取材日:11月11日
場所:埼玉県深谷市(旧岡部町)
●祖父と僕との関係
母方の祖父とは、大学卒業間近だった3年ほど前までは、ほとんど会った記憶がない。僕が幼かったころ、たまに祖父の家に行き、遊んだ記憶があるくらい。
だから、ここ数年、1年に1度の頻度で会っても、お互いに敬語で話す関係だ。祖父のことを僕は「おじいさん」と呼び、祖父は「お前さん」や「お宅」と話しかける具合だ。
写真=戦時中の給与を記録してある紙を見る祖父。
僕とおじいさんが戦争の話をするようになったきっかけは、僕が大学卒業してフィリピンに行くことが決まったことだった。「戦争中、日本はひどいことをしたんだ。戦争はいけないことだ」と深く、しっかりした声で、独り言のように話した。
僕はその時、その言葉の先を聴こうとはしなかった。なぜか。親族という関係性が強いがゆえに、知りたくなかったからという理由が大きい。優しい、しっかりしたおじいさんの、辛い記憶を知りたいとは思えなかった。
それから2年あまりが経ち、今回の取材となった。祖父は95歳で、元気だ。しかし、来年4月からの就職を控えている僕は、今年のチャンスを逃したら、一生聴けないと思った。父方の祖父は、僕が中学生のときに亡くなった。同じ後悔を繰り返したくなかった。
岡部の祖父は、1920(大正8)年9月に生まれた。すでに95歳を迎えるも、機嫌がよければ昼間から日本酒、焼酎を飲む酒豪である。
埼玉県北西部に位置する深谷市は、ネギや白菜、ブロッコリーなど野菜の栽培が盛んである。深谷ネギは、僕の住む横浜にも流れている。
祖父の家も農家だ。ずっと野菜を作り続けている。今は、僕の叔父に当る祖父の息子が継いでいる。祖父が元気なのは、しっかり野菜を食べ、好きな酒を飲んでいるからだ、と以前言っていたのを覚えている。大根おろしをご飯に載せ、醤油をかけて食べるのが好きだと話していた。それが健康の秘訣だと。
●賞状
戦争の話に水を向けると、まず、祖父が話したのが、壁に飾られたいくつかの賞状だ。
「剣術競技会ニ於テ成績優秀ナリ因テ茲ニ之ヲ賞ス 昭和十六年九月二十五日」
「累次ノ戦績優秀ニシテ特ニ十二月二十二日献縣南王大付近の戦闘ニ於ケル武功抜群ト認メ茲ニ之ヲ表彰シ賞状並ニ賞品を與フ 昭和十七年二月十一日」↓写真
「善行証書、品行方正勤務勉励学術技芸熟達ス因テ此証ヲ附與ス 昭和十七年七月九日」
賞状を見ながら、「こんなもんは今になっては自慢になりゃせん」とは言うものの、「課せられた自分の任務は本当に果たしたよ。すべてを」と毅然とした態度で話す祖父の顔は、元日本兵としての誇らしさを感じさせる。
●入隊、中国に
祖父は、8人兄弟の次男として生まれ、地元の尋常高等小学校を卒業、実家の農家を継いだ。
20歳を迎え、徴兵検査で甲種合格。支那駐屯歩兵第三連隊(通称、極2906部隊)三中隊に入隊する。下関から船で北京に入り、ソウケン(湘桂、ショウケイ?)で長く兵隊生活を送った。中国の戦地には、3年8カ月いた。中国での最終階級は伍長だ。
「逃げてあるったり、追っかけていったり。一年中弾の下なんだから」。戦地での兵隊生活を、祖父はこう切り出した。
「わしらが戦ったのは共産兵。共産兵はね、うんと強かったんだ。日本の兵隊をいじめてね。それで、日本はだんだん、だんだん、じりじり、じりじり、負けちゃったんだ。うんとひどい目に遭ったんだよ、わしなんちの部隊も」
ソウケンでは、支那駐屯歩兵第三連隊四中隊に所属が変わった。
写真=武器を携えての集合写真。前3列目の右から2人目(中央付近)が祖父。初年兵時代にソウケンで撮影。
●ソウケン城内
祖父たちの部隊は、ソウケンにある城内に兵舎を置き、そこを中心に任務に就いた。城壁は5、6メートルの高さで、城内には大学があり、中国人も暮らす家があるなど、広い敷地面積だったという。日本軍は、その大学を兵舎とした。ソウケン大学という名前だった。
「日本と同じで、城の周りにクリーク(小川)があって、そのクリークの外から襲撃された。年中、大砲打つんだから。こっちは城内だから、どこに(敵の)兵隊がいるかわかりゃしない」
「兵舎の周りには住民も住んでいた。中国人もたくさんいた。パンを作って兵士に売ったりしてた。城壁の中にいた中国人は、日本の兵隊に抵抗しなかった。抵抗したら殺されちゃうんだから。城内入れば日本兵ばかりだから、幅が効いたんだ。威張ってたんだ。支那人なんちは、ちっちゃくなってんだ」
●捕虜の扱い
話が落ち着くと、祖父は小さい声で語り出した。
「・・・捕虜兵は、ぜんぶ死刑処罰。・・・ばかしだんだよ。初年兵に捕虜を殺させる、なんというかな、度胸試し。馬鹿げなことをしたんだよ」
「捕虜なんかを刺すときは、(銃)剣だった。剣だって、刀ほど切れないんだから。だから、結局撃ち殺したんさ」
「突撃だって何回かしたよ。敵が逃げて、こっちが襲いかかれば突撃だ。追っていくんだから。追っていくときは、剣を付けたこともある」
「支那人が突撃なんかして、皆殺しにされた部隊があった。そしたら、こっちだってそれ以上のことをするかんね。家なんてみんな潰しちゃうから。こんな小さいのだって殺しちゃったんだからねぇ。恐ろしかったよ。だから戦争なんちゅうもんは絶対するもんじゃない」
写真=昭和18年、岡部に戻った祖父は、近衛一連隊十二中隊に入隊した。写真は同じ部隊の兵士たちと。前2列目左から2人目が祖父。撮影地は日本。
●取材を終えて
「戦争はいけないことだ」と言っていた祖父が、どんな経験を基にその思いを導き出したのか、取材をする前に僕が抱いていた疑問に近づくことができた。
しかし、僕の質問が甘かったことや、血縁関係という強い繋がりがあるがゆえに、そして、過去のこととして記憶を整理し、祖父が胸に固く閉まっているがために、祖父が僕に話していない、まだまだたくさんのことがあると僕は考える。
この話の先が、今年中に聴けるのか分からない。「分からなかった」で終わることのないように、祖父との交流を続けていきたい。
篠塚辰徳