが、恐怖と餓えでまさに餓鬼と化した日本兵が老若男女に襲いかかり、圧倒的な数の市民が虐殺されたのです。その中に前述のエミリオさん一家が含まれていました。

マニラ市を挙げての記念式典です。米国からも政府や軍の関係者の出席がありました。しかし、残念ながら一番責任の重い日本政府を代表する存在はなく(献花すらありません)、今年もまた日本から唯一組織として参加するブリッジ・フォー・ピースに大きな注目が集まりました。

直子には献花式の参加のみならず、スピーチをする大役が課せられていました。

前夜「スピーチを聞いて」と言い直子は部屋でリハーサルをしましたが、はっきり言ってその出来具合は「う〜む」。

こういう場合、いつものことですが、直前に行なう私の助言は無責任でいい加減なものです。

「まだ完全に頭の中で(何を伝えたいか)明確になっていないね。でも、大丈夫。直子は本番に強いし、自分を信じて頭に浮かぶことを素直に言葉にすれば君だったら思いは伝えられる。大丈夫、大丈夫」

その時、別に私には直子が思いを伝え切ることが出来るとの確証は何もありませんでした(笑)。
本番当日。息子と私はフィリピンの民族衣装を着て、直子のお供として会場に向かいました。

予定通りに始まった式典は順調に進み、いよいよ直子の出番です。

私は直子のスピーチを少し近い所でヴィデオ撮影したくて、息子と一緒に来賓席を立ち演台に近付きました(おそらくルール違反です。主催者さん、ごめんなさい)。

スマートフォンでの撮影でズームインするとブレてしまうので苦心していると、スピーチが始まりました。

タガログ語での挨拶に始まり、英語で自分の20年前の初訪問から様々な方たちとの出会い、活動の経緯へと話を進めます。

「よしよし。いい出だしだ」が「話の転換もスムーズだな」に変わり、「被害者や遺族の方たちに想いが届く内容だ。いいぞいいぞ」と(すべて私の頭の中の無言のひとり言ですが)思う内に何となく目頭が熱くなり、取り乱してはいけないと気持ちを整えていると、スピーチが終わりました。

遺族や来賓を含む参加者が立ち上がって拍手をしました。

熱い拍手を聞いて息子の気持ちに火がついたようです。

「ママのところに行っていい?」と僕の耳元でささやきます。

頷くと、彼は10メートルほど先にある演台に立つ直子のもとへ一直線。そして、直子の手を取ると、そのままテントの下の来賓席までエスコートしました。着席させると、息子は何か小さなものを直子に渡しています(後で直子に聞くと「サンパギータのお花をくれたの」とのことでした)。サンパギータというのは、ジャスミンの一種の可憐な花でフィリピンの国花です。おそらくどこかで拾ったのでしょう。

そこまでの「白馬の王子」ぶりを期待していなかった私はまたまたじ〜ん。完全にやられてしまいました。

ここまで読まれて、私の親バカぶりに呆れ返っている方も少なくないでしょう。もうこれ以上読み進みたくないと思われている方もいるかもしれません。

言い訳がましくなりますが、親バカになるには理由があるのです。

実は、息子は超未熟児で生まれ、その後多くの難関を乗り越え、医師団が驚くような成長を見せてきたのです。だから、こういう成長の一つひとつが奇跡に思えてしますのです。

親バカぶりをあえてご紹介するのは、もうひとつ理由があります。

それは世の中に数多(あまた)いる絶望の淵に立たされている方たちに、「一筋の光明」を感じていただければ、との思いです。私たち夫婦は「絶対大丈夫」と信じていましたが、医師達は息子の行く末を何度も案じました。そんな状況を乗り越えての成長があるのです。もちろん、信じ込むだけで全てがうまく行くはずはありませんが、どんな時でも希望を持つことの大切さを伝えたいのです。

ツアーの最後にマニラ郊外にある養護施設を訪問しました。

親を失ったりして行き場をなくした幼い命。親から放置されてストリートチルドレンになり、生きるために大人に媚を売り、犯罪に手を染めてきた子供たち…そのような境遇の子供160人を18歳まで預かり、社会の荒波を生き抜く術を身に付けさせて世に出そうと頑張っているホームです。

ここは直子の20年前の初訪問時に通訳をかってくれたアリエルさんという男性が、その後多くの方の支援をまとめ上げて造った素晴らしい施設です。

アリエルさんはいい笑顔で我々を迎えてくれました。その周りには、”悪ガキ”どもが群がっています。


私はこういう悪ガキが大好きなので、おそらく向こうもその辺を感じたのでしょう。集まってきました。

中のひとりが私を見上げて聞きました。それも日本語です。

「カネモチ?」

その時の私の服装はフィリピンの伝統衣装でした。

あくまでも推測ですが、彼は路上生活をしていた時、日本人男性を見るとこう言って小金を請い、成果があったのでしょう。

彼は私に小遣いを欲しがることはしませんでしたし、たとえそうされてもそこでは控えましたが、その時の彼の表情と声は今も耳について離れません。

息子はそこにいる子供たちの置かれた境遇をよく理解できなかったかもしれません。ただ、我々の前に元気に飛び出してきて跳ね回るお兄ちゃんたちの姿に強烈な印象を受けたことは間違いありません。将来これが彼にどんな影響を及ぼすか楽しみです。

こうしてBFPフィリピン・ツアーはあっという間に終わってしまいました。今回の報告は、息子を通したものでしたので、個人的な旅への感想はまた違った形でお伝えできればと思っています。

これからも直子やその仲間たちが長きにわたってこのようなBFPツアーが続けていけるよう、またそれが次の世代に継承されていくよう尽力することを「決意表明」して、この報告を終わらせていただきます。
| フィリピン訪問レポート | 20:45 | comments(0) | - | pookmark |
初めてBFPフィリピン・ツアーに参加して(渡辺洋介)
 今回ブリッジ・フォー・ピース(BFP)のフィリピン・ツアーには初めての参加で、かつ3日間という短い期間の参加でしたが、非常に濃密かつ有意義な時間を過ごすことができました。非常に素晴らしいツアーでしたので、この3日間を少し丁寧に振り返ってみたいと思います。
 ツアー1日目。東京からマニラ経由でネグロス島のバコロド(Bacolod, Negros)まで丸1日かけて移動しました。成田空港からはツアー参加者の伊吹由歌子さんと同じ午前9時30分発の便に乗り、マニラには午後2時前に到着しました。中部空港から来る本隊はすでにマニラに着いており、すぐにバコロド行きの便に乗り継ぎましたが、私は安全を期して1本後のエア・アジアの便(午後8時5分発)を予約しており、しばらくマニラで時間をつぶさなければなりませんでした。一方、伊吹さんはバコロドへは行かず、マニラに残ることになっていたのですが、この日の午後にご友人のロッド(Roderick Hall)さんに会うことになっていました。時間的にもちょうどいいので(笑)、お二人の許可を得て、私もマカティーのシャングリラ・ホテルでのお二人のお茶会にお邪魔することになりました。
 ホテルに着くと、背の高い紳士が私たちを迎えてくれました。ロッドさんでした。彼は80代後半で戦争中はサント・トマス(Santo Tomas)の民間人収容所に収容されていたとのことです。戦争体験者だけあってアジア太平洋戦争には強い関心があるようで、アヤラ・ミュージアムのRod Hall Collectionに日本で出版されたアジア太平洋戦争関連の書籍を何百冊と寄贈されているそうです。現在はロンドン在住ですが、最近までアメリカにも家があり、ヨーロッパ、アジア、南北アメリカと世界中を飛び回ってきたそうで、非常に視野の広い方だという印象を受けました。1時間半ほどお茶を飲みながらお喋りをし、伊吹さんは滞在するマニラのホテルへ、私は空港へと戻りました。空港からの旅は順調でバコロドのホテル(L’ Fisher Hotel)には午後10時前には到着し、無事に本隊に合流することができました。
 ツアー2日目。今回の参加者の顔合わせをしたいということで午前10時に神さんが宿泊する部屋にお邪魔しました。部屋に行ってみると、そこには神さんの他、旦那さんの浅井さんと息子さんの駿くんが一家で泊まっていました。そこで少々待っていると、もう一人の参加者佐々木苺乃さんがやって来ました。彼女もBFPのフィリピン・ツアー参加は初めてとのことです。それぞれ自己紹介をした後、Unforgettable VoicesというBFP発行の冊子を渡されて、まず、神さんからBFPの簡単な紹介がありました。

 この冊子にはBFPの紹介の他、フィリピンの戦争被害者9人から聞き取ったそれぞれの戦争に関するエピソードが日英両言語で記されていました。写真をふんだんに使い、非常に要領よく簡潔にまとめられていて、戦争被害者にお会いする前に読む資料としては、とても使いやすい良い冊子だと思いました。私は2011年から高嶋伸欣琉球大学名誉教授主催のシンガポールとマレーシアを周る戦跡ツアーに毎年参加しているのですが、そのツアーでも戦争被害者にお会いしたり、お話を聞いたりする機会は多々あるので、そこでもこのような冊子を作成して事前に参加者に配れたらいいなと感じました。
 ただ、この後会う予定のエミリオ(Emilio y. Montalvo)さんのエピソードは冊子に含まれていなかったので、神さんがエミリオさんの戦争体験を初めて聞いたときの動画を見ることになりました。学生時代の神さんが神妙な面持ちでエミリオさんの話を聞き入っている様子が映像に残っていました。その後、エミリオさんは学生たちの真摯な姿勢に感動して涙を流したそうです。
 そうこうしているうちに1時間が経ち、エミリオさんの息子さんとの待ち合わせ場所である1階のロビーへ行くことになりました。「フィリピンタイム」という呼び方があるくらい、約束の時間に遅れると言われるフィリピン人ですが、定刻前に息子さんはすでにホテルに到着しているとのこと。慌ててホテルをチェックアウトして息子さんの運転する車でエミリオさんのお宅へ向かいました。
 この頃日本ではちょうど新型コロナウイルスが拡がりを見せ始め、東京ではピリピリした雰囲気が漂い始めていました。ところがネグロス島では車窓から見る限りマスクをしている人はまったくおらず、いつも通りののんびりした雰囲気が感じられ、ほっと胸を撫で下ろすことができました。
 エミリオさん宅に着くと、エミリオさんとご夫人が笑顔で迎えてくれました。豪勢なランチも用意していただいていて、食事も素晴らしく大変よかったのですが、初対面の方の家にお邪魔していきなり昼食をご馳走になってしまうのが何だか厚かましい感じがして、大変ありがたいけど申し訳ないという複雑な気分でした。エミリオさんのお宅はプール付きの大変立派な豪邸でメイドさんも雇っていました。聞いたところ、エミリオさんは以前はマニラ近郊の都市の市長を務めていて、政界を引退後、実家のあるバコロドに戻ったそうです。戦時中はマニラ近郊にいたそうで、その頃の話もしていただきました。体験の詳細についてはご自身で文章を書かれており、その文章に浅井さんが目を通しながら、わかりにくい部分をエミリオさんに聞いて内容を確認していました。この文章はひとつの戦争体験の記録として貴重なものだと思います。


 3時頃にエミリオさん宅をお暇して息子さんの運転する車で空港へ向かいました。その後、エア・アジアでマニラに向かい、マニラのホテル(Casa Bocobo Hotel)には8時30分ごろ到着。その後、ホテル一階のお店でライブバンドを聞きながら夕食を取り、一日を終えました。
 3日目は朝8時30分にロビーに集合。大きな荷物はホテルに預かってもらい、貸し切りのワゴン車で次の目的地リパ(Lipa)へ向かいました。私は2013年にタール湖北岸のリゾート地タガイタイ(Tagaytay)にバスで行ったことがあるのですが、その時はマニラは大渋滞。マニラを抜けても片側一車線の一般道をノロノロと走ってタガイタイまで3時間以上かかったのを覚えていたので、今回もそんな感じではないかと覚悟をしていました。ところが意外にもマニラは渋滞せずスイスイと街を抜け、その後も高速道路を快走し、タール湖東岸のリパまで何と1時間半程度で着いてしまいました。リパではまずショッピングモールへ行ったのですが、そこも非常に近代的。フィリピンもこの7年間で近代化が進んだのだと思いました。
 ショッピングモールでは1時間ほどの自由時間をもらい、そこでお土産を買いました。私はフィリピンの後にシンガポールとマレーシアへ行く予定でしたので、日本向けのお土産はここでは買わず、今後の旅先でも使えそうなマンゴー石鹸とバナナチップスを購入しました。ショッピングモールの一角にあるスーパーで駿くんとショッピングカートを使って電車ごっこをしたのですが、これもいい思い出です(ワゴン車の中で一緒に赤ちゃんごっこ(笑)をしたのも案外楽しかったです)。
 その後、ワゴン車に戻り、戦争被害者アレックス(Alex Maralit)さん宅へ向かいました。お宅に着くとアレックスさんが出てきて、すぐさま神さんに笑顔で話しかけ始め、私は再会の邪魔をしないように静かに後ろからついて行きました。お宅にはアメリカの大学に留学中の息子さん、ビンセント(Vincent Maralit)さんがちょうど帰って来ていました。それぞれの自己紹介と簡単な雑談の後、近くのレストランへ昼食に行くことになりました。


 昼食はフィリピン料理のおいしいレストランで非常に良かったのですが、神さんらの分をご馳走するのはまだわかるのですが、初対面の私の分までアレックスさんが払ってくださいました。BFPとして先にレジで支払いを済ませたにも拘らず、アレックスさんは店と交渉して全額を返金させ、自分のカードで払い直していたのです。私はフィリピンの戦争被害者の体験を聞き、虐殺事件の現場を見ることを目的にツアーに参加したのですが、加害者側の日本人である私が戦争被害者のお宅に招かれて連日ご馳走になっているばかりで、有難いのですが何だか申し訳なく、果たしてこれでいいのだろうかと複雑な気分でした。


 その後、日本軍によってアレックスさんのお父さんらが虐殺された井戸を見に行きました。現在は落下防止のため井戸にはコンクリートの蓋がしてあり、さらに蓋が泥や雑草で覆われていて、現場に来たことのある人でないと井戸の場所を見つけることは難しい状態になっていました。まず、井戸の蓋に覆いかぶさっていた雑草や木の根を取り払い、きれいにしてからその上にロウソクを2本立て、火をともしました。そのロウソクの前でアレックスさん、ビンセントさん、神さんらBFP参加者が犠牲者に祈りを捧げました。駿くんも神妙な面持ちで手を合わせていました。アレックスさんからは直接戦争に関する話はお聞きしませんでしたが、彼の戦争体験は前日にいただいた冊子に書かれていたので、だいたいの話は頭に入っており、状況を理解することができました。戦争被害者は自らの戦争体験を毎回すべて語るとも限りませんので、事前に冊子を読むように言われたことの重要性をこの時実感しました。


 その後、パガオ(Pangao)の村役場に向かい、そこでJuana Litan村長にお会いしました。その後、村長さんと一緒に慰霊碑を設置予定である小学校へ向かうことになりました。


 私たち一行が学校に着くと、まっすぐ校長室に向かい、アレックスさんと村長さんが校長先生に記念碑設置の進捗状況を聞き始めました。同校構内への碑の設置は校長一人の権限では決められないので関係者と相談して決めるとのことでしたが、具体的な設置場所の提示がありました。私はこうしたやり取り横から眺めているだけでしたが、非常に実りのある訪問であったことが感じられました。


 その後、他のBFP参加者はバウアン(Bauan)へ向かいツアーを続けたのですが、私は仕事の関係で翌朝の便でシンガポールへ向かわねばならず、朝に寄ったショッピングモールに隣接したバスターミナルまで送ってもらい、そこで今回のツアーとはお別れとなりました。
 本当に短い期間でしたが、ネグロスにもリパにも行けましたし大変濃密な時間を過ごすことができました。この旅に集まってきた方々も大変個性的で豊かな経歴をお持ちの方が多く色々と刺激を受けました。また、BFPの運営が大変丁寧で、エミリオさんにお会いする前に事前学習をしたり、アレックスさんにお会いする前に冊子の該当部分を読むように勧めてくださったり、私がシンガポール・マレーシアで行なっている戦跡ツアーの運営にとっても大変参考になりました。
 今回、マニラの追悼式典に参加できず残念な思いがあり、今後も機会がありましたらぜひ参加したいと思っています。この度は大変貴重な経験をさせていただきまして、本当にありがとうございました。
| フィリピン訪問レポート | 21:02 | comments(0) | - | pookmark |
BFP2020年度 フィリピン・ツアーに参加して(伊吹由歌子)
NPOブリッジ・フォー・ピースが誕生して15周年の今年、最初からの会員である私にも、多様に意義深いフィリピン・ツアーでした。参加させていただくのは、2011年からです。2007年から、日本軍に捕らわれた米軍の元捕虜とそのご家族・遺族の旅に参加して、米側の体験を聴き、「バターン死の行進」の跡を辿り、収容所や牢獄、また沈没輸送船の記念碑建立にも参加して、戦時の日米軍の戦闘も学びました。

しかし、元捕虜の方々のご参加が困難となり、BFPのツアーに参加させていただくと、フィリピンの方々とお会いし、とくにマニラ市街戦を体験された方々、戦争末期の絶望的な状況で起きた、ルソン島南部の村々の住民虐殺の体験者、ご遺族にお会いすることになりました。慰安婦とされた女性たちが集い、おしゃべりを楽しみながら作業する場・リラ・ピリピーナをお訪ねする機会にも恵まれたこと思い出します。

今年は、代表・神 直子さんの復帰ばかりか、ご一家勢ぞろい。2018年にデビューして日比親善大使だったトシ君も、今年4月から小学生に。「学校休んで来ますよ」と頼もしいお父様。利発なトシ君、「ゆかこさん」覚えていてくれて有難う!とても嬉しかったです。

2月11日から16日の日程で、メモラーレ・マニラの追悼式典は2月15日。出発一か月前ごろリパ市のご遺族アレックスさんに電話したところ、「いま近くの火山が噴煙をあげており、ラジオの情報を緊張して聞いている」と思いがけない事態が判明しました。マニラ空港では便のキャンセルも相次ぎ、ツアー中止となるおそれもあったのですが、7名で無事に決行できました。ただし、2月15日というのは、毎年、シンガポールの華僑虐殺犠牲者追悼式が行われる日です。毎年それにも出席する2名には災難で、渡辺さんは13日に移動を与儀なくされ、私は断念しました。

状況不安定のなか、直子さんがプログラムを柔軟にご準備くださり、11日は、マニラからネグロス島へ飛び、翌日、マニラ市街戦の生存者を現地でお訪ねすることに。(成田発組は都合よい便がなく、私は無理と判断し12日の夜、マニラのホテルで皆さんと落ち合うことに。)渡辺洋介さんは、是非 参加したく、若さにまかせ夜8時半のネグロス便をとられました。その間のマニラでの空き時間に、運良くも、BFPサポーターで、戦時中敵国民間人として抑留され、ご家族を失った英国人ロデリック・ホールさん、渡辺さんと、2時間ほどゆっくりお話することができました。ロッドさんはFilipina Heritage Library(太平洋戦争専門の図書館)に「ロッド・ホール・コレクション」の名で、日本で出版の図書・資料を寄贈しておられ、BFP取材班が撮りためた資料の一日も早い活用を支援したいと望む方です。15に日直子さんとの面談の約束が整い、メモラーレマニラ会場でお2人の話合いが実現しました。12日、マニラのホテルでこの数年参加してカメラを回してくださるBFPメンバー・刀川和也さんと、私も合流しました。

13日からはジュンさんという笑顔の良い最高のドライヴァーさんにお世話になりバンでの行動。バタンガス州リパ市、及び、バウアンへの出発。2日後に戻るホテルにスーツケースを預け楽な旅は、まず近くのロビンソン・デパートでお土産ショッピング。フィリピンの物価の安さを実感。直子さんがお菓子類の大きなケースを3個も用意したのは、あとで行く子供養護施設へ持ってゆくためでした。アレックスさんはこの半年ほど、フロリダの大学で医学を学ぶ3男のヴィンセントさんと暮らしておられ、とても落着いてお元気そうでした。お宅で自己紹介のあと、ランチにご招待くださり、渡辺さんは残念ながら明日シンガポールに飛ぶためその後、高速バスでマニラへ。一同はまずバランガイ(郡)の長、フアナ・リタン郡長のオフィスへ。郡長の妹さんなど村人をまじえた数人と、届いた食品の整理中のようでしたが、皆さん、笑顔で大歓迎してくださる。飲み物、スナックなど振舞いつつ、直子代表と郡長は契約書類のやりとりをなさったようです。一休みの後、近くにある放置されたバナナ園へ、アレックスさんの父上、年上の従兄などが眠る井戸へ、お参りに。平たいコンクリートで蓋がされた井戸。内部の崩壊が懸念されており、しっかり補強がされる予定です。
涙しつつ、率先して、蓋に積もった落ち葉や枝を取り除く直子さん。BFPの原点を観た思いでした。そこから近くの学校へ。改築を願うこの学校にBFPの基金を一時転用してご活用いただき、合わせて敷地内に、戦時の事実を記した記念碑を設置していただくという名案が、アレックスさんの尽力で、昨年できておりました。戦争の悲惨、平和の意義を若い世代にぜひ知ってほしい。そのために最高の案があたえられたのでした。実際には、BFPのこの動きで行政が動き、すでに改築は立派になされた学校で、校長はじめ先生方の歓迎と感謝を受けつつ、美しい校舎、記念碑を設置する予定地を見学させていただきました。
アレックスさんとヴィンセントさん。名残りつきないお2人に別れを告げ、さらに南のバウアンへ。ちょうど夕食時分に到着する。まずホテルへチェックインに向かうと、直子さんのサポーターさんが、4人で待っていてくださった。戦時中に虐殺の行われたカトリック教会の、昔は僧院だった建物が現在は小学校、ハイスクールになっており、そこで主任的な役割を担う先生、そしてその教え子さん3人のようである。みなさん、暖かいお人柄の若者たち。チェックイン後、近くのレストランで待っていてくださった彼らと早速、交流が始まった。この夜、私は佐々木苺乃さんと同室となり、いろいろお話ができたのは、とても嬉しいことでした。



14日。昨日お会いしたお弟子さんのひとりが、バウアンの戦争記念碑、教会をガイドしてくださる。もう何度目かのバウアン訪問だが、その場に立ち、当時をしのび、祈ることでまた新たな力、思いを与えられます。会堂には地元の信徒の方々がそれぞれ、深い祈りをささげるお姿が。記念碑ではご両親の説明を受け、考え込むトシ君。「僕は戦争をやめさせる」と銃を構えた兵士の像のまえで、両腕を広げて誓いました。昨夜お会いした主任教授のクラスを訪問、直子さんが生徒たちに語り掛け、素晴らしい交流でした。



フィリピンのメディアによる直子さん取材タイム。そののち、最近亡くなられた虐殺事件生存者のご遺族をお訪ねする約束ができており、全員でマーケットで白いブーケが整いました。ご遺族は一家みなさんで待っていてくださる。息子さんたち、ご長男の奥様かと思われる女性。いかに亡くなったご高齢の男性が家族に愛され、生き生きしたお人柄であったか、初めて者にもよく伝わりました。このような愛情豊かな家族、なんと素晴らしい人生があるのでしょう!
その後、親の無い子、事情があって親と一緒に住めない子供たちの養護施設は行く予定となっており、途中のファミレスでドライバーのジュンさんを交えて楽しいランチ。しかし、ここからが大変な交通渋滞。この日は2月14日ヴァレンタイン・デー。フィリピンでは、重要な家族の大イベントであることが実感できた。予定を変更し、明日のメモラーレマニラの後に子供たちを訪ねることにして、ホテルへ。夕食とショッピングを兼ねてロビンソン・デパートへ。浅井さんとトシ君が明日のため整えたフィリピン男性の正装、バロン・タガログ。その実用性と美しさがよくわかった。

15日。朝8時半から、メモラーレ・マニラ記念碑の前で式典が開かれる。昨年10月まで事務局長さんはJoan Orendainさんであった。その後、もっとお若いDesiree Manipayoさんに交替。昨年は委員会の長年のメンバーで、ドイツ人として抑留されたEdgar Krohn さんがご逝去。最近また、Jim Littonさんが亡くなられた。でも、故チャド大使の未亡人が娘さんとともにお元気な笑顔を見せてくださり、昨年は欠席だったDr. Legardaも手術後ながらご列席。ロッドさんと直子さんは無事に再会、直子さんが用意した資料を渡し、今後の進展が期待されます。

最近、米軍と比軍の合同演習が盛んにおこなわれているフィリピン。これまで、比軍兵士のバンド演奏、銃による儀式、国旗入場・退場、トランぺッターによるタップス演奏、など、毎年行われた。今年の式典に初めて米軍第一騎兵師団Kevin Black大佐が出席。大佐と直子さんは中央で隣席。久しぶりに演壇に立った直子さんのスピーチ。豊かで若い声が、住民虐殺の事実への深い悲しみと真心こもる謝罪、日本人との共有へ力強い思いを十分に伝えた。デジレー新事務局長も、Naoko’s speech was excellent, brought so many people to tarsとコメント。こののち、マラテ教会でのおミサに出席したが、これも新しいプログラム。その後、恒例のようにジャーマン・クラブでの昼食会にBFPも出席予定であったが、お詫びをしてこれは失礼する。

BFP2020年ツアーの最後を飾ったのは、ブラカン州の養護施設・サン・マルティンの訪問です。直子さんが初めてのフィリピン・ツアーで通訳としてお会いになったアリエル・ヘロニモさん。ボイエット神父さまにご挨拶。アリエルさんは心理学を学び、心に屈折を抱える子供たちのリーダーを養成する大学講座をもっておられると伺いました。しかし、要は、「一緒に遊び、愛情を注ぐ。それに尽きる。そのために、いまほしいのがウォール・クライミングの設備だ」とその構想を話してくださいました。
自然を慈しみ育てる環境のなかで、美しい花々、樹木、快適で清潔、整頓された建物群に囲まれて、生活し、音楽を楽しみ、スポーツや、勉強をする。年長者、先生方、職員さんたちに、手を、心をかけてもらいつつ、自分も人に手を貸す子供たち。しかし、親を慕い、寂しさを抱える供たちでした。「あまり計画することはない。すべては、神様が整えてくださる。」と心から、語られるアリエルさんでした。息子さんは広島の大学で学んでおられ、広島平和公園内での、英語によるボランティア・ガイドもなさる。その息子さんが、近く、帰ってこられるのを楽しみにしておられました。まるで奇跡のような、楽園そのもののサン・マルティン。圧倒され、感謝しつつ、思いにふけりつつ、後にしたのでした。
最後のディナーはマニラ湾に面したホテル庭園のレストランでゴージャスな料理とおしゃべりに最高の時を過したのでした。翌朝のミーティングで感動のときを持った後、ジュンさんのバンへ。フィリピン国立大のカルガニーラ教授は、毎年、よく、BFP参加者を学生とのランチに、また授業へと招いてくださる方。この日は、彼のお弟子さんで直子さんの友人夫妻がトシ君と同年齢のお子さんとともにロビンソン・デパートのカフェで再会。一同楽しい時を過し、お土産購入も。思い出と感動いっぱいのBFP2020を無事に終了し、この後も撮影のお仕事で残られる刀川さんとお別れ。残る直子さんご一家、佐々木苺乃さん、私は空港で、3月29日東京のJICAで行われるBFP報告会での再会を約しつつ、お別れしたのです。衰えを感じつつの私、みなさま、お世話になり有難うございました。
| フィリピン訪問レポート | 20:40 | comments(0) | - | pookmark |
20年の節目だからこそ感じられた事と、得られた3つの収穫(神直子)
 今年のBFPフィリピン・ツアーは、初訪問から20年という節目の年でもあり、特別な思いをもって決行しました。直前には訪問予定地近くのタール火山が噴火し、その後コロナウィルスが世界的に広がり始めたので心配もありましたが、思い切って行って良かった、と心から思えるツアーとなりました。このような状況下にあっても行くことを決断してくださった伊吹由歌子さん、佐々木苺乃さん、刀川和也さん、渡辺洋介さん、現地で合流してくださった方々、そして私の家族二人。皆さんが同行してくださったからこそ、現地の方々にBFPの想いや活動を的確に伝えられるツアーになりました。
 本当にありがとうございました。

 まずは、20年という節目だからこそ感じたことを、記録に留めておきたいと思います。

 20年という月日が流れた事により、学生で経験の浅かった自分から、社会人になり様々な仕事や苦難を体験し、そして母親になるという大きな変化がありました。それは20年前に出会った方々も同様で、まだ小さかった私のホームステイ先の子供たちも結婚をして母になったり、山村で暮らしていた少女が今は中東のサウジアラビアで仕事をしていたりと大きな変化があることを今年に入って知りました。


 また、学生時代の初訪問時に通訳としてツアーに同行していたフィリピン人のアリエルさんから
「直子が戦争被害者の話を聞いて泣いているのを見て、この子は将来きっと何か行動に起こすなと思っていたよ。それがBFPに繋がったと知ったとき、やっぱり!と思ったんだよ」
と、20年経って胸の内を明かしてくださいました。昔の自分を知っている人がいるというのは、それだけで何だか心強く感じるものです。そんな風に思ってくださっていたんだと嬉しくなりました。

 そして今回20年という時を経て、当時私たちの目の前で号泣された、元市長のエミリオさんを訪問しました。学生だった私たちは、訪問先で市長室を表敬訪問するのが常でした。過去の戦争のことを学びにきたと自己紹介する私たちの話を聴きながら、突然大粒の涙を流し始めたのがエミリオさんでした。泣き止んで話し始められたのは、あまりにも悲惨な戦争の話でした。マニラ市街戦に巻き込まれ、目の前で父親が日本兵によって銃剣で刺殺されたこと。父親が覆いかぶさって自分を守ってくれたが、父親の血が自分の身体にしたたり落ちてきたこと。あと数センチの差で、自分も刺されていたかもしれない状況だったこと。一緒に涙を流しながら、お話を聴かせて頂くのが精一杯でした。

 当時の話を振り返りながら、エミリオさんは今回こうおっしゃいました。
「学生の君たちが、謝罪してくれた初めての日本人だったんだ」
「驚いたよ。事前に先生から訪問の手紙を受け取っていたけれど、感情を抑えられなくなったんだ」
「君たちの中から、政府の役人になって関係性を変える日が来るかもしれない。そう思えたよ」 
 そしてBFPを始めたことを評価してくださいました。


 年月を経て再会でき、昔のことを共有できる人達がいるということは、なんと豊かなことだろうと心底思いました。そういう意味でも年齢を重ねることの素晴らしさを実感するツアーでもありました。

 次に、得られた収穫について、振り返ってみたいと思います。第一に挙げられるのは、今回の旅の目的でもあった慰霊碑建立の進展です。第二は、多世代でツアーが実現できたことです。そして最後に挙げたいのは、繰り返しになってしまいますが、悪条件にも拘らず参加してくださった会員の皆様の参加についてです。

 まず、慰霊碑建立の進展についてですが、経緯の詳細はこちらをご覧頂けたらと思いますが、1945年2月にスパイ容疑をかけられた男性が、日本兵によって早朝に集められ、井戸の前で銃剣により刺突されそのまま井戸に放り込まれるという残酷な事件が起きました。その井戸の現場に墓標などなく、風化が危惧されている状況でした。そこで2016年に寄付を募り、お金を遺族に託すことでその設立状況を見守ってきました。しかし、井戸のある土地の権利関係などがややこしく、難航。その後、町役場に建てる案や、学校脇に建てる案が浮上しては、消えていきました。BFPとしてはお金を託している以上何とか建立に辿り付いてほしいと願うものの、日本人主導ではうまくゆかないのは目に見えているので、毎年訪問する度に状況確認に行き、遺族でもあるアレックス・マラリットさんに頼るしか方法はありませんでした。そんな中、迎えた今回の訪問。

 設置予定地である学校を訪ね、校長室に招き入れられ、具体的な場所を提示されました。そこは校門に入った処で、通学する子供たちが必ず見る場所です。ここならば、次世代に継承する意味でも素晴らしい意味をもつのではないかと感じました。アレックスさんも、 「なかなか進まないけれど、今回は一歩前進だと思うよ」 と前向きな感想を述べておられました。実現までもう少しのところまで、来たのかなと思います。晴れて設置された日には、設置費用を寄付してくださった皆様もご招待し、ぜひ大勢で訪問したいと考えています。

 次に、多世代でツアーを実現できたことが、収穫の一つに挙げられます。息子は4歳の時に初めて一緒にフィリピンを訪れており、今回は6歳になった彼にとって3度目のフィリピン訪問でした。少し大きくなったことで、これまで以上に状況把握ができるようになってきたと感じました。
 アレックスさんのお父様が眠る井戸にお参りに行った時、アレックスを含めて大人たちが神妙な面持ちになったのを見て何が起きたのかを聞いてきました。戦争で日本兵によってたくさんの人が殺され、アレックスのお父様がここに眠っていることをできるだけ分かりやすく話しました。
すると、
「なんでお墓なのに名前がないの?」
と尋ねてきました。
 それは、まさに私が初めてこの場を訪れた時に思ったことと全く同じことでした。息子が行ったことのある先祖のお墓には、必ず墓標があり、そこで遺族が手を合わせます。アレックスのお父様が眠る井戸には名前がないどころか、草が覆い茂っていて、死者を弔うには悲しすぎる環境にあります。だからこそ、前述の慰霊碑設置をBFPから提案させて頂いた背景がありました。
そして、
「お菓子を持ってくればよかった」
と言って、手にもっていたペットボトルの蓋をあけ、井戸にお水をあげていました。


 そして我が子だけではなく、なんと今回はアレックスさんの息子さんも、ツアーの一部に同行してくださるという嬉しい出来事がありました。アメリカの大学に通う息子さんは、当初帰国予定だったのですが、タール火山の噴火やコロナウィルスなど様々な要素が重なって、一人で暮らす父親を残す不安からか、フィリピンに残る決断をしていたのでお会いすることができました。井戸にも一緒に行ったのですが、聞けば訪ねるのは初めてとのことでした。彼にとったら、おじい様が殺された現場ということになります。高齢のアレックスさんに何かあったら、誰とこのプロジェクトを進めていけばいいだろうかと危惧していた私にとって、このタイミングで息子さんとお会いできたことは本当に幸運な事だと感じました。このように、当事者世代から、子供世代にBFPの活動が伝わっていった初めてのツアーになったと感じました。

 そして、三つ目にあげられる収穫は、会員の皆さまの参加です。毎回思うことでもあるのですが、もし私が一人でフィリピンに毎年行っていたとしても、現地の方々は活動の広がりを感じてくださることはないでしょう。毎年のように訪問するBFPが、新しいメンバーと、又は懐かしいメンバーでフィリピンに行く。このことがもたらす効果はとても大きなことであると感じています。

 活動を始めて、ある程度の月日が経ってから
「BFPの人たちは、毎年フィリピンを訪問してくれている」
とフィリピン人が別のフィリピン人に紹介してくださるようになりました。ああ、彼らは私たちの本気度をみていたんだ。そう感じました。

そしてある時は
「直子もきっと、子供ができたら活動をやめちゃうんでしょう?」
そうフィリピン人に聞かれたこともありました。そんなことはないと、すぐ否定しましたが、確かに自分のその後の状況が読めなかったので、そう聞かれたことに驚いた記憶があります。でも最終的には理解あるパートナーのお陰で、活動をやめるどころか、子連れで活動を継続している自分がいます。特に今回は、マニラ市街戦の追悼式典で私がスピーチした後、私をエスコートするように迎えに来てくれた息子の姿がありました。その光景を見たフィリピンの方々から、
「きっと彼は活動を継承してくれるわね」
と笑顔で話しかけられました。もちろん、彼の将来は彼が決めること。たとえそうならなかったとしても致し方ないことですが、少なくともそういう印象を持って頂けたことは、彼に同行してもらったことに大きな意味があったんだと感じ、嬉しく思いました。ツアー参加者の方々もあたたかく息子の存在を受け入れてくださり、本当にありがたく思いました。

 一人ではなし得ないことを、皆さまと一緒に育んできた年月を、改めて感じることのできたツアーとなりました。今回ここでは述べませんが、新たな訪問先で素晴らしい体験もしました。次回以降のツアーでは、毎回訪問しようと決意したほど、インスピレーションの得られる素敵な場所。他の方のレポートにあるので、今回はぜひそちらをご覧頂けたらと思います。

 多くの収穫があったことをご報告し、レポートを終わりにしたいと思います。ツアーの成功、安全を祈念してくださっていた皆さまも、本当にありがとうございました。
| フィリピン訪問レポート | 21:45 | comments(0) | - | pookmark |
CALENDAR
S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< March 2020 >>
LINKS
RECOMMEND
私たちが戦後の責任を受けとめる30の視点
私たちが戦後の責任を受けとめる30の視点 (JUGEMレビュー »)

BFPとしても2章書かせて頂いています。ご覧頂けると嬉しいです。
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
PROFILE