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BFPフィリピン訪問・参加者募集中!
お毎年恒例となった2月のBFPフィリピン・ツアー。2020年も実施します!


毎年、BFPらしく多世代で実施しており、
本当に賑やかで学びの多いツアーが実現しています。

●BFPフィリピン・ツアーの概要と目的 BFPフィリピン・ツアーでは、第二次世界大戦中に日本軍が駐屯していたルソン島を滞在拠点とし、現地フィリピン人と交流を深めます。まずは、フィリピンを好きになって頂けたらと思いますので、観光も楽しみながら、フィリピン人のホスピタリティや社会のあり方に触れる機会を作ります。

具体的には、マニラ市街戦の追悼式典に日本の組織として唯一公式招待を受けており、式典への参加や、被害の大きかったと言われるルソン島南部(バタンガス州)で当時の記憶を辿ります。【過去の戦争を知り、未来のかたちを考えるきっかけとなるツアー】です。

1.実施日時 2020年2月11日(火)〜2月16日(日)

2.ツアー参加費 60,000円(学生55,000円)
<宿泊費、交通費(ドライバー、車を全行程チャーター)、通信費、取材対応者御礼、プログラム・コーディネート費が主な内訳です>
*ただし、航空費、燃料サージャージ、パスポート取得、海外旅行保険加入費、飲食物、超過手荷物料金、チップ、ご自宅と集合地及び解散地間の交通費、突発的な移動費、お土産代、その他雑費は費用に含まれていません。

3.基本的な確認事項 ・BFPの活動趣旨の理解と賛同
・ツアー前の事前学習
・多様な文化や価値観の受容
・積極的な発言と参加
・プログラムへの協力的姿勢
・ツアー終了後のレポート作成
・やむを得ない事情がない限り、全工程参加
・1日の終わりに開催するミーティングへの参加

4.その他 ツアースケジュール及びプログラムは、現地の事情により変更になる場合があります。 スケジュール表は参加希望者にお渡しします。
お申し込みは コチラ からお待ちしています!
| フィリピン訪問レポート | 11:54 | comments(0) | - | pookmark |
2019年2月のフィリピン・ツアー

1945年2月、フィリピン・ルソン島では様々な悲劇が起きました。

 

2月3日から一ヶ月、首都のマニラでは日本軍と連合軍によるマニラ市街戦が起き、一般市民10万人がその巻き添えになって死亡したと言われています。また、ルソン島南部のバタンガス州ではゲリラ容疑で疑われた主に男性らが、日本兵によって惨殺される事件が多数起きています。 だからこそ、2月はフィリピンに想いを馳せ、慰霊祭などに出席させて頂くようにしてきました。

私自身の渡航が叶わないときでも、理事またはBFP会員の誰かしらが手を挙げてくださり、関係性を繋いできました。 そして数年前くらいから、フィリピンの方々が私たちを紹介するとき 「【毎年フィリピンに来てくれている】ブリッジ・フォー・ピースの人たちです」と枕詞をつけてくださるようにようやくなりました。やっと活動を認めていただけた、と嬉しく思っています。

 

今年も代表である私自身は、別法人の仕事で多忙となってしまい、どうにも渡航が叶いそうにありませんでした。しかし、メーリングリストで呼びかけたところ複数の方々が手をあげてくださいました。中には、

「どうしても誰も行けずに難しい状況にあったら、声をかけてください」

と心強いメールをくださった働き盛りの世代の方もいます。結果的にその方を頼らずにすみましたが、そういう声をかけて頂けるだけでも心持ちが全く違います。まさに、BFPは会員や支援者の皆様に支えていただいて、ここまで歩むことができました。


最終的に、長年にわたってBFPを支え続けてくださっている会員の伊吹由歌子さん、そして昨年フィリピン渡航をご一緒してくださった刀川和也さんが渡比を決断してくださり、さらには理事である一橋大学の中野聡先生がメモラーレマニラの式典でのスピーチも快くお引き受けくださいました。


また、現地ではNPOサルボンの今泉光司さんも合流してくださり、様子を撮影してくださいました。 その映像がこちらです。中野先生のスピーチは、参列されていた多くの方々の心を打つものだったと聞いています。ぜひご覧ください。


当初、式典への参列だけでもお願いできたらと思っていましたが、ルソン島南部のリパまで皆さんで足を運んでくださると聞き、とても嬉しく思いました。83才になられたアレックス・マラリットさん(お父様を目の前で日本兵に連行され、殺害された遺族)の容体が気にかかっていましたし、事件の慰霊碑建立のその後の計画が気がかりだった為です。

 

親戚が集まる日だったにも拘らず、アレックスさんが皆さんを歓待してくださったこと、そして慰霊碑建立のその後についても少しだけ進展がある旨を帰国した皆さんからお聞きしました。

具体的には、フィリピン政府によるパンガオ高校設立計画が進む中、建設用地購入の費用としてBFPがアレックスに託した寄付金を借用する方向でもともと話が動いていました。現在の計画では、建設後、高校敷地内に慰霊碑を設置するというものです。現在、土地の交渉が進んでそうです。 今回、慰霊碑構想に関する説明書類を持ち帰ってくださいました。内容をよく読んで署名させて頂き、いよいよこれでBFPで集めた寄付金が現地に手渡されることになりそうです。ずっと気を揉んでいたアレックスさんも、これでホッとされるかなと思っています。

もちろん、今後も一筋縄ではいかないことは想定していますが、少なくとも足を運んでくださった皆様のお陰でまた一歩前進できましたこと、心から感謝しております。アレックスさんにも先ほどお電話したところ、BFPの皆様が足を運んでくださったことをとても喜んでおられました。


3日前の3月10日(日)には、Philippine Daily Inquirer に私が出てるとフィリピン人の友人から連絡があってびっくり。昨年、式典に出席させて頂いた写真と共にコメントなどが掲載されているとのことでした。ささやかな小さな活動しか出来ていませんが、少しでもフィリピンの方々の心に届くものがあれば、これほどありがたく、嬉しいことはありません。

活動を始めた当初、恩師の関田寛雄先生から言われました。

「戦争で受けた傷は、ちょっとのことで癒えることはない。例え一人でも、心を動かすが出来たらそれはすごいこと」
その言葉を受けて、心してはじめたこの活動は、今年で15周年を迎えます。
| フィリピン訪問レポート | 13:29 | comments(0) | - | pookmark |
フィリピン人の心の内
今月4日から3泊4日、総勢6名でフィリピンへ行ってきました。

毎年2月に開催しているツアーとは異なり、歴史NGOフォーラムが主催する国際会議に出席するのが目的でした。ただ、せっかくフィリピンまで足をのばすのだから...と、ツアーで毎回訪ねているルソン島南部も訪ねることにしました。

国際会議での収穫はもちろんのこと、今回は「フィリピン人の心の内」をより深く聞けたことがとても大きかったです。特に、知り合って10年になるアレックスさんの深い気持ちを知る機会が得られたことは貴重なことでした。

アレックスさんと初めて会ったのは、2008年。

彼が最初から私を信頼していた訳ではなかったこと、父親が日本兵に殺された現場である井戸へ連れていくことに躊躇があったことは薄々感じていました。面と向かって本人に聞く話でもないのでこれまで触れずにいましたが、今回その事件の慰霊碑を建立することになっている町長さんはじめ職員の前で私がその話をしたとき、アレックスさんが「そうそう」と隣で苦笑いしながらうなづいていました。それを見た時、やっぱりそうだったんだなぁとしみじみ思いました。


自分の父親を殺した日本人に対し、最初から心を開ける訳はありません。

アレックスさんが、そのような背景を持って私たちBFPと向き合い続けてきてくださったこと、心の葛藤を抱えながら私たちの行動を見守っていてくださったことに、改めて感謝の気持ちでいっぱいになりました。

また、アレックスさんとの出会いや、私がパガオの井戸へ初めて行った話をした際、職員の女性二人の目に涙が浮かんだことに驚きました。彼女たちは、恐らくその事件当時のことは知らないであろう年齢です。「祖父が亡くなったの」そう言うと、私とは目を合わせず遠くを見つめました。まだまだ癒えない傷が、事件のあった地域に深く残っていることを突きつけられました。

最後に、参加者の一人がアレックスさんに個別取材を申し込んだことから、彼の心の内をより深く知ることになりました。最初は快諾してくださったように見えました。しかし、その日の夜に私の携帯にアレックスさんから連絡がありました。すぐに電話に出られず、気づいたのも遅かったので、翌朝連絡するつもりで就寝しました。

すると、午前7時頃にまたアレックスさんから電話が鳴りました。「やはり取材は辞退したい」というのが主旨でした。BFPとしての取材は何度か受けてくださっていましたが、話すことで彼の心に再び生じる苦しみを、私はどれほど理解していただろうかと思いました。身を削って私たちに伝えようとしてくださっていたことが、改めてわかった気がしています。それだけの決心をもってこれまでカメラの前で証言してくださっていたのです。

このように短い滞在ではありましたが、大きな気づきを得る事ができました。

肝心の慰霊碑建立については、詳細を以下にアップしていますのでご覧頂けたら幸いです。
帰国直後に、建立費用を支援してくださった方々に向けて投稿致しました。
https://readyfor.jp/projects/bridgeforpeace1/announcements/81550

さまざまなご意見もあるでしょうが、私としては、以下2点を理由に流れはよい方向へ向かっているのを感じています。

1.当初、慰霊碑建立に積極的でなかったアレックスさんが、建立に向けてかなり乗り気になっており「私のプロジェクト (my project)」とまで今回表現されました。そのアレックスさんが、今回パガオ町からの提案を「犠牲となった人たちの孫やひ孫世代にあたる学生のためにもなる」と評価しています。

2.当初の慰霊碑設置場所での建立はさまざまな問題が生じ、行き詰まっていました。お金を託したアレックスさんも動きのないパガオ町に対して苛立ちを隠せず、もどかしさを募らせていました。もちろん最終的に建立されるまで、さまざまな課題は今後も生じてくるでしょうが、少なくとも形は違えど「一歩前進」したことは間違いありません。

お金を託してくださった方々の想いがあるので表現が難しいですが、誤解を恐れずにいえば、最終的には「日本人側がどうしたいか」よりも、被害を受けた方々にとって最もよい形におさまる事が重要だと考えています。

フィリピン各地で、日本人主導で作られた碑をたくさん見てきました。
その多くは、現地の人から見向きもされなくなっていましたし、一番最悪のケースは撤去され、設置された地蔵が首を落とされたりしていました。

フィリピン人の心の内、しかもその深いところを理解しなければ、このプロジェクトはうまくゆくものではないと感じています。「慰霊碑の設置を、僕は年齢的に見られないかもしれない」とアレックスさんが今回口にされました。

私は、必ずやアレックスさんと一緒に慰霊碑が建立された現場に立ち会います!
その時には、これまでのツアー参加者そして建立のためにご支援くださった皆様にも、ぜひご参加頂きたいと考えています。ツアー参加者総数は41名。支援者は48名。実際のところ全員が訪問するのは難しいでしょうが、たくさんの人がパガオ町を訪ねたら、それだけで平和へのメッセージになると感じています。

夢は膨らみます。
今後とも、引き続きあたたかく見守って頂けたら嬉しいです。
| フィリピン訪問レポート | 11:54 | comments(0) | - | pookmark |
BFPフィリピン・ツアー2018
今年2月に実施したフィリピン・ツアーのレポートです。
ぜひご覧ください。



多くの学び、発見、出会いがあった何にも代えがたい経験(天沼えり子)
活動を繋いでくださる会員の皆様への感謝(神直子)
出会いの豊かさのなかで(刀川和也)
「まだ戦争は終わっていない」と感じさせられたツアー(丸川拓己)
| フィリピン訪問レポート | 14:50 | comments(0) | - | pookmark |
「まだ戦争は終わっていない」と感じさせられたツアー(丸川拓己)
「Happy Birthday,Takumi」
初めての海外、初めてのフィリピンで、英語さえおぼつかない私に、ピアノを演奏しながらそう語りかけてくれたAlexさんのことを、私は一生忘れないだろう。


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私が参加したのは、2018年2月6日〜2月11日に行われたフィリピンツアーだ。地理歴史の教員免許を取得するにあたって、色々と見聞を広めてみたいという単純な理由から、第二次世界大戦に関する活動を行っている団体をネット検索して、BFPに連絡を取ったのがきっかけだった。他の参加者の方々のように長く戦争に関する研究や活動をしていたわけではなく、英語もほとんど話せないような私が、このツアーで何を感じ、何を考えたのかを、微力ながら書こうと思う。
私のこのレポートが、これからこのツアーや活動に参加しようか迷っている私と同じような人に伝わるような内容になっていれば幸いである。

私達がまずお会いしたのは、リパという街に住んでいるAlexさんという方であった。Alexさんは、戦争時お父様を戦争で亡くしている。Alexさんのお父様は、日本軍によって市民が利用していた井戸で虐殺されたのだ。お会いする前にその話を直子さんから事前に聞いていたため、私はお会いするのが少し不安だった。
しかし、実際にお会いすると、Alexさんは本当にうれしそうに私達を出迎えてくれた。英語が堪能で、また大変知的な方で、英語が全く話せない私にもわかりやすいように丁寧に当時のことを話していただいた。


「これとってもおいしいんだよ」と勧めてくれたココナッツを固めたお菓子を私がガツガツ食べていると、「たくさんあるからもっと食べなさい」とまるでおじいちゃんのようにニコニコしてくれた。
そんなAlexさんとともに、実際にAlexさんのお父様が日本軍によって虐殺された現場に向かった。そこは民家もほどちかい林の中で、まだ井戸そのものも残っていた。
そこに着いたときの、Alexさんの顔を、私は今でも鮮明に覚えている。言葉ではうまく表現できない、悲しみに満ちた顔だった。


その顔を見たときに、私は実感をもって感じたことがある。
それは「まだ戦争は終わっていない」ということだ。
人は自分事ではない過去は簡単に忘れることが出来るし、そういう生き物だ。いっぽうで、当事者はその過去を一生背負って生きていく。私は日本史も世界史も得意だったし、人よりは過去と向き合うことのできる人間だと思っていた。しかし、いざ当事者の方を目の前にして、私は自分が「戦争はもう終わっていたもの」だといつの間にか前提していたのだということに気づかされたのだ。

もし自分の父親が目の前で連行されて、虐殺されたとしたら?多感な少年時代にそれを経験していたとしたら?
Alexさんはずっと、当事者として、そんな過酷で残酷な記憶を背負って生きてきたのだということが、その悲しみに満ちた顔に表れていた。そのことに気づいたとき、私は何と声をかければよいのか、わからなくなってしまった。そんな悩みを抱えながら、私のツアーは始まったのである。


しかし、そんな私に、Alexさんはもう一度伺った際に誕生日パーティーを行ってくれた。「2月22日で22歳になるんです」と言うと「それはすごいね」とまたにこやかに話しかけてくれるAlexさんの人柄に心から感服するとともに、私はいったい何を返すことが出来るだろうか、と考えるようになった。

翌日には、BrianさんとChitoさんと一緒に、Buan教会という、日本軍が戦時にフィリピンの市民の方々を集めて爆破事件を起こしたくさんの方々を虐殺した現場に向かった。世界史の教師だというBrianさんは、当事どのようなことが起こっていたのかということや、「通行証を渡す」という嘘をついて市民を集めた日本軍の卑劣な行為など、様々なことを説明していただいた。また、Chitoさんには実際にその爆破事件でなくなった方々を埋葬する墓地に案内していただいた。しかし、爆破事件で亡くなった方々のための石碑の周りは草木が生い茂り、荒れ果てた状態となっていた。Chitoさんはとても悲しそうな顔で、「前はもっときれいだったんだが」と言っていた。徐々に記憶が薄れていくことを象徴するかのような石碑は、悲しく佇んでいた。


また、この事件の生き残りの方にもお会いした。Cornelioさんは御年97歳というご高齢ながら、私の誕生日ソングを演奏して下さった。一方で、ご自身が日本軍に過酷な目にあわされたにもかかわらず、日本から来た私に気さくに接してくれることに、改めて驚きを感じた。


また、マニラ市街戦の追悼式典にも、BFPメンバーとして参加させていただいた。周りを見渡すと、近隣の大学の学生も多くいて、中国から来た大学生の人とおぼつかない英語で会話したり、式典の参加団体としてBFPが名前を呼ばれたときに直子さんと一緒に前に出たりした。しかし、本来このような形で式典があるのであれば、日本の大使館の人間の一人でもいるだろうと思っていたのだが、日本人はほとんどおらず、また直子さんの話では参加者も去年に比べて格段に減ったとのことだった。ここでも、徐々に記憶が風化しつつあり、特に日本人はこうしたBFPのような団体がなければ、つながりの糸は絶ち切れてしまうだろうと感じた。


他にも、ユニカセという日本人の方が経営するフィリピンの貧しい子どもを雇って社会復帰への手助けを行っているレストランに伺ったり、加藤千登勢さんのお宅に伺っておでんを食べたりしたのだが、主なフィリピンの戦争体験者の方々との交流は以上の通りである。

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それでは、このレポートの締めとして、このツアーで私なりに考えたことをまとめたい。
このツアーを通じて、フィリピンの方々にお会いすると必ず私に聞かれることがあった。それは、
「今、日本は大丈夫か?北朝鮮情勢が怪しくなってきているから、とても心配している」
ということだった。Alexさんも、日本の情勢が危うくなっていることを私にしきりに話してくれた。最初、なぜ遠く離れている日本のことをそこまで心配してくれるのだろうと思っていたが、今回のツアーを通して、考えたことがある。

私がお会いしたすべての方々は、戦争の「痛み」を知っていた。
戦争というものが、大切なものをどれだけ残酷に奪い、加害者も被害者も、関わる全ての人々に一生消えない傷を残すものであるということ。そして、もう二度と戦争を「繰り返してはいけない」こと。
この痛みを抱え、それでも前に進んでいる方々だからこそ、もう一度悲劇を繰り返そうとしている日本の情勢を心配してくれているのだろう。

私は、日本に住んで、学校教育を受けて、いま子どもたちに地理歴史を教えようとしている。私には、これらは聞きなれた、ありふれた言葉だ。「繰り返さない」「戦争反対」は、それ自体が使い古された道具のようになって、ただ漂っている。しかし、私たちは本当に、実感を持ってこの言葉を発しているのだろうか。
フィリピンの方々にお会いして、「戦争がいかに残酷で、繰り返してはならないことか」ということを、改めて実感を持って感じた。それは、今までのような「被害者」としてではなく、私達の祖父母の世代が「加害者」として残酷な行いをしながらなお、現代に生きる私達日本人に当時のことを伝えてくれる方々にお会いできたからこそなのだろう。

第二次世界大戦から73年の月日が流れ、戦争を体験した当事者の方々も年々減ってきている。その時に、私達は本当の意味で「戦争は繰り返してはいけない」と言えるのだろうか。

戦争世代のちょうど孫の世代にあたる私達には、当時の出来事を語り継ぎ、「痛み」を受け継いで未来の子どもたちにつないでいく義務がある。私はこのツアーを通じて改めてそう感じたし、こうした考えを持つ方々にも実際にフィリピンに行って、自分の考え方を問いなおす契機にしていただけたらと心から思う。

最後に、初めての海外、初めてのフィリピンで戸惑う中、気さくに色々な話をしてくださったえりこさん、親子に間違えられたりと色々とお世話になったかずやさん、フィリピンのことを色々教えてくれた智美さん、映画上映の際に色々と説明してくださった由歌子さん、そしてこのツアーに誘ってくださった直子さんと、フィリピンでお世話になったすべての方々に、改めて感謝申し上げます。

このレポートが、私と同世代の大学生の方や、同じように戦争に向き合いたいと考えている方々に参考になるようなものになっていれば幸いです。
| フィリピン訪問レポート | 14:21 | comments(0) | - | pookmark |
出会いの豊かさのなかで(刀川和也)
 2018年2月6日〜11日、BFPフィリピン・スタディーツアーに参加した後、私は3月2日までフィリピンに滞在していました。インディペンデントのドキュメンタリー映画製作者である私は、これから撮りたいたいと考えているドキュメンタリー映画のフィリピンでの足掛かりをつかみたいと思っていたからです。帰国してしばらく時間が経ちましたが、あらためて「BFPのツアーに参加してよかった!」と心から思っています。何がよかったのかというと、人との出会いです。その貴重なお一人お一人との出会いを書いていくとかなりの字数を使ってしまいそうです。なので、今回のフィリピンツアーを通してもっとも多くの時間を共にし話をさせていただいたチト・エネロッソさんのことを中心にご報告します。

チトさんはバタンガス州バウアンの爆殺事件の犠牲者の遺族です。彼の祖父が第二次世界大戦末期、この事件で旧日本軍によって虐殺されました。BFPが製作した冊子「Unforgettable Voices」を読み、チトさんにとても興味を持っていました。その冊子のなかで、チトさんは以下のように語っています。

 「…侵略者らによって同朋に対してなされた残虐行為を、私たちは赦さなければなりません。忘れるのではありません。それは私たちが、少数派の人々や絶対的な権力に疑問を呈する人々に対して一部の力ある者が無意識のうちに行う、同様の残虐で無慈悲な行為を繰り返さぬよう、学ぶためです。そうすることによって私たちも、異なる意見や批判を戦争することによって沈黙させるのではなく、反対する者たちを殺害するのではなく、偽りを暴露する人々の命を奪うのではなく、彼らに敬意を表することを学ばなければなりません。そうすることによって国としての癒しが実現し、私たちも自らの弱さを謙虚に受け入れ、憎しみと怒りに駆られて同朋に対して犯してしまったかもしれない過ちを進んで改めることができるのです。そうすることによって私たちは最終的に、自己破壊的な憎しみと怨念のサイクルを絶ち切る方法を学ぶことができます。…」

いま日本に生きる私たちにリアリティーをもって迫ってくる言葉に思えました。
溢れるヘイトスピーチ。北朝鮮への脅威や憎悪が煽られるばかりで好戦的な雰囲気が醸成される社会。また、「森友問題」に象徴されるような偽りに満ちた傲慢な政治家の真摯さのかけらもない言葉と政府の市民をみくびった不遜な対応。過去の戦争から学ぼうとするチトさんの言葉が、私たちが生きるいまの社会の問題への警鐘として重く胸に響いてきます。チトさんがどのようにしてこのような考えを持ち得るようになったのかを知りたくなりました。



 死者を記憶し追悼する日である11月1日、チトさんのおかあさんは毎年彼を連れてマニラ近郊にある「フィリピン無名戦士の墓」を訪れ、ロウソクを灯し、お祈りを捧げていたそうです。亡くなったおかあさんの前夫、ギレルモ・ルマインさんの慰霊のためでした。ギレルモさんは戦中、米比軍の情報部員としての任務遂行中に日本軍に捕まり、そのまま行方不明となったままなのです。当時、チトさんのおかあさんは次女を身ごもっていました。「夫が日本軍に捕まった」という情報だけが届き、でも、どうすることもできず、日本軍から逃げ回りなんとか生き延びて出産します。夫の行方もわからないまま、その喪失の念にさいなまれたおかあさんは数週間寝たきりになってしまいます。生まれたばかりの女の子をおかあさんは育てることはできず、次女をお姉さんに託すことにしました。その後、おかあさんが次女を引き取り、一緒に暮らし始めるまで13年間もの時間を要しました。それは、ちょうど、チトさんのおとうさんとおかあさんが再婚するときのことでした。




 毎年、おかあさんは「フィリピン無名戦士の墓」にチトさんと一緒に訪れながらギレルモさんのことをチトさんに口にすることは一切なかったといいます。チトさんがギレルモさんのことを知ったのは、お姉さんを育てていたおばさんが教えてくれたからでした。
 ギレルモさんの死の真相は闇の中ではありますが、チトさんは二人の犠牲者の遺族なのです。前夫を日本軍に拘留され殺された(であろう)おかあさん、そして、バウアンの爆殺事件で父親を殺されたチトさんのおとうさん。この両親のもとにチトさんは生まれ育ったのです。ふたりは優しく、常に愛をもって接してくれたとチトさんはいいます。だけど、チトさんが子どもの頃、最愛の両親はけして良好な関係ではなかったそうです。なぜ、ふたりは関係を良好に保つことができなかったのか。けして癒されることのない傷を背負い続けていたおかあさんとおとうさんの心の内を考えざるを得なかったとチトさんはいいます。このことが、チトさんが過去の戦争に向き合い、平和のための運動を始めていく原点になっているのです。



 チトさんに「フィリピン無名戦士の墓」に連れていってもらいました。チトさんのおかあさんの心のなかにずっとあったもの、忘れることも癒されることもなく背負い続けていたものをチトさんと一緒に想像してみたかったのです。チトさんはおかあさんが亡くなるまで持ち続けたギレルモさんへの深い愛を感じると言っていました。その分、チトさんのおとうさんは複雑な感情を抱かざるを得なかったのかもしれません。ふたりが胸に秘めた痛みをみつめ理解しようとしているチトさんもまた沈痛な面持ちになっていました。戦争の傷あとは73年近くたったいまも消え去ることなく引き継がれているのです。



バタンガス州、バウアンでの虐殺によって殺された人たちが眠る共同埋葬場所は広い墓地のなかの片隅に埋もれるようにありました。そこには、チトトさんとともに3度訪れました。1度目はBFPのツアーのときです。目に飛び込んできたのは悲しい光景でした。十字架のまわりに墓碑としてのプレートが埋め込まれた小さな敷地、その下には数百、もしくは数千もの犠牲者が眠る共同埋葬場所は、まわりに新たに建立されたお墓に詰め寄られ、土砂が覆いかぶさり、プレートが土に埋まってしまっているものもありました。バウアンの人たちでさえもその場所がどんな場所なのか知らないのかもしれません。



2度目に訪れたとき、チトさんは私費を投じて埋葬場所を清掃し、補修することにしました。虐殺があった2月28日までに間に合うように補修作業者に依頼されました。
3度目はバウアン爆殺事件の記念日の2月28日。犠牲者遺族のひとり、ヘルミロ・モンテネグロさんをともなってチトさんと一緒に埋葬場所を訪れました。ヘルミロさんはBFPのビデオ映像のなかで「戦後、トラックで移送される捕虜となった日本軍兵士に向かって石を投げた」と証言されていたミラグロスさんの弟さんです。共同埋葬場所は土砂を取り除き、まわりをコンクリートで固められていました。それまで土砂に埋もれて隠れていた墓碑プレートも数枚見つかり、そのなかに5歳と3歳時に殺された二人の女の子の墓碑も含まれていました。ヘルミロさんは「おそらく銃剣で刺殺されたんだろう」と悲愴な面持ちでつぶやいておられました。



 私が立っていた場所、その下には個別の名前を持ち、家族がいて、虐殺されるまでそれぞれの人生を生きていた夥しい人たちが眠っています。その現実を実感をともなって想像することは簡単なことではありませんでした。73年に及ぶ時間のせいなのかもしれません。ヘルミロさんは墓碑に書かれた名前をお一人お一人口にしながら、その人たちの生前の姿を懐かしみ、その理不尽な死を悼んでおられるようでした。私はヘルミロさんの眼差しの先にあるものを想像しようと努力することしかできませんでした。可能なかぎり、ひとり一人の人生を想像してみようとすること。理不尽な死を強要された人たちのことを。そして、いま私のまわりに生きている人にも同じように思いを巡らすことができるのか。そうすることが、チトさんが冊子のなかで述べられていたことと繋がってくるような気がします。過去から学ぶということは、いまは亡き人の人生に想いを馳せ、そして、いま私のまわりに生きている人たちの人生にまで心を届かせようと努力するということかもしれないと…。



リパ市パガオの井戸で起きた虐殺事件の犠牲者の遺族、アレックス・マラリットさんのことを思い出します。BFPが資金を集め、パガオの行政とともに作ろうとしている慰霊碑のためにアレックスさんが力を尽くされていることを知りました。絵を描くことに長けたアレックスさんはどんな慰霊碑がいいのかと、そのデザインまでご自分で考えておられました。住民の方々にもさまざまな考えがあってその通りにとはいかないようですが、BFP、パガオの行政、そして、アレックスさんが仲介者となって実現に向けて模索されている姿には感銘を受けました。BFPが時間をかけながら丁寧に紡いできたフィリピンの人たちとの関係があるからこそのことだと思うのです。小さなともし火であったとしても、そこに未来を感じました。私もこの慰霊碑の完成を見届けたいと思いました。



胸が痛むようなことが多いツアーのなかで、心和むこともありました。アレックスさんは、ナオコさんが初めてフィリピンに連れてきたトシくんにスポーツカーのおもちゃのプレゼントを用意されていました。まるで、トシくんのおじいちゃんのようでした。



誕生日が間近だったツアー参加者のタクミくんにアレックスさんはピアノ演奏のプレゼント。誕生日ケーキも用意されて、まるで誕生日パーティーです。


アレックスさんとユカコさんと私の3人で、アレックスさんのご自宅のまわりを散歩したことも忘れがたいです。お互いをいたわりながら、まわりの自然を感じながら一緒に歩くお二人の姿があまりに素敵で、私は思わずカメラを回してしまいました。「これがBFPなんだなあ」とひとりうなづいていました。ブリッジ・フォー・ピース…平和への架け橋、このお二人の姿に勝手にBFPの神髄を見ていました。


 忘れてはいけないのが、チトセさんとマイクさんご夫妻のこと。チトセさんのおいしい手料理とワインをいただきました。いい気分になってワインを飲みすぎ、私はかなり酔っぱらってしまいました。でも、そのおかげでリラックスできたのか、マイクさんの生い立ちなんかも聞くことができました。日本で差別に苦労されたマイクさんのお話、もっとゆっくりと聞きたかったです。お二人が毎週日曜日に出店されているサンデーマーケットにも2回、お邪魔させていただきました。次はぜひ、泊りがけでゆっくりとお話がしたいと思っています。
 
一緒にツアーに参加した方々のことも強く心に残っています。トモミさんとはツアー後、一緒にモンテンルパのニュービリビッド刑務所を訪問しました。トモミさんのIDカードのおかげで敷地の中まで入って写真を撮ることができてラッキーでした。タクミくんとエリコさんとは「教育」について、朝食の時間にお話をすることができました。タクミくんは「教育ってなんだ?」って哲学や思想からも問おうとしていて、その真摯な姿にとてもうれしい気持ちになりました。エリコさんとは地元で展開されているコミュニティーカフェについてもっと話がしたかったです。ユカコさんとは二日間ではありましたが、とても濃厚な時間をともにしました。戦争捕虜の話は知らないことばかりで、とても興味深かったです。これからもいろんなことでお話を聞かせてほしいと思っています。
食事をさせていただいたユニカセ・レストランの中村八千代さんもとても素敵な方でした。さまざまな問題を抱えながらも、いま、スタッフとともにレストランのある建物に家族のように一緒に暮らしながらレストランを経営されています。ほんとに、ユニカセ、ユニーク、ここにしかない形なのです。それがとっても素晴らしくて、ツアー後、私は3回もお邪魔させていただきました。

もっともっと今回のツアーを通して出会えた人たちがいます。ここには書けなかった人たちにも感謝しています。そして、こんな豊かな人たちとの出会いをプレゼントしていただいたBFPに心より感謝の気持ちを伝えたいです。ありがとうございました!

| フィリピン訪問レポート | 13:45 | comments(0) | - | pookmark |
活動を繋いでくださる会員の皆様への感謝
14回目となる、BFPフィリピン・ツアーを開催しました!

気づけば、私がBFPを始めたきっかけとなった青山学院大学の雨宮剛先生によるフィリピン体験学習に参加したのも、その第14回目でした。感慨深いです。

さらに、今年は初めて4歳になる息子を同伴しました。戦争体験者の皆様が喜んでくださり、ツアー参加者の皆様もあたたかく迎え入れてくださって本当に有り難く思いました。ツアー参加者の皆様、本当にありがとうございました。


今回、改めて湧き上がってきたのは「BFPツアーにこれまで参加し、繋いできてくださった方々への感謝」です。息子の妊娠・出産でフィリピンに行けなかった年もあった訳ですが、その間繋いでくださった会員の皆様の存在があります。

式典では初めて
「毎年、出席してくれているブリッジ・フォー・ピース」という紹介があり、受け入れて頂いているのを実感する事ができました。


マニラ市街戦の追悼式典には今回のツアー参加者に加え、他のBFP会員さん複数が合流してくれました。それをみたフィリピン人からは「BFPファミリーだね」とコメントがありましたし、ある戦争体験者が、「これまでのBFPツアー参加者全員集うツアーが出来たらいいね」と目を細めて話す姿が印象的でした。気づけば、これまでのツアー参加者総数は40名になりました。

他にも様々な出逢いに恵まれたり、虐殺事件を生き延びた97歳になるコルネリオさんとの再会も果たす事が出来ましたが、その一方、帰国直後に大変お世話になった97歳になる元日本兵・池田幸一さんの訃報が入りました。

残された時間は限られています。
繋いできたご縁を、恩師が私に託してくださったように、私たちの世代からまた次の世代にバトンタッチしてもらえるように、引き続き頑張っていきたいと思います。
| フィリピン訪問レポート | 12:48 | comments(0) | - | pookmark |
多くの学び、発見、出会いがあった何にも代えがたい経験(天沼えり子)
1.はじめに
 フィリピンには以前より興味があり、一度“生の”フィリピンに触れてみたいと考えていた。というのも2011年から数年間フィリピンの若もの支援に関わっていたので彼らの母国については断片的に話を聞いていたからだ。ただその時はフィリピンでの日本軍による加害の歴史に目を向けることはなかった。中国、韓国については様々な本を読んでおり多少活動にも参加してきたのに、なぜかフィリピンについては知識も興味も欠落していたことを認めざるを得ない。
 今回はBPFのツアーに参加でき本当に貴重な経験をさせていただいた。短い滞在にもかかわらず多くの学び、発見、出会いがあった。書きたいことは多々あるが今回は「加害の歴史に向き合う」というテーマに絞って記述することとする。

2. 加害の歴史に向き合う
恥ずかしながらこれまでフィリピンでの日本軍による加害事件については大雑把な知識しかなく具体的なことはほとんど知らなかった。1945年2月3日から3月3日はマニラ市街戦で市民約10万人が犠牲になり(但し米軍の砲爆撃による死者も多数)同時期にマニラ市内およびバタンガス州でいくつもの住民虐殺があった。今回はその中で二つの現場を訪れた。
一つはリパ市パンガオ集落で70人ほどの男性が銃剣で刺され二つの井戸に投げ込まれたという虐殺事件現場である。そのうちの一つは案内がなければ全く気づかない林の中にあった。もう一つの井戸は民家の敷地内にありどちらもコンクリートで蓋をされ虐殺の痕跡は全くないが私たちはそれぞれの現場で焼香し黙とうをささげた。20メートルもの深さがある井戸にまだ生きているのに投げ込まれた人たちもいたようだ。おぞましい光景が頭に浮かびその場を逃げ出したい気持ちにかられた。加害者は私の父、祖父世代の日本兵なのだ。


この虐殺事件で父親と叔父二人が犠牲になった遺族のアレックス・マラリットさんにお会いしお話を聞くことができた。アレックスさんは1935年生まれで82歳。お父さん、叔父さんたちが連れ去られようとしたとき小さい妹が父親の足にすがって泣いたことが強い印象として記憶に残りその情景を描いた絵がある。彼は作家石田甚太郎の著書に刺激を受け何枚も虐殺場面の絵を描いており直接見せていただいた。当時9歳で直接現場を見ているわけではないが遺族としての無念な思いと二度とこんなことをさせないという強いメッセージが伝わり深い感動を覚えた。
重い空気が流れたあとは美味しいリパ産のバラココーヒーとフィリピンのお菓子で心温まるもてなしを受けた。今回アレックスさんのお宅には短いツアーの中で3回もお邪魔し大変お世話になった。


もう一か所訪れた虐殺現場はバウアンにある教会である。2月28日にこの教会に通行証を発行するという名目で400人近い男性が集められ、その後すぐ近くの日本軍が接収した有力者の邸宅に移動させられた。建物にはあらかじめ黄色爆薬が仕掛けられており建物ごと日本軍が爆破し328名が亡くなっている。その時かろうじて現場から逃れ一命をとりとめた生存者の一人、コルネリオ・マラナンさんに会うことができた。当時25歳。現在97歳で4世代の家族に囲まれ幸せに暮らしておられる様子に勝手ではあるが日本人として多少救われる思いがした。
マンドリンに似た楽器を演奏してくださったり一緒に歌ったりここでも幸せでやさしい時間が流れていった。多大な被害を受けた方たちからこのようなもてなしを受けフィリピン人の懐の深さにつくづく感じ入った。


3.メモラーレ・マニラ1945
2月10日は朝8時半よりイントラムロスで市民団体「メモラーレ・マニラ1945」主催によるマニラ市街戦の犠牲者追悼式典が開催された。日本から政府関係者の参加があるのかと思っていたらとんでもなく、日本大使館に招待状を出しても返事もないと聞き愕然した。一方BFPのような小さい民間の団体が毎年追悼式に参加し、挨拶の中で必ず日本人として謝罪の言葉を述べる姿勢は大きな意義があると確信する。今回も代表の神直子さんのスピーチは共感を呼び地元の新聞にも掲載されたそうだ。


おわりに
今回のツアーで日本軍がフィリピンにもたらした加害の大きさが想像をはるかに超えることを実感した。知識不足を補うため帰国後BFPが積み重ねてきたこれまでの記録や石田甚太郎著『ワラン・ヒヤ』と『殺した 殺された』を読み、フィリピンで何が起きたのかある程度実態を把握できた。今もっとも心に引っかかっていることは石田が取材した元日本兵の多くが住民虐殺を「上からの命令だから仕方なかった」と自己弁護していることだ。
ドイツと違って過去の清算をきちんとしてこなかった日本。現政権の動きをみていると再び「戦争のできる国」に戻ろうとしているのではないかという危機感が募る。今後どういう方向に舵を切るのか決めるのは国民である。先の戦争前と違い声を上げることはできる。過去に学び一人ひとりが自分の頭で考えることで日本を誤った方向に向かわせないようできるはずである。

フィリピンスタディツアーから帰って早くも3週間がたってしまいました。たった5日間でしたが多くの学び、発見、出会いがあり何にも代えがたい経験ができました。BFPがこれまで地道に活動を続けてきたからこそと感謝しています。
| フィリピン訪問レポート | 10:34 | comments(0) | - | pookmark |
BFPフィリピン・ツアー2017
2月に実施した、BFPフィリピン・ツアーのレポートです。
今年は、長年夢見ていたプロジェクトが、大きな一歩を踏み出すことが
できました。ぜひ参加者3人のレポートから、それらも感じ取って頂け
たら幸いです。


着実に交流が根付いているのを実感(淺川和也)
ただ感じるだけでなく、もっと深く考えて向き合うフィリピン(金子聖奈)
戦争という「現実」に触れて(大学生S.S)
| フィリピン訪問レポート | 17:26 | comments(0) | - | pookmark |
着実に交流が根付いているのを実感(淺川和也)
 初日は、入国後、手配の車でリパのアレックスさんのお宅をたずねしました。アレックスさんは日本軍による虐殺の遺族で、お父さまが日本兵に殺害され、井戸に投げ込まれたとの証言も映像に所収されています。ブリッジ・フォー・ピース(BFP)の理解者の一人で、長年、交流を続けています。昨年、交通事故をおこし、まだ傷が顔にのこっているとのこと。海外での国際機関で勤務の後、リパに戻り、博物館の顧問もされていました。石田甚太朗さんの記録にもとづいてみずから描いた絵も展示する活動もしてこられました。BFPがおとづれるたびに、パガオの井戸に案内していただています。井戸は2つ、バナナの茂みのなかと民家のきわにあり、案内がなければ、まったくわからない状態になっています。以前より、何らかのモニュメントをつくったらよい、という話をしてきました。ずっとそのままになっていましたが、昨年はバランガイ・キャプテンとも会い、具体化する話がすすみました。そこで、BFPがクラウドファンディングにより、資金を募り、今回、アレックスさんに託すこととなりました。
 アレックスさんは体調のこともあり、やはりこの計画を担うのは難儀と話しておられましたが、若い学生も同行したこともあり、バランガイ・キャプテンを一緒に訪ねて話をすすめることになりました。
 2日目は、バランガイ事務所を訪ねました。バスケットコートと事務所を併設したようになっており、職員も数名いるようでした。相談の結果、バランガイ事務所に祈念碑を、井戸には崩壊を防ぐよう工事をすることになりました。バランガイ・キャプテンの選挙が8月にあるので、そのかねあいもあるようですが、再選をもくろんでおり、いずれにしろ、アグリーメントに署名いただきました。資金については、アレックスさんは、バランガイ・キャプテンとの共同名義で口座を開設することを望んでいましたが、結局、アレックスさんが管理することになり、アレックスさんの口座に入金してきました。アレックスさんは、前日のご自宅での打ち合わせ、バランガイの事務所での折衝、パガオの井戸、銀行と同行いただき、お疲れのようでしたが、実現への第一歩となりました。
 3日目は、バウアンにランディさんを訪ねました。2月末に虐殺があったところです。教会を案内いただきながら虐殺(爆破)事件のこともうかがいました。スペイン時代は修道院であった建物で、アメリカ統治下では学校となり、現在は大学も併設されています。ランディさんは、米国に渡るそうで、ランディさんから、今後は、ここの学校の先生を訪ねるようにと、ご紹介いただきました。その後、祈念碑を見学し、昼食後、マニラに向かいました。
 4日目は、8時にマニラをケソンシティにむけて出発しました。渋滞もなく、8時40分ごろにケソンシティにあるミリアムカレッジの平和教育センターに到着しました。ロレッタ先生は、午前の授業の準備をされていて、ハスミンさんに校内を案内していただきました。夕刻にひらかれている成人コースの模擬店がでており、食べ物やクラフト、ネールアートを学んでいる方々によるテントもありました。図書館の平和関連書籍のコーナーや、ロレッタさんの名前のついたガーデンも見せてもらい、ロレッタ先生の2時間目の講義の教室に向かいました。
 ロレッタさんからは、戦争と和解がテーマとの紹介をいただきました。現在、核兵器禁止条約について学んでおり、原子爆弾のことに触れて欲しいとのことでしたので、ヒロシマ・ナガサキのことについて提示し、美甘さんのことも紹介しました。そして、NHKワールドのBFP紹介、その後、30分の英語字幕付のフィルムを上映しました。学生さんからは、日本とフィリピンの関係について、当事者の遺族の方とどう連帯するかなど問われ、こちらからは、どのようにフィリピンでは歴史を教わっているか教えていただきたいとの質疑もしました。
 午後は、マカティにあるアラヤ・ミュージアムで高木さんと待ち合わせ、チョロスというスペイン菓子をいただきました。高木さんはマニラ在住40年になるとのことで、当初、駐在員むけの情報誌をつくったり、勉強会を続けているとのことでした。フィリピンの伝統織物や現代美術にも造詣が深く、文字通り、日本との架け橋となっておられます。
 そこにフィリピン大学マニラ校のバーナード先生がおいでになったので、高木さんと別れ、バーナードさんにアラヤ・ミュージアムを案内いただきました。ジオラマで歴史をただる展示は、わかりやすいものでした。翌日のコレヒドールへのツアーの船がでるターミナルを確認し(モールオブアジアのバイキングというレストランの隣)、バーナードさんに同行いただき、ロビンソンというショッピングモールにあるバコロド名物のチキン料理をご一緒しました。バーナードさんは日本通で、ロビンソンにあるCoCo壱番屋のカレーを毎日のように食べているとのことでした。日本からのラーメン屋やダイソー、ユニクロも入っていました。
 5日目はコレヒドール島へのツアーでした。船で1時間半ほどで到着。20人ほどづつ、9台のバスにわかれての島を見学しました。アテネオ大学の学生がたくさん参加していました。スペインによる植民地時代からアメリカ統治となり、第一次世界大戦の際には、最新技術の砲台であり、日本軍による一ヶ月にわたる爆撃で陥落したとのこと。砲台や補給敞、兵舎、将校らのための施設などの焼け跡や、コンクリートの骨組みがそのままになっていたり、日本兵が自決した塹壕を巡りました。昼食の後、展示館やトンネルでの歴史劇も見て、最後は、日本兵の慰霊の場所でした。いくつもの慰霊碑や観音像が建立されていました。シンガポールからの医師とその方の知人のフィリピン人医師と言葉を交わす機会もありました。英語でのツアーでしたので、日本からの方は少なく、お一人のみのようでした。
 マニラのターミナルに戻り、バーナードさんのUPマニラ校をたずねました。とくに学生さんとの約束はなかったのですが、タクシードライバーさんへの指示が甘く、看護学部に連れていかれたこともあり、午後6時半過ぎになり、すでに学生さんはおられませんでしたが、バーナード先生と夕食をとりました。
 6日目、メモラーレ・マニラの会場に午前8時半に到着すると、今泉監督がおられ、チトさんに伊吹さんからあずかったDVDを渡したりしているうちに、楽隊の音楽が流れ、開式となりました。リビング・ヒストリー・ソサエティという当時の状況を再現する劇や、若い学生が証言を読み上げる趣向もあり、ホセさんなど次の世代にメモラーレ・マニラの活動を引き継がれていくさまが見てとれました。献花、そしてスピーチとなり、BFPからは、金子聖奈さんがスピーチをしました。都留文科大学の内山さんや、以前、バタンガスにご一緒した毛利さんにもお会いできました。
 10年以上にわたり、BFPが交流をつづけてきていますが、今回は、パガオに祈念碑を建てるためのプロジェクトに着手するための覚え書きを交わすことができ、着実に交流が根づいているのを実感することができました。
| フィリピン訪問レポート | 17:20 | comments(0) | - | pookmark |
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