今回、私は初めてBFPフィリピン・ツアーに参加しました。
その役目は息子(6歳児)の子守り。あとは場を盛り上げる、言ってみればチアーガール(^_^)。ハイ、気楽な立場でした。
ただ置かれた状況は、火山の噴火あり、コロナウィルスの状況悪化ありのけっして気楽なものではなく、飛行機に乗る人たちの表情にもなんとなく硬いものがありました。
マニラに到着後はネグロス島行きフライトのターミナルに移動です。
当時日本は世界中から「アブナイ国」と見られていました。だからわれわれ日本人は体温測定器を持つ係員に呼び止められて額に当てられます。息子も神妙な面持ちで測定器を当たられていました。幸い私たちはひとりも高熱を出す者はなく無事に機上の人。
すると、息子が言います。
「パパ、操縦室に入れるようにパイロットに頼んで!」
「いい子にしていると客室乗務員が応援してくれるかもよ」と私。
安定飛行に入ると、私は客室乗務員の詰所に行き、雑談から事前交渉。
「了解。わたしからパイロットに言っておくから降機する際にもう一度声をかけて」とひとりが言ってくれました。
着陸すると競って降機する乗客を尻目に前方に進み、先ほどの女性乗務員に話しかけました。
すると、彼女からパイロットに話が通っており、われわれは操縦室に招じ入れられました。
現実に見るホンモノの操縦室に息子は息をのんでいます。それでも、操縦席に座ることを許されると緊張気味ではありましたが、しっかりとした口調で「Thank you」と言えました。
そんな息子の姿を見る私の顔は、間違いなくデレデレ弛緩しきっていたはずです。
その夜は、20年前に大学生であった代表の神直子(以下、直子)がホームステイした家庭の子供のひとりが遠路会いに来てくれました。
あつ〜い抱擁→再会。当時は子供であった彼女も今では小学校の先生。ふたりは本当に懐かしそうに再会を喜んでいました。
翌日は朝早くからコケコッコ〜 !の鳴き声の大合唱で目覚め。
そう。フィリピンはニワトリの国なのです。卵を産ませたり、肉として食べたり、また闘わせたりと、まあいろいろな目的でニワトリが多くの家庭で飼われています。
フィリピンは常夏です。2月でも気温は30度にまで上がります。
朝食後、「プールで泳ぐ!」という息子に連れられて私たちはひと泳ぎ。水がかなり冷たくて気持ちがピリッと引き締まりました。
ひと泳ぎした後は部屋でツアー参加者とミーティング。その日に会うことになっている、先の戦争の被害者であるエミリオさんと直子との20年前の映像を見て、直子からいろいろな説明を受けます。
エミリオさんは当時エミリオ市の市長で、学生であった直子たちの訪問を受け入れる立場でした。その出会いに関しては、直子の訪比報告をお読みください。
エミリオさんの息子さんがホテルにまで迎えに来てくれて自宅に連れて行ってくれました。少し前に脳梗塞を患われたとのことでしたが、エミリオさんは元気な姿でご家族と一緒に私たちを出迎えてくれました。私たちのために昼食まで用意されていました。
昼食後、エミリオさんが当時9歳であった75年前の首都マニラでの体験を語ってくれました。
「日本兵は私たちフィリピン人を集めて銃剣で刺し殺し始めました。子供も大人も構わずにです」「父は私と母をかばって日本兵の銃剣に刺されました。銃剣は父の体を貫通し、剣先が私の体に刺さりそうでしたが、父は身を呈して私を救ってくれました。母は血まみれで卒倒していたので日本兵は死んだと見たのでしょう。命拾いをしました」
エミリオさんの証言は聴くに堪えない恐ろしい話です。6歳児の息子には到底理解できない話でしたが、その深刻な空気は分かったようでおとなしくしていました。と言っても、実は私自身がエミリオさんの体験を文章化した証言を読むうちに大きな衝撃を受けたために息子の表情を観察する余裕を失っていました。
エミリオさんの「戦争は男たちを狂わせる」「母が生きていたら絶対にあなたたち日本人と会うことはなかったでしょう」などの言葉は証言ヴィデオで聴いていましたが、直接本人の口から聞くとその重さに私の心は圧倒されてしまいました。
数日かけてもお話を聞きたい気持ちでしたが、エミリオさんの体調を考えて後ろ髪を引かれる思いで長居をせずにお暇(いとま)しました。
グループはその後空港に直行。マニラに戻りました。
その夜、宿泊するホテルから隣のレストランに向かう際、我々の前に数人の子供たちが立ちはだかりました。彼らの小さな手は我々に向けられています。お金を欲しがる小さな手は遠慮なく息子にも向けられます。
「しまった。この事を事前に説明してなかった」
私は反省しながら「レストランに入って説明しよう」と息子の手を引きました。
レストランの中で子供たちの置かれた状況を説明。「おこずかいからお金を上げることになるけどいいかな?」と息子の意見を聞きました。
「うん。上げたい」
金額にすれば少額ですし、それが最善策かは私にも分かりませんでしたが、息子の意見を尊重して子どもたちにお金を上げることにしました。
コインを手にした息子は神妙な面持ちで子どもたちに手渡しました。
翌日からの2日間はマニラから南下、リパ市とバウアンを訪問しました。戦争被害者や遺族との面会と殺戮現場の慰霊訪問をするためです。それに加えて慰霊碑設置の進捗状況を知ることも目的のひとつでした(これも詳しくは、直子の報告をお読みください)。
遺族のひとりのアレックスさんは以前に会っているため、息子にとっては「旧知の仲」。自分から彼に近付いて膝にもたれかかったりします。その光景は日比友好、平和の象徴です。
直子の報告にもありますが、アレックスさんのお父上が眠る殺戮現場でも息子は「何か深く感じる」ところがあったようです。また、日本軍によるバウアンの教会施設爆破の慰霊碑を訪れた際も同様でした。
彼は銅像の前で木の枝をかざし、「戦争を止めてあげた」と言ったのです。
その枝は抗日戦士の銅像が持つ銃の銃口に置かれていました。大人からすれば一本の枝で戦争を止められるはずはありませんが、6歳児なりに一所懸命に考えた上での行為でした。
アレックスさんとはかねてより直子が「絶対に会ってもらいたい人」と言っていただけに会えるのを心から楽しみにしていました。そして実際に会ってみると、「話し方」「気の遣い方」「ユーモアのセンス」それら全てにfall in loveしました。短い間ではありましたが非常に心地よい時間を過ごすことができました。
リパを後にした我々はマニラに戻りました。
75年前のマニラ市街戦で起きた惨劇を悼む「メモラーレ・マニラ」という記念式典に参加するためです。
それまでフィリピンを占領していた日本軍に圧倒的な戦力を持つ米軍が襲いかかり、十分な武器弾薬も食料もなく指揮系統も崩壊した日本兵たちは、無防備の地元民に性別や年齢に関係なく牙を剥(む)いたのです。そして10万人以上の命が奪われました。
戦闘に巻き込まれて亡くなった方もいましたが、恐怖と餓えでまさに餓鬼と化した日本兵が老若男女に襲いかかり、圧倒的な数の市民が虐殺されたのです。その中に前述のエミリオさん一家が含まれていました。
マニラ市を挙げての記念式典です。米国からも政府や軍の関係者の出席がありました。しかし、残念ながら一番責任の重い日本政府を代表する存在はなく(献花すらありません)、今年もまた日本から唯一組織として参加するブリッジ・フォー・ピースに大きな注目が集まりました。
直子には献花式の参加のみならず、スピーチをする大役が課せられていました。
前夜「スピーチを聞いて」と言い直子は部屋でリハーサルをしましたが、はっきり言ってその出来具合は「う〜む」。
こういう場合、いつものことですが、直前に行なう私の助言は無責任でいい加減なものです。
「まだ完全に頭の中で(何を伝えたいか)明確になっていないね。でも、大丈夫。直子は本番に強いし、自分を信じて頭に浮かぶことを素直に言葉にすれば君だったら思いは伝えられる。大丈夫、大丈夫」
その時、別に私には直子が思いを伝え切ることが出来るとの確証は何もありませんでした(笑)。
本番当日。息子と私はフィリピンの民族衣装を着て、直子のお供として会場に向かいました。
予定通りに始まった式典は順調に進み、いよいよ直子の出番です。
私は直子のスピーチを少し近い所でヴィデオ撮影したくて、息子と一緒に来賓席を立ち演台に近付きました(おそらくルール違反です。主催者さん、ごめんなさい)。
スマートフォンでの撮影でズームインするとブレてしまうので苦心していると、スピーチが始まりました。
タガログ語での挨拶に始まり、英語で自分の20年前の初訪問から様々な方たちとの出会い、活動の経緯へと話を進めます。
「よしよし。いい出だしだ」が「話の転換もスムーズだな」に変わり、「被害者や遺族の方たちに想いが届く内容だ。いいぞいいぞ」と(すべて私の頭の中の無言のひとり言ですが)思う内に何となく目頭が熱くなり、取り乱してはいけないと気持ちを整えていると、スピーチが終わりました。
遺族や来賓を含む参加者が立ち上がって拍手をしました。
熱い拍手を聞いて息子の気持ちに火がついたようです。
「ママのところに行っていい?」と僕の耳元でささやきます。
頷くと、彼は10メートルほど先にある演台に立つ直子のもとへ一直線。そして、直子の手を取ると、そのままテントの下の来賓席までエスコートしました。着席させると、息子は何か小さなものを直子に渡しています(後で直子に聞くと「サンパギータのお花をくれたの」とのことでした)。サンパギータというのは、ジャスミンの一種の可憐な花でフィリピンの国花です。おそらくどこかで拾ったのでしょう。
そこまでの「白馬の王子」ぶりを期待していなかった私はまたまたじ〜ん。完全にやられてしまいました。
ここまで読まれて、私の親バカぶりに呆れ返っている方も少なくないでしょう。もうこれ以上読み進みたくないと思われている方もいるかもしれません。
言い訳がましくなりますが、親バカになるには理由があるのです。
実は、息子は超未熟児で生まれ、その後多くの難関を乗り越え、医師団が驚くような成長を見せてきたのです。だから、こういう成長の一つひとつが奇跡に思えてしますのです。
親バカぶりをあえてご紹介するのは、もうひとつ理由があります。
それは世の中に数多(あまた)いる絶望の淵に立たされている方たちに、「一筋の光明」を感じていただければ、との思いです。私たち夫婦は「絶対大丈夫」と信じていましたが、医師達は息子の行く末を何度も案じました。そんな状況を乗り越えての成長があるのです。もちろん、信じ込むだけで全てがうまく行くはずはありませんが、どんな時でも希望を持つことの大切さを伝えたいのです。
ツアーの最後にマニラ郊外にある養護施設を訪問しました。
親を失ったりして行き場をなくした幼い命。親から放置されてストリートチルドレンになり、生きるために大人に媚を売り、犯罪に手を染めてきた子供たち…そのような境遇の子供160人を18歳まで預かり、社会の荒波を生き抜く術を身に付けさせて世に出そうと頑張っているホームです。
ここは直子の20年前の初訪問時に通訳をかってくれたアリエルさんという男性が、その後多くの方の支援をまとめ上げて造った素晴らしい施設です。
アリエルさんはいい笑顔で我々を迎えてくれました。その周りには、”悪ガキ”どもが群がっています。
私はこういう悪ガキが大好きなので、おそらく向こうもその辺を感じたのでしょう。集まってきました。
中のひとりが私を見上げて聞きました。それも日本語です。
「カネモチ?」
その時の私の服装はフィリピンの伝統衣装でした。
あくまでも推測ですが、彼は路上生活をしていた時、日本人男性を見るとこう言って小金を請い、成果があったのでしょう。
彼は私に小遣いを欲しがることはしませんでしたし、たとえそうされてもそこでは控えましたが、その時の彼の表情と声は今も耳について離れません。
息子はそこにいる子供たちの置かれた境遇をよく理解できなかったかもしれません。ただ、我々の前に元気に飛び出してきて跳ね回るお兄ちゃんたちの姿に強烈な印象を受けたことは間違いありません。将来これが彼にどんな影響を及ぼすか楽しみです。
こうしてBFPフィリピン・ツアーはあっという間に終わってしまいました。今回の報告は、息子を通したものでしたので、個人的な旅への感想はまた違った形でお伝えできればと思っています。
これからも直子やその仲間たちが長きにわたってこのようなBFPツアーが続けていけるよう、またそれが次の世代に継承されていくよう尽力することを「決意表明」して、この報告を終わらせていただきます。