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中国で戦った祖父に聴いた

取材日:11月11日

場所:埼玉県深谷市(旧岡部町)

 

●祖父と僕との関係

母方の祖父とは、大学卒業間近だった3年ほど前までは、ほとんど会った記憶がない。僕が幼かったころ、たまに祖父の家に行き、遊んだ記憶があるくらい。

 

だから、ここ数年、1年に1度の頻度で会っても、お互いに敬語で話す関係だ。祖父のことを僕は「おじいさん」と呼び、祖父は「お前さん」や「お宅」と話しかける具合だ。


祖父?

写真=戦時中の給与を記録してある紙を見る祖父。

 

僕とおじいさんが戦争の話をするようになったきっかけは、僕が大学卒業してフィリピンに行くことが決まったことだった。「戦争中、日本はひどいことをしたんだ。戦争はいけないことだ」と深く、しっかりした声で、独り言のように話した。


僕はその時、その言葉の先を聴こうとはしなかった。なぜか。親族という関係性が強いがゆえに、知りたくなかったからという理由が大きい。優しい、しっかりしたおじいさんの、辛い記憶を知りたいとは思えなかった。

 

それから2年あまりが経ち、今回の取材となった。祖父は95歳で、元気だ。しかし、来年4月からの就職を控えている僕は、今年のチャンスを逃したら、一生聴けないと思った。父方の祖父は、僕が中学生のときに亡くなった。同じ後悔を繰り返したくなかった。

 

岡部の祖父は、1920(大正8)年9月に生まれた。すでに95歳を迎えるも、機嫌がよければ昼間から日本酒、焼酎を飲む酒豪である。

 

埼玉県北西部に位置する深谷市は、ネギや白菜、ブロッコリーなど野菜の栽培が盛んである。深谷ネギは、僕の住む横浜にも流れている。

 

祖父の家も農家だ。ずっと野菜を作り続けている。今は、僕の叔父に当る祖父の息子が継いでいる。祖父が元気なのは、しっかり野菜を食べ、好きな酒を飲んでいるからだ、と以前言っていたのを覚えている。大根おろしをご飯に載せ、醤油をかけて食べるのが好きだと話していた。それが健康の秘訣だと。

 

●賞状

戦争の話に水を向けると、まず、祖父が話したのが、壁に飾られたいくつかの賞状だ。

 

「剣術競技会ニ於テ成績優秀ナリ因テ茲ニ之ヲ賞ス 昭和十六年九月二十五日

 

「累次ノ戦績優秀ニシテ特ニ十二月二十二日献縣南王大付近の戦闘ニ於ケル武功抜群ト認メ茲ニ之ヲ表彰シ賞状並ニ賞品を與フ 昭和十七年二月十一日」↓写真

 祖父?

 

「善行証書、品行方正勤務勉励学術技芸熟達ス因テ此証ヲ附與ス 昭和十七年七月九日」

 

賞状を見ながら、「こんなもんは今になっては自慢になりゃせん」とは言うものの、「課せられた自分の任務は本当に果たしたよ。すべてを」と毅然とした態度で話す祖父の顔は、元日本兵としての誇らしさを感じさせる。

 

●入隊、中国に

祖父は、8人兄弟の次男として生まれ、地元の尋常高等小学校を卒業、実家の農家を継いだ。

 

20歳を迎え、徴兵検査で甲種合格。支那駐屯歩兵第三連隊(通称、2906部隊)三中隊に入隊する。下関から船で北京に入り、ソウケン(湘桂、ショウケイ?)で長く兵隊生活を送った。中国の戦地には、38カ月いた。中国での最終階級は伍長だ。

 

「逃げてあるったり、追っかけていったり。一年中弾の下なんだから」。戦地での兵隊生活を、祖父はこう切り出した。

 

「わしらが戦ったのは共産兵。共産兵はね、うんと強かったんだ。日本の兵隊をいじめてね。それで、日本はだんだん、だんだん、じりじり、じりじり、負けちゃったんだ。うんとひどい目に遭ったんだよ、わしなんちの部隊も」

 

ソウケンでは、支那駐屯歩兵第三連隊四中隊に所属が変わった。

 祖父?

写真=武器を携えての集合写真。前3列目の右から2人目(中央付近)が祖父。初年兵時代にソウケンで撮影。

 

●ソウケン城内

 祖父たちの部隊は、ソウケンにある城内に兵舎を置き、そこを中心に任務に就いた。城壁は5、6メートルの高さで、城内には大学があり、中国人も暮らす家があるなど、広い敷地面積だったという。日本軍は、その大学を兵舎とした。ソウケン大学という名前だった。

 

「日本と同じで、城の周りにクリーク(小川)があって、そのクリークの外から襲撃された。年中、大砲打つんだから。こっちは城内だから、どこに(敵の)兵隊がいるかわかりゃしない」

 

「兵舎の周りには住民も住んでいた。中国人もたくさんいた。パンを作って兵士に売ったりしてた。城壁の中にいた中国人は、日本の兵隊に抵抗しなかった。抵抗したら殺されちゃうんだから。城内入れば日本兵ばかりだから、幅が効いたんだ。威張ってたんだ。支那人なんちは、ちっちゃくなってんだ」

 

●捕虜の扱い


 話が落ち着くと、祖父は小さい声で語り出した。

 

「・・・捕虜兵は、ぜんぶ死刑処罰。・・・ばかしだんだよ。初年兵に捕虜を殺させる、なんというかな、度胸試し。馬鹿げなことをしたんだよ」

 

「捕虜なんかを刺すときは、(銃)剣だった。剣だって、刀ほど切れないんだから。だから、結局撃ち殺したんさ」

 

「突撃だって何回かしたよ。敵が逃げて、こっちが襲いかかれば突撃だ。追っていくんだから。追っていくときは、剣を付けたこともある」

 

「支那人が突撃なんかして、皆殺しにされた部隊があった。そしたら、こっちだってそれ以上のことをするかんね。家なんてみんな潰しちゃうから。こんな小さいのだって殺しちゃったんだからねぇ。恐ろしかったよ。だから戦争なんちゅうもんは絶対するもんじゃない」

 祖父?

写真=昭和18年、岡部に戻った祖父は、近衛一連隊十二中隊に入隊した。写真は同じ部隊の兵士たちと。前2列目左から2人目が祖父。撮影地は日本。

  

●取材を終えて

 「戦争はいけないことだ」と言っていた祖父が、どんな経験を基にその思いを導き出したのか、取材をする前に僕が抱いていた疑問に近づくことができた。


 しかし、僕の質問が甘かったことや、血縁関係という強い繋がりがあるがゆえに、そして、過去のこととして記憶を整理し、祖父が胸に固く閉まっているがために、祖父が僕に話していない、まだまだたくさんのことがあると僕は考える。


 この話の先が、今年中に聴けるのか分からない。「分からなかった」で終わることのないように、祖父との交流を続けていきたい。

 

篠塚辰徳

| 元日本兵インタビュー&交流 | 23:46 | comments(0) | - | pookmark |
元日本兵取材報告 中国戦線
取材場所:岡山県倉敷市茶屋町
取材日:830 

足手まといのために殺された初年兵、早く殺してくれと叫ぶ捕虜の姿、民間人を強姦した末に殺した古参兵など、壮絶な戦争中の記憶を持つ90歳のTさんに、当時の生々しいエピソードを伺いました。

訓練を終えた第3中隊の記念写真を見るTさん

*入隊していた第3中隊の集合写真を見るTさん

●航空兵への憧れ

 1923(大正12)年1230日、岡山県茶屋町で生まれたTさんは、4人きょうだいの長男として育ちました。国民学校をと高等学校を経て、国鉄に入社しました。


 「国のため、天皇のために敵陣に突っ込んで死ねる。そう洗脳されていました」。国鉄での勤務から3年が経ち、Tさんは岡山県内の陸軍師団長に手紙を書きました。「小指を切り、血文字で航空兵になりたい」との願いを伝えました。しかし、航空兵には年齢制限があったため、東京の航空機製造会社での部品造りを紹介されました。


 1944(昭和19)年11月、当時20歳のTさんの元に召集令状が届きました。その後、岡山10連隊塁第1477部隊独立歩兵第246大隊第3中隊への入隊が決まりました。直前のTさんは、日本の平和をイメージした絵を描き残して出兵しました。そこには、赤ん坊を抱っこした父親と、笑顔で2人に駆け寄る母親の姿がありました。

 入隊前にTさんが書いた「平和」と題した絵

*写真:入隊前にTさんが書いた「平和」と題した絵

●過酷な訓練で自殺

 Tさんは、1945年の正月ごろ、中国の山西省高平(コウヘイ)で1カ月の訓練を受けました。記憶に残っているのは、Tさんは機関銃を使った3連転射です。「5発だと2発多いと言われて2回殴られる。2発だと1発少ない、と1回なぐられる」。上官からの殴る蹴るといった暴力に耐え切れず、トイレで首吊り自殺をした同年兵もいました。「遺書なんか残せません。そんな余裕もなかった」

 

●味方に殺される初年兵

 行軍中には、体調不良や栄養失調などで、歩けない初年兵もいました。そのような兵士は、Tさんたち初年兵がロープで胴体を縛り、引っ張って行軍を続けました。しかし、引っ張って歩くのも困難になると、「捕虜になったら情報が漏れる」「足手まといだ」として古参兵の手によって銃殺されたといいます。「人間扱いではなかった」とTさんは憤ります。

 

●「殺してくれ」と叫ぶ捕虜

 中国軍との戦いでは、「捕虜を何人も捕まえて折檻した」といいます。「逆さにして木に吊るして、水責めをするんです。殴ったり蹴ったりもしました」


 「最後には、初年兵に『殺すものはいないか』と上官が聞いていました。私の同年兵が、捕虜の胸を目掛けて銃剣を突き刺しました。でも胸にはよう入らんのです。捕虜となった中国兵は、『カイスラー、カイスラー(殺してくれ)』と叫んでいました。ですが、肩に刺さった銃剣はなかなか抜けません」


 「見かねた上官が捕虜の首を切って殺しました。抵抗しない者、しかも何の恨みもない人間を相手に殺すのは難しいですよ」

出兵前の家族写真。前方左から2人目がTさん

*写真:出兵前の記念撮影。前方左から2人目がTさん

●「命令に従うほかなし」

 Tさんの戦争体験の中でも、今でも心に残っている印象的な場面があります。同期の初年兵2人と古参兵と一緒に部落を襲撃しに行ったときのことです。


 部落に行くと、地元の風習で足が大きくならないようにする纏足(てんそく)の女性や、おばあさんを介護するために残った若い女性が部落に残っていました。


 襲った家の中で、若い女性を見つけた古参兵は、Tさんたち初年兵3人に「女を真っ裸にしろ」と命じました。近くにいた娘の母とみられるおばあさんが「私にしてくれ」と頼み込みましたが、「何を言われても上官には反抗できない」と、Tさんたちは裸にした若い女性と古参兵を民家に残し、外に出ました。


 しばらくすると「ギャー」という唸り声が聞こえました。娘を強姦した古参兵は、銃剣で刺殺したのでした。部屋から出てきた古参兵は、「そのばあさんも殺せ」とTさんたちに命令しました。「黙って従うほかはなかった」といいます。


 Tさんたちは、娘と母を民家の中に残し、油をまいて火をつけました。燃える民家の中からは、瀕死のおばあさんが這って出てきました。上官はTさんたちに再び火の中に投げ込むように言いました。1回、2回と燃える家から這い出てくるおばあさんをTさんらは「火の中に放り込みました」。3回目はありませんでした。


 「上官の命令には何があっても服従すべし、というのが日本軍の軍規としてあった。何を言われても反抗できません。命令に従うほかはないのです」

 

●復員

 戦地で虫垂炎(盲腸)にかかったTさんは、1945(昭和20)年2月に暗号兵としての教育を路安(ロアン)で受け、第3中隊に復帰しました。それから半年後、終戦の知らせが高平に移動したTさんたちに届きました。


病状が悪化していたTさんは、盲腸の手術を楡次(ユジ)の陸軍野戦病院で受けました。その後、天清(テンシン)の陸軍病院に搬送され、病状が回復した19463月末に高砂丸で復員しました。 


 「戦争だけは絶対やるもんじゃない。勝っても負けても、国民はいろんな悲惨な目に遭って困る」「戦争中は(上官の)言われるがままで、自分の意思はなかった」。Tさんは戦争中の当時を振り返って、このようにまとめました。


「(日本軍は)毎日、討伐と称して窃盗や強姦と部落に行ったら好き勝手なことをしていました」。今は強制連行の従軍慰安婦が問題になっていますが、「日本軍は書類を全部燃やしていて、証拠はありません。ですが、やっているはずです。当時の日本軍の権力といえばすごかった。想像ですが、強制連行は明らかなことです」



篠塚辰徳

| 元日本兵インタビュー&交流 | 00:34 | comments(0) | - | pookmark |
元日本兵取材報告 樺太
 「幸運にも私はシベリア送りにならずに済みました。元兵隊であることがバレてソ連兵が家に来てからは1年間逃げ続けました」。何とも耳を疑うような話を平気な顔をして話すKさんは、樺太で育ち、日本兵になりました。


 1921(大正10)年730日生まれのKさん(95歳)は、東京都深川区で生まれました。大工をしていた父親が、景気の良さを聞き、昭和元年に親子3人で樺太の元柏郡知取町に移り住みました。


 知取町の尋常小学校を卒業したKさんは、日雇いの肉体労働の職に就き、11年間の労働生活を樺太で送りました。

  

 22歳の誕生日を迎える約1カ月前の1943(昭和18)年6月、赤紙が届きました。臨時召集でした。「とうとう来たか。しょうがない」という気持ちでした。


 Kさんは、宗谷要塞重砲兵連隊第2中隊に配属され、通信兵として活動しました。重さ30キロほどの通信機を担ぎ、山の中を走り回ったといいます。

  

 樺太では、地上の戦闘行為はありませんでした。戦闘といえば、「付近の近海を潜行していたソ連軍の潜水艦1隻を日本軍が沈めたことぐらい」でした。その1隻を沈めた後は、みなで酒を飲んで祝ったそうです。

 

 終戦が、Kさんたち宗谷要塞重砲兵連隊第2中隊の運命の分かれ目になりました。Kさんの中隊には、樺太出身者と内地から来た人が混じっていました。終戦を迎えてに帰ろうと樺太の港に向かった日本兵のほとんどがソ連軍の捕虜になり、強制労働の苦役を負わされることになりました。

 

  Kさんが所属していた通信班は20人で構成され、うち樺太出身者は3人いました。その全員がソ連軍に連行されました。

 

 通信班のKさんたち樺太出身者17人は、すぐに軍服を脱いで平服に着替え、地元での暮らしに戻りました。Kさんは終戦を知らせる天皇の詔勅を聞き、「ああこれで命が助かった。家に帰れる」と胸を撫で下ろしました。このように、日本兵としての身分を隠すことができたため、捕虜にならずに済みました。

 

 Kさんが戦後聞いた話では、ソ連での強制労働送りになった戦友たちの中には、精神的に不安定になった古参兵や帰国後に「アカ」と呼ばれ、仕事に就けなかった人もいたそうです。

 

 Kさんは戦後、樺太にあった王子製紙事務所の倉庫で、ソ連軍の指揮の下、ボイラーの石炭降ろしの仕事をしました。しかし、数ヵ月後には、元兵隊であることがソ連軍に知られてしまいました。ソ連兵はKさんを連行するため、家にまで来ましたが、Kさんは終戦から3カ月後に結婚した妻の家や友人の家などを1年間転々としてソ連兵の手から逃げました。Kさんは当時のことを「運良く捕虜にならずに済みましたよ」と笑い話のように思い返しました。

 

 終戦を迎えた後、Kさんの所属していた通信班20人の方たちは、Kさん以外全員病気でお亡くなりになったといいます。唯一手紙で連絡を取っていた中隊長の方も、4年前に他界されました。

 

 「何が何でも生きていこうという気持ち」で戦後を生き抜いてきました。上等兵として終戦を迎えたKさんは、1948(昭和23)年に樺太から千葉県木更津市に移り住みます。その後7年間、駐留米軍基地の航空部品補給所で勤務した後、朝鮮戦争が起きた1954年ごろから定年を迎えるまで、同じく千葉県の海上自衛隊の物品管制の事務業務に就きました。

 

 Kさんは現在、93歳の奥様と2人で倉敷市に住んでいます。子どもが5人、孫が14人、ひ孫はなんと15人もいるそうです。「こないだ来たのはどこの子だったっけ」「さあ分からない」。こんな会話もありました。

 

篠塚辰徳

| 元日本兵インタビュー&交流 | 02:23 | comments(0) | - | pookmark |
戦争体験取材報告 和歌山大空襲
空襲時にSさんが抱えて逃げた三省堂の『広辞林』

 「髪の毛も着物も焼け、男か女かも分からない人間が焼けていました。その光景を泣きながらはしゃぎまわって見ていました」。194579日深夜から10日未明にかけて、和歌山県和歌山市を襲った空襲を、当時11歳のSさん(現在80歳)にお聞きしました。


Sさんは、7人きょうだいの末っ子として、1934(昭和9)年411日に生まれました。45年、和歌山市内の雄国民学校に5年生として通っていたSさんは、空襲に備えて学校で防火訓練をしていましたが、「訓練ではバケツに水汲んでやっていましたが、そんなもの実際できたものじゃありません」と空襲の凄まじさを振り返りました。


空襲警報は9日深夜に発令され、Sさんは家族そろって紀の川に避難しました。「家の近くの防空壕なんか役に立ちませんよ。焼夷弾が落ちたら焼き殺されます。私たちは紀の川(の防空壕)に逃げたから助かった。でも、和歌山城の堀に逃げた人達は全滅だった。堀の水が暑くなったり、城壁が壊れたりしたからでしょうね」。これが生死の分かれ目だったといいます。

和歌山市の地図

「紀の川の防空壕には夜明けまでいました。(壕の)中には40から50人くらい入っていたと思います。大人はお経を唱え、子どもは泣いていました。壕の中にはトイレがなく、その匂いと騒がしさは地獄のようでした」

 

 翌朝、Sさんたち子どもたちは市内を散策しに出かけました。「和歌山城の周りには死体がゴロゴロしていました。気持ち悪く、怖かった。なんて表現すればいいかわかりません」「死体はすみ人形のように完全に真っ黒で、触ればすぐにボロボロと崩れそうでした。手足のない死体もいっぱいありました」


 空襲から34日後、Sさんたち家族は母方の親類を頼って、愛媛県の大三島に疎開しました。終戦はそこで迎えました。「戦争に負けてよかったと思いました。これでもう逃げなくて済む、爆弾が落んでも済むと思いました。」

 

 Sさんが、空襲時に肌身離さず抱えていたものがあります。三省堂の国語辞典です。「戦災前から自分のものとして残っているのはこれだけです」。Sさんはそれを家宝にしています。

 

 それほど知的意欲があるSさんは、戦後の新聞を切り抜いたり、平和関連の文献を揃えたりしています。「中学2年と小学5年の孫がいますが、この子らを絶対に戦争に行かせないための資料です」

 お孫さんを戦争に行かせたくないというSさんは、今の政治に強い怒りを抱いています。


「極端に右傾化している今の状態はけしからん。これは止めなければいけない。戦争というのは人を殺すもの。この基本的なことを問い直さないといけない。戦争になったら何にも得るものなんてない。(安倍政権が進める)集団的自衛権容認に対して、若い人はもっと怒らないといけない」

 

 現在、Sさんは自宅で家庭菜園をしており、トマトやきゅうりといった夏野菜でいっぱいでした。「空襲があった後の記憶は、空腹です。食べるものが何もない」「家には妻と私の2人だけですが、大型冷蔵庫が2台もあるんです。菜園も冷蔵庫も、戦後のように食物に困りたくないという本能的なものでしょうかね」

 

*写真は、空襲時にSさんが抱えて逃げた三省堂の『広辞林』と和歌山市の地図

篠塚辰徳

| 元日本兵インタビュー&交流 | 01:53 | comments(4) | - | pookmark |
戦争体験取材報告 仙台空襲
 取材日:812日 取材場所:仙台


 「仙台の街が空襲の火の手で真っ赤に染まり、死体がゴロゴロと転がっていました」。仙台の戦災復興記念館で、194579日から10日かけて起きた仙台空襲を語り継ぐボランティアスタッフをなさっているKさん(81歳)に、空襲の悲惨さをお聞きしました。


 1933(昭和8)年330日、大阪阿倍野で10人きょうだいの7人目として生まれ、小学2年で名古屋に引っ越しました。


 小学6年まで名古屋千種の小学校に通ったKさんは、「小学生の頃は、少年航空兵に入り、15歳で特攻隊に入ると思っていた。純粋な少年だった。死に体する恐怖はなかった」と当時の気持ちを明かしました。


 戦況が悪化した昭和205月頃、仙台青葉区の西公園近くに疎開。父親の会社の社宅で暮らしました。


 米軍機による仙台空襲は79日夜から10日未明にかけてでした。


 79日夜9時ごろ、警戒警報が鳴るも30分後には解除されたといいます。


 ですが、710日未明、「ザーン」という焼夷弾の音で、寝ていたKさんは飛び起きました。


 すぐに疎開先の家から50メートルの防空壕に入り、2時間ほど続いた空襲が終わるのをじっと待ちました。


 警戒警報が解除され、燃える家に近づこうとしたが、近寄れませんでした。疎開先は高台だったため、真っ赤に燃える仙台の街が見えたそうです。


 この空襲で約1500人の住民が亡くなられました。


 空襲から2、3日後、トラックやリアカーで山積みにされて運ばれる遺体を見ました。遺体は、手足が焼け落ちて、胴体だけになっていたといいます。


 近くにあった火葬場は、16基ほど。遺体すべてを火葬場で焼くわけにはいかず、遺体は川辺で焼かれたといいます。


 Kさんは、「その時に数多くの死体を見すぎて、死体に慣れてしまいました。その後、家族の死体を見ても何とも思わなくなっていた」と衝撃への慣れの怖さを語りました。


 Kさんは、空襲の語り部として、地元の小中学生に戦争のことを話す際、「あたたかいこころ」を持った人間にならないといけない、と話すそうです。


 「あたたかい」の「あ」は「あいて(相手)」の「あ」です。相手のことを考えられないと、残るのは「たたかい」だけ。なぜ戦争が起きるのかといえば、この相手を思いやる気持ちがなくなってしまうからです、と子どもたちに話すと、みなさん頷いてくれるといいます。


篠塚辰徳

| 元日本兵インタビュー&交流 | 16:30 | comments(0) | - | pookmark |
元日本兵取材報告 中国戦
取材日812日 取材場所:仙台

 太平洋戦争末期の19441月から終戦までを、初年兵として中国の戦地で送ったHさん90歳)を取材しました。


 小雨がぱらつく中、仙台駅から市営バスで約45分走ったところにある老人ホームを訪ねました。


 Hさんは、6畳くらいの個人部屋で暮らしており、部屋の隅には戦争関連の文献が積まれていました。


 1923(大正20)年8月に宮城県岩沼で生まれたHさんは、青年期を東京都神田で理髪師として生活していました。すると、20歳になった昭和18 年1128日に、召集令状が届いたといいます。陸軍仙台22部隊つつじヶ丘4連隊に入隊しました。約2週間の訓練を経て、下関から船で上海を経由、昭和19年の正月ごろに南京に上陸したそうです。


 南京上陸後は、第13師団第一野戦病院(鏡)第6815部隊に入隊し、10日ほど歩いて荊門(ケイモン)まで移動しました。そこで、3ヶ月間の基本教育を受けました。内容は、三八式歩兵銃を担いでの移動や衛生管理だったそうです。訓練を終えたHさんは、荊門の野戦病院で兵站業務に就きました。


 昭和194月に入り、Hさんは湘桂(ショウケイ)(別称、南支一号)作戦に衛生兵として加わります。新溝(シンコウ)、漢口(ハンカオ)、武昌(ブショウ)を経由し、管渡市(カントシ)にたどり着きました。


 途中の武昌で初めて銃声と砲撃音を聞きました。とうとう戦地にやってきたと実感し、恐怖を覚えました。


 移動したのは、兵士だけではなく、馬も含まれていました。兵士が飲む水もままならない状況でしたが、上官はHさんたち初年兵に向かって、「お前たちは馬のあとから水を飲め。兵士は一銭五輪だが、馬は三百円もする。お前たちは死んでも構わん」と言いつけました。Hさんは今でもその屈辱を覚えています。


 管渡市に到着したHさんは、現地の住民宅からの徴発を命じられました。Hさんは、「徴発なんてものは窃盗ですよ。当時の日本人は、中国人のことをチャンコロと呼び、同じ人間と思っていなかった」「日本軍は中国人の女性を拉致して、日本軍の荷物を運ばせたりしていました」と振り返りました。


 「飯盒炊爨(はんごうすいはん)で燃やす資材は、徴発で行った中国人の家具を壊して、それを燃やして炊飯の燃料にしていました。戦争というのは、自分が生きるために何でもやることなんですよ」と続けました。


 昭和197月からは、衝陽(コウヨウ)作戦に参加しました。そこで開設された野戦病院で、経理業務をHさんは担当しました。病院には、食料がなく栄養失調で運ばれる兵士がたくさんいたそうです。その中に、Hさんの小学校時代の同級生も混じっていました。その同級生は、痩せこけて、青白い顔をしていたといいます。病院で療養した後、また戦地に送られたその同級生は、約二ヶ月後に亡くなられたそうです。Hさんは「おそらく餓死だったと思うが、それでも戦死になってしまう。ただ食い物がなくて死んだだけなのに・・・」と憤りました。


 終戦は、来陽(キオウ、貴陽?)で迎えました。3日遅れの818日に、部隊長が終戦の詔書を読み上げました。それを聞き、周りは泣く人、喜ぶ人、それぞれだったそうです。Hさんは、「バンザイ」と叫びました。これでようやく母の元に帰ることができると思いました


 インタビューも終盤になり、「海外で上映するのですが、何かメッセージはありますか」と聞くと、


 「軍の命令といえど、ただただ申し訳ない思いです。・・・中国人の家の壁に黒い文字で、リーベン・クイズと書かれていたことがありました。意味は、日本の鬼です。当時の日本軍はまさに鬼でした」

 「今の若い人には、戦争は、ただの人と人との殺し合いなんだということを知ってほしい。そこに潜む悪を理解してほしいです」


このようにHさんは締めくくりました。


篠塚辰徳

| 元日本兵インタビュー&交流 | 16:21 | comments(0) | - | pookmark |
今年初の元日本兵取材
皆さま、新年いかがお過ごしでしょうか。
まだ一ヶ月も経っていないのが信じられないほど、今年に入って色々な想いが交錯しています。

まずは年明け早々に、昨年取材させて頂いたKさんより連絡を頂きました。
片づけをしていたら、出征した兵隊のいる家に配布された札が出てきたとのこと。
早速、ご自宅まで伺いました。お兄さんも戦地へ行かれたというKさんの家には、2つ掲げられたそうです。これがかけてあることが、その家にとって誇らしいことだったと言います。


そして、先週末は中国で特務機関員だったというYさんのお宅に伺いました。
「悪いことをするのが部隊の仕事だった」
「実際にはやらなかったけど…」
と前置きされ、時限爆弾や発火装置作製、鉄道破壊作戦、工場の運転を止める訓練などの教育を受けたとのことでした。

幸い、教育期間中に終戦になったということで、実際に手をくだすことはなかったそうです。戦後10回も中国へわたり、現地の方々と接する中でよい思い出が出来た様子。
今、中国の方々に対する思いは?と伺ってみると、
「中国の人たちには痛手を与えてきたと思う」
と胸の内を語ってくださいました。

2004年からBFPの活動を行ってきましたが、ここ数年はお話を聴かせてくださる兵士の方も当然のことながらご高齢の方々ばかりです。言葉少なに語られる中から、想像力を膨らませていないといけないと思う場面が多々あります。

そんな時、これまで本に描かれてきた日本兵の描写が役立つときがあります。年末年始に『戦場へ征く、戦場から還る(新曜社)』を読みましたが、兵士たちを描いた小説を手がかりに、その心情に迫るもので参考になりました。

想像力を働かせながら、これからも取材を続けていきたいと思っています。
| 元日本兵インタビュー&交流 | 21:19 | - | - | pookmark |
11月18日取材報告【終戦前後の一ヶ月間を部隊で過ごした元日本兵】
終戦前後の一ヶ月間を部隊で過ごした元日本兵

夏井佑来

1118日(日)横須賀在住の伊豆利彦さんにお話を伺う機会を得ました。当日は、私一人による単独取材となりました。はじめての単独取材で、不慣れな部分もありましたが、過去の同行取材の経験を元に、取材を進めさせて頂きました。


伊豆さんは、大正151110日に福岡県の北九州直方市に生まれました。小学校4年生まで福岡北九州で暮らし、その後東京に引っ越しました。進学された中学校と高等学校時代の思い出について、伊豆さんは教育の観点から次のようにお話してくれました。


まず、中学校ですが、当時の学校には一般に御真影を納める奉安殿があったそうです。しかし、伊豆さんが進学された中学校では、御真影をお断りし、その代わりに毎月明治神宮に参拝に出かけたそうです。また、修身の時間には、論語と孟子を徹底的に読まされたそうです。伊豆さんは、当時受けた教育について、自由主義的なとてもユニークな教育であったと語っていました。


話の中では、ご自身が受けた自由主義的教育に加え、戦争が近づくにつれて、右翼の力が強くなったお話もして下さいました。アメリカの大衆文化の影響を受けた日本では、昭和16年頃まで、ミッキーやポパイなどが人気だったのですが、昭和6年の満州事変を機に、非常時と言われ、非国民・国賊という言葉が使われて、文化運動も厳しく取り締まられるようになり、上からの弾圧が激しくなったそうです。


昭和20525日には、東京の自宅が焼け、お母様のご実家のある福岡に疎開しました。2ヶ月後の720日には、その疎開先に電報にて徴兵の命令が届きました。当時は学生に対するの徴兵猶予がなくなり、当時18歳の伊豆さんも徴兵されました。電報で徴兵命令が来て、2日後、甲府の東部63部隊に入隊されました。この東部63部隊ですが、本隊が満州に行っており、その留守部隊として、東京や山梨の青年を徴集し、第一線に送り出す任務を遂行していたそうです。


伊豆さんが入隊されたころは、甲府市外の兵舎を本土決戦に向けて山中に移転するための作業を行うなど、土方作業を行なっていました。病気のため、兵隊が入浴す る温泉を作る作業隊に派遣され、その作業隊の調理を担当したりしたそうです。伊豆さんは多発性関節ロイマティスという病で方々の関節が痛んだのですが、兵隊を嫌う若者がかかることが多く、戦争が終結すると何時の間にか症状が改善したそうです。


部隊には期日に遅れて入隊したため、軍隊生活について何もわからず、周りの兵士に尋ねても、「知らんよ」の一点張りで何も教えてくれなかったそうです。一 方、同じ部隊にいた朝鮮人や台湾人の兵士たちは同情して、いろいろと助けてくれたそうです。当時のことについて、「当時の自分を助けてくれた朝鮮人や台湾 人の兵士が、私の本当の戦友だと思った」とおっしゃっていました。


終戦の半月ほど前、洗濯場で一人で洗濯していると、薄暗がりにまぎれて近づいた見知らぬ兵隊から、不意に「戦争が終わるぞ」と言われました。それからひたすら戦争が終わるのを待ち続け、815日 を迎え、玉音放送を聞いたので、中にはこれから最後の決戦に立ち上がれと言われたと思った人もいた中で、驚きもなく終戦を受け止められたそうです。終戦後 一ヶ月間部隊にいましたが、当時のことを振り返り、「戦争が終わってから、急に軍隊が変わった」とおっしゃっていました。終戦後には、旧兵舎に戻り、証拠 となるものをすべて消却処分し、物質の片付けに動員されました。一方、部隊では毎晩のように宴会をしていたそうです。


取材の最後に現代の若者へのメッセージを伊豆さんにお願いしたところ、次の言葉を頂きました。


「時代が人間を押し流して行きます。時代に逆らうことも大事だけれど、一人では逆らえません。逆らうというよりも時代に流されながらも、自分をうしなわず、しっかりと自分の考えを持つようにしないと、大変なことになってしまう。時代の流れはゆるやかな時もあれば、激しい時もある。戦後の今の時代は随分ゆるやかだった気がします。苦しかったけれども、ゆるやかであった。今急に流れが早くなって行くようですから、しっかりと腹を据えて勉強して欲しいと思います。」


最後になりますが、今回の取材を通して、戦争に向かう中で今までの当たり前が当たり前でなくなること、戦争が人を変えること、そして我々が戦争についてメディアを通して見てきたものが時に作られたものであり、時に一断片しか表していないことに改めて気づかされました。今後も、戦争体験者の方々のお話を伺い、過去があっての現在を生き、後世の者に胸を張れる未来を作れるように一人の若者として頑張っていきたいと思います。

| 元日本兵インタビュー&交流 | 22:21 | - | - | pookmark |
元日本兵取材報告  

 今回お話を聞かせていただいたSさんは、愛知県三河の山奥に、義理の娘さんとふたり住まいです。

 元日本兵を対象にした詐欺集団がいたためか、地域の社会福祉関係の方の紹介でお伺いしたにも拘らず、こちらの素性が分からない内は、おふたり共に警戒を解かれませんでした。
 

 しかしながら、ある事をきっかけに不信感を解いていただき、その後は快く取材に応じていただきました。

 Sさんは、大正8年生まれの93歳。

 小学校を卒業された後、岡崎市に数多くあった石屋向けに工具を作る鍛冶屋に「丁稚奉公」に入りました。

 4年後、兵隊検査を受けそのまま現役で陸軍18連隊(豊橋市に本部)に入隊、3ヶ月の訓練を受けた後、「南支(中国南部)」に送られました。

 広東周辺に展開、主に討伐作戦に関わったと言います。しかし、討伐作戦の内容について伺おうとしても、詳しい話になると口ごもり、落ち着かない表情になり、寡黙になってしまいました。

 心の奥に何かお持ちのようでしたが、問い質すのがBFPのミッションではないので、「その後」に話を移しました。

 帰国予定だったSさんに言い渡されたのは、「仏印(仏領インドシナ)進駐」の一員に加わること。今で言うヴェトナムのサイゴンに物資を運ぶのが役割でした。

 1941年12月の開戦時はサイゴンにいたそうです。真珠湾攻撃など、破竹の勢いの日本軍を見てSさんは「戦争に負けることは無い」と確信しました。

 任務を終えると帰国しますが、直ぐに召集されて第17連隊(秋田に本部)に配属されて19年8月末にフィリピンに向けて出発しました。6隻で構成される船団でしたが、出発後約2時間で米潜水艦の攻撃を受け、1隻が撃沈されました。

 沈没船から多くの兵士が逃げ出し、海上に漂って助けを待ちましたが、そこへ友軍の飛行機や軍艦から機雷や魚雷が落とされたり、発射されて、多くの海に浮かぶ兵士の命が奪われました。

 普段なら10日で到着するところを、潜水艦を避けて航行したため、40日かけてフィリピンに到着。戦局が悪いため、休憩する間もなく10日間行軍(一部列車による移動)してルソン島南部のバタンガスの本隊に合流しました。

 現地では、特攻隊の警護をする守備隊に配属されます。特攻隊と言っても、二人乗りのモーターボートで、それに爆薬を積んで米軍艦に体当たり攻撃するのが任務でした。

 10代後半の威勢の良い若者が特攻隊員だったと言います。張り切って肩で風を切るその姿を見てSさんは「若いのにかわいそうに」と思ったそうです。

 かなりの規模の特攻隊でしたが、一度だけ出撃した際も高波で任務を遂行できず、結局は何の成果もあげられませんでした。

 昭和20年になると、米軍の攻撃は激しくなり、やがて連隊は軍隊の体を成さなくなり、食料と塩を持ってジャングルに逃げ込みます。しかし、食料は直ぐに無くなり、地元農民の食料の略奪が日常化しました。

 「悪いことをしたと思いますが、当時は生きるのに必死でしたからね。畑に入って芋等を獲って生き延びました」

 17連隊は、日本軍に捨てられた軍隊とも言われます。食料や武器の補給も一切無い状態で司令本部から切り離されてしまったのです。そうして“棄てられた”兵隊たちは、規律を失い、略奪、殺人、放火、暴行(強姦を含む)の悪の限りを尽くします。飢餓地獄に追い込まれた兵士たちの中には、屍肉にまで手を出したと証言する者もいます。

 飢餓地獄になると、生命力に差が出ました。それまで粋がっていた特攻隊の若者は、一様に若さと脆さを見せることになりました。

 裕福でない農家に育ったSさんはそこまで追い込まれること無く終戦を迎えることができたと言います。

 ある日、海を見たら船団が見え、その船に大きな白旗が掲げられたこと、飛行機からビラが配られたこと、そして最終的に所属していた「藤兵団」から「投降せよ」との命令が下りてきたこと等から敗戦を確信し、9月のある日、投降しました。それまで着ていた服は脱ぎ捨て、食料も棄てて投降しました。

 それは身に付けていたり、持っていた物全てが地元住民から略奪したもので、米軍に見つかると罪に問われると判断したからだそうです。

 約1年3ヶ月、米軍の収容所で過ごした後、フィリピンを離れ名古屋港に到着しました。

 港では女学生の集団が歌を唄って出迎えてくれましたが、近くにいた男たちが群れになり、復員してきた兵士達に「お前たちがだらしないから負けたんだ」と口々に叫びながら石を投げてきました。悔しさで一杯でしたが、Sさんたちはじっと耐えたといいます。

 そして地元に戻ったSさんは、三河の山奥で平穏な日々を送られてきました。当時を回顧して何度も何度も「戦争は絶対に起こしてはいけません」と繰り返されました。

 

 

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取材報告:大正14年生まれのKさん
| 元日本兵インタビュー&交流 | 21:53 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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