NPO法人ブリッジ・フォー・ピース(BFP)の公式blogです。
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BFPとしての、2度目となる北京訪問報告
初めてBFPとして、中国・北京を訪ねたのが2011年。
なかなか再訪の機会に恵まれませんでしたが、あまり間を空けてはいけない…と思い切って、北京を再訪しました。前回同様、熱田敬子さんにコーディネートをお願いし、行ってまいりました。熱田さん、今回も大変お世話になりました!

短期ということもあり、ツアーとしてではなく、前回お世話になった方々のご挨拶まわりが中心です。BFPとしての中国プロジェクトの全体像が、まだまだ私自身しっくりときてはいなかったのですが、今回の訪問で明確になってきたことが一番の収穫と言えるでしょう。

特に、前回は私自身が中国に行くこと自体が初めてということもあり、イメージを描くのも一苦労。ようやく、どういう視点でこれからプロジェクトを進めていくのか、私なりの視点が出来つつあります。

出来れば来年、もしくは再来年には、一つの「形」として具体化させたいと考えています。
もし関心を持ってくださる方、ご協力頂ける方がいらっしゃいましたら、ぜひご連絡ください。お待ちしております。

大学関係者及び研究者の方々からも、前向きなご意見を頂く事が出来たと思います。示してくださったお気持ちを無駄にせぬよう、失礼のないよう、しっかりと準備して臨みたいと思っています。


私自身が中国と出会う中で、見方が変わってきているのを感じています。
もっともっとお隣の国である中国の事を知りたい!そう思っています。


 
| 中国訪問レポート | 21:54 | - | - | pookmark |
取材レポート 【中国で衛生兵として M.Mさん】
2012.03.13 Tuesday 元日本兵取材レポート  
【 M.Mさん 】 
  神奈川にお住まい、今年90歳になられるMさん。 先日のフィリピンツアーに参加された矢口さんと一緒に、 お話しを伺ってまいりました。 

 【概略】 
 1922年3月31日、福岡県柳川に生まれる。一人っ子。 20歳のときに徴兵、1943年4月10日、久留米48連隊に衛生兵として入隊。 3ケ月の歩兵訓練、6ケ月の陸軍病院での教育訓練を経て、 1944年2月、共産党八路軍との大規模な持久戦が続いていた中国山西省・盂県に送られる。 

 所属していた「かため兵団第七連隊 第4中隊」の任務は「治安維持」。 Mさんの衛生兵としての任務は、部隊と共に連行された従軍慰安婦(朝鮮の婦人)6〜7名の 性病検査の手伝い。 大本営からは物資が届かず「現地調達」を命じられる戦況の中、半年ほどで山の中の分遺隊へと 派遣され、部落の急襲を行うようになる。現地婦人を連行監禁、慰安婦としたりもした。

  終戦の日の記憶はなく、指揮系統が乱れる中、10日ほどして人づてに聞いた。 司令官によっていつの間にか中国軍下に組み入れられたまま戦い続け、1946年3月15日、帰国。 

【感想】
  衛生兵であったMさんは、 『 私を侵略戦争に突き進ましめたものは何だったのか ―「慰安婦」問題の根源にあるものー 』 というテーマで講演をされてらっしゃいます。 Mさんは絶えず、先の大戦の原因、ひいては明治以降の近代日本の思想すべては 「天皇制」だ、という強くおっしゃっていました。 天皇制国家体制の柱として、 大日本帝国憲法、教育勅語、軍人勅諭があり、「戦争をするための教育」だったと。 天皇家は問題ではない、近代天皇制が問題だと。

 ●日本はまた戦争をすると思いますか? 『ああー するでしょうね このままいけば。 僕はそう思えてならない。』 日本人が歴史を、事実を知らないことで、その風潮を最近特に感じると。 衛生兵として、従軍慰安婦の存在を目撃しているMさんは、 『この前も、40歳くらいの男性が近寄ってきて、 “従軍慰安婦なんていなかったんでしょ?”とこう聞くわけですよ、 わたしは“何を言いますか、おりますよ、私が生き証人ですよ”と言いましたけれども。 こんなバカなことがありますか? このような、それそのものがなかった、と言いだす輩が出てきている』 と憤っていらっしゃいました。 『私のいた第七部隊だけで6〜7名の“慰安婦”がいましたよ。 各部隊の、、と掛け算しますと、それだけで7×6名=42名でしょ? それがアジア中の日本軍全体なわけですよ、、、』 挺身隊としての強制徴収で、朝鮮半島から連れてこられた婦人たちに加えて、 現地の兵隊は現地で部落を襲うごとに「ユウ ハオ クーニャン(娘はおらんか)!」と叫んだとのこと。 『部落急襲なんて、結局はドロボウ、あわよくば強かんですよ、 中国の人は日本軍に対して面従腹背でしたね』

 ●現地の中国の方へのメッセージ 『それはねぇ、、、それはもう、、、、謝るしかない』 とそれ以外にないという表情でおっしゃっていました。 『今も、一緒に行きませんかちゅうてよく誘われますけれども、 いやぁ・・・私はもう中国の土地は踏めないわ、ちゅうて。。。 だって、中国の人たち何にもしてないのにこっちが勝手に攻め込んでいったんですよ? 勝手にひどい目に合わせて。。。』

 ●3年間の軍隊生活で一番印象に残っているエピソードは? 『岩手から来た3人の通信兵が  “やわらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに”と唄っていたこと。 泣いてはいなかったとは思いますが、仲間のやることの情けなさに、泣きたいような気持ち だったのでは?と思いましたね。。。』

 ●Mさんにとって、先の戦争とは何ですか? 『根源は天皇制だ、ということでしょうね』 

 ●戦後世代へのメッセージ 『とにかく、とにかく日本近代史をしっかり勉強してください!!!』 『僕は、歴史の授業は近代からはじめて、昔にさかのぼっていけばいいと思う。 若い人たちは明治以降のことを知らなさすぎる。』 『戦争体験なんてね、やられた方はそりゃ話しますよ。でもやったことは。。。 私は、私の恥をさらしてまわるのが使命だと思っとります。 それで少しでも若いひとたちに、昔の日本の姿を知ってもらいたい』 と。

 ●もし今また、(出征したころの)20歳の自分であるなら、どうしますか? 『 行かない。 』 『 行かんちゅうたら、牢屋に入れられていじめられて死んでしまうかもしれませんがね、、、   その方がマシだったような気がします 』 以上です。 なお今回取材するにあたって、今まで漠然とイメージでとらえていた “従軍慰安婦”について学びましたが、これほど組織的に 大規模に行われた性犯罪だったとは、、、 どんな戦場でも必ず性暴力は存在しますが、日本の場合、 軍が組織的に行ったという点が、 世界的・歴史的に見ても異質だと思います。 日本軍は、作戦を展開したあらゆるところで軍公認の『慰安所』をつくり、 植民地だった朝鮮や台湾、進駐先の中国、インドネシア、フィリピンの女性 のほか、将校の相手となる日本女性を連行。 時に騙され、時に無理やり連行された女性たちは、慰安婦として、慰安所で 犯され続け、日本兵のストレスを解消し、戦意を高めるための道具にされました。 慰安所のない場所では、強かん所をつくります。 掃討に出て、少女を含む女性たちを拉致し、拠点に監禁して輪かんを繰り返す場所のことです。 そこでの暴力は凄惨をきわめ、死亡したり自死したりすることも多く、戻っても子供が産めない からだになっていたり、家族や親類から冷たくされたり、PTSDに悩まされたり、と 生涯消えない心身の傷。。。 改めて、日本軍がアジア全域の女性に遺した爪痕に愕然とすると同時に、 全日本人、特に女性は知るべきだと感じました。 H.MATSUMOTO
| 中国訪問レポート | 02:34 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
北京4日間(会員・町田)

今年7月の「言論NPO」がおこなった日中共同世論調査によると中国に対して“良い・どちらかといえばよい印象を持つ”日本世論は20.8%、その逆の中国世論は28.6%にとどまり、尖閣問題が反映されていることは明らかと指摘しています。そんな折、わずか4日間の日程でしたが、私にとって観光目的以外では初めての北京訪問であり、貴重な体験をさせてもらいました。以下、断片的ですが、感想を記します。

●中国社会科学院近代史研究所長・歩平さん(2006~2009年、日本政府提案による日中歴史共同研究の中国側責任者)のような政府系シンクタンクのトップクラスの方とBFPが面談できたとは、実は内心驚きでした。初対面で、こちらから立ち入った質問や意見交換を求めるなどは無論自制しましたが、歓談の席では、歩平さん自身が今の仕事に携わるようになった由来などを気さくに語ってくれるのを聞きながら、ある種、中国人のフトコロの深さを感じました。氏は、かつて日本の政治家との対談で、日本と中国の相互理解のためには、まず、あらゆる市民どうしの交流や対話が必要と熱く語っています。まさに有言実行者という印象を持ちました。

●観光スポットで有名な故宮(清朝の王宮)が、かつて日本軍の管轄支配下にあった頃、こんな惨劇があったことをはじめて知りました。日本軍は大陸の都市を攻略するごとに、その“戦果”をみせつけようと北京市民を強制的に故宮に集め、延々報告を始める。長時間、不動の姿勢を強いられた小学生を含む群集は、何かのきっかけで欄干からなだれを打って落下、死者・重傷者多数を出す…。この事故を伝える記事は、翌日の新聞には一言半句も無かったそうです。

歴史に if は適用できないのは承知のうえですが、かりに戦時中、皇居が外国(軍)の管轄支配を受けていたら、その外国に日本人はどんな民族感情を持ったでしょう?

●盧溝橋の中国人民抗日戦争記念館を見学の後、その隣で展示中の日本のWAM(女たちの戦争と平和資料館)が企画した「中国での日本軍性暴力パネル展」も参観。展示パネルの最後に感想を書き込むボードがありました。“日本鬼子”(抗日戦争時代、中国民衆が日本に向けた憎しみ・怒りのコトバ)などに並んで、“中華民族復興”、“中国大国地位確立”、“中国国際地位向上”といった自信と自負のコトバが目につきました。はじめ正直“ちょっと?”と違和感を覚えましたが、しかしここに屈辱を二度と許さない彼らの意思が込められているのだととらえ直し、さて、BFPが彼らとどのように平和の架け橋をつなげられるか、思い巡らしてみました。

●この夏、来年から使われる中学歴史教科書に、第二次世界大戦での日本のアジア侵略を正当化する育鵬社版が、残念ながら全国いくつかの地域で採択されました。ここで、その背景やいきさつに触れる余裕はありませんが、戦後1946年、スミでぬられた教科書を手にした小学一年生として、又日本と中国の近代史を学ぶものとして、胸に刻まれた言葉があります。ヴァイツゼッカー元西ドイツ大統領が、ナチス・ドイツ降伏40周年にあたり述べた一節です。

―過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもまた盲目となるー


| 中国訪問レポート | 22:39 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
中国との出会い(中村潤一)

○中国に行ってみたい!


 とにかく生の中国をみたい!そんな気持ちから今回のスタディツアーに参加させていただきました。これだけ中国が注目され、日本の街中にも中国人が溢れる今日、私は漠然と中国という国に興味を持っていました。偏見というよりは何か霧の中で見えないような感覚。そんな感覚を払拭し、中国に対する理解を深めるため、キャリーバックを引っ張り出しました。そして中国初上陸!自分では意識していなかった中国に対する誤解を認識し、またイメージの大きく変わった一週間でした。


○ナチュラルで勢いのある国


 中国のイメージ…汚い、臭う。しかし、実際に訪れてみるとそんなに臭いがひどいわけではなく、また街全体も思ったよりもキレイで発展している印象を受けました。和僑会との親睦会の際、現地に留学中の日本人学生が、「中国の1週間は日本の1カ月だ」とおっしゃっていました。ちょっと油断していると急激に変化、発展する国、それが中国なのだと感じました。そして人の多さ。広い広場に人、人、人。地下鉄、バス、タクシーの利用も争奪戦でした。日本人の感覚では、そういった「我先に」の行動には違和感がありますが、中国ではそれが当たり前なのだと思います。海外に出るといつもそうですが、今回の中国でも、当たり前が当たり前でない感覚を感じることができました。中国は一人一人に「勢い」があればこそ生きていける社会なのかもしれません。
 また、中国の公園では、いつも多くの人々がソーシャルダンスやバトミントン、伝統遊び、将棋やトランプなどに興じています。子どもからおじいちゃんおばあちゃんまで様々な世代が公園で余暇活動を楽しんでいました。実に素晴らしい光景だと思いました。こういった開かれた自由なコミュニティが日本にもあればと切実に思い、羨ましかったです。国の印象として何となく中国は閉鎖的なのではないかと思っていましたが、閉鎖的で窮屈なのは日本社会の方かもしれません。


○made in Chinaの偏見


 4日目に訪れた“南羅鼓巷”は、中国の歴史ある家屋を活かしたオシャレな街です。若手デザイナーの商品を取り扱うアパレルの店や、カフェの並ぶ通りでした。正直、この通りの散策が私の中国への印象を一番変えたといえます。made in Chinaといえば粗悪品のイメージ。しかしここで並べられている服やカバンは実にファッショナブルで、センスがあり、質感も非常に良いです。私もデザインに惹かれてトートバックを即決購入してしまいました。日本にはこういった良質な商品は入ってこないように思います。日本で目にする中国製の製品は安かろう悪かろうの商品が主流です。日本の生産者からすれば、中国の良いものを仕入れても、実際問題としてブランディングの点で中途半端になってしまうので仕方ないとは思いますが、何かもったいない気持ちになりました。made in chinaのタグの持つ意味とその影響について考えさせられます。


○歴史認識の溝


 滞在中は現地の方々との会食が多く設定されていました。BFPにとって非常に重要なこの時間に、私のような若輩者がどういったスタンスで席に座っていればいいのかわからず、ひとまず傍らで皆さんのお話を拝聴しておりました。ある日の会食で中国の日本語学校の先生に会話の流れの中で「日本の若者は歴史を知らないの?」と質問を受け、私は「戦争があったことは知っているが、具体的に何があったかは学校では教えられてない」と答えました。非常に穏やかで親切な先生ですが、その際のどこか残念そうで、怒っているような目は印象的で、戦争に対する日本と中国の認識のギャップは想像以上に深いようでした。戦争に対する認識の甘さという点では私自身も例外ではありません。結局私も戦争についてはよく知っているとはいえませんし、中国の方に平然と「知らない」と言えてしまうわけですから。戦時中に起きた出来事、日本がアジア諸国に行ったことは確かに日本人には耳が痛いと思います。しかし、知る義務と責任があるでしょう。且つそれらを感覚的に認識する必要があると思います。そういった現地の方の雰囲気を直接感じるという点で、先生の目は印象に残りました。
 ツアーの終盤、芸術街で出会った芸術家の方とお食事をする機会がありました。その方は以前、お客さんとしていらした元兵士の方と話をされたことがあり、過去の行為について謝罪を受けたといいます。しかし、この芸術家の方は「被害を受けた上の世代に代わって自分たちがその謝罪を受け入れることはできない」とおっしゃっていました。また一方では、「自分たちの世代には自分たちの世代でできることがある」ともおっしゃいました。これは私の感覚でですが、歴史認識に対する中国のスタンスからは、日本の過去の行いについては厳しく追及しながらも(厳しくというよりは当たり前なのですが)、日本とは友好的な関係を築いていこうという日中友好への積極的な姿勢を全体的に感じました。こうした中国の懐の深さには感動します。しかし、こういった姿勢に私たち日本人が甘えるわけにはいきません。中国の方々は直接口には出しませんでしたが、やはり日本の過去の行為に対する「恨」があることには変わりないように思えます。中国の方々の示してくれる優しさには頭が下がる思いですが、同時に私たち日本人には認識のギャップを埋めていくためのより積極的な努力が要求されているといえます。


○まだまだ無知


 BFPのスタディツアーとしての訪中でしたが、私個人としては単純に中国という国を楽しませていただきました。渡航前、私は中国について何もしらないと思っていました。しかし実際には何もしらなかったわけではありませんでした。made in China=粗悪品のようなイメージです。中国という国家は共産党が統制していて、日本人からみると中国人はgoing my wayで、テキトーで、ガツガツしている。そんなイメージです。しかしこれはある意味当たっているようで、あまりにも不十分な情報でした。少なくとも今回中国で訪れた場所や出会った人々からは大変好印象を受けました。
 おそらく中国には、今回の短い滞在期間ではみることのできない複雑な社会が広がっていることと思います。結局まだまだ私は中国について無知です。噛めば噛むほど味の出そうな中国。今後は今までとは違った感覚と視点で注目していきたいです。

| 中国訪問レポート | 14:49 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
北京ではがれ落ちた中国への偏見(訪問レポート)
 今回のBFP初・中国ツアーで私自身が得たもの、それは紛れもなく中国という国に対する色眼鏡をはずすという、日本にいてはなかなか果たせなかったであろう感覚でした。BFPという組織を作り、ここ7年はフィリピンの方々と向き合う中で、相手を「知らない」ということが互いの距離を広げてしまうことがあるし、誤解を生みやすくしてしまうと感じてはいました。まだ訪問した事のなかった中国についても、マスコミを通して得る情報とは違う側面があるという事を頭では理解していたつもりです。しかし、百聞は一見にしかず。

 滞在中、自分の中にあった偏見が、バリバリと音を立てて剥がれていくのを感じました。そして想像をはるかに上回る冷静な中国人の対応に、考えさせられる事が多々ありました。このレポートでは、具体的なそれらのエピソードを紹介すると同時に、さらに掘り下げて、そこから見えてくる問題について見据えてみたいと思います。

 言うまでもなく、BFPの中国プロジェクトの第一歩としては、良い一歩を踏めたと感じています。ツアーにご参加くださった会員の皆さま、コーディネートを担当してくれた熱田さん、ツアーの成功を見守っていてくださった皆さま、本当にありがとうございました。そして、BFP中国プロジェクトの実現を可能にしてくださったアジア・コミュニティ・トラストの皆さま、心より御礼申し上げます。

1.素顔の中国人の日常
2.日本のテレビには流れない、中国人の懐の深さ
3.「歴史について語りたくない」という中国の若者達の真意
4.中国への風当たりが強い背景をしっかり捉える必要性


1.素顔の中国人の日常

 まず、到着直後から新鮮に感じたのは、素顔の中国人の様子です。初めて中国を訪問した私の中には、反日デモに参加する中国人の様相が知らず知らず脳裏に焼きついていたのでしょう。ニコニコと話しかけてくるホテルのベルボーイに好感を持ち、鼻歌を歌いながら町を歩いている若者を驚きをもって凝視している自分がいました。考えれば当たり前の事ですが、それ程までに自分の中に偏見があったことに改めて気づかされ、そんな自分にもハッとさせられました。

 その後も、私の中の驚きは、心地よい中国理解へと次々に繋がっていきました。町を歩いていると、どこからともなく歌声や音楽が聞こえてくる事が多々ありました。大抵は公園の中から聞こえてくるものでした。老若男女が集い、歌や踊りを楽しむ姿がそこにはありました。

 そして地下鉄に乗ろうとした時のこと。既に沢山の乗客が車内にいて、乗り込むのが大変な程です。目的駅に着いた時も、人をかき分けて降りるのは、それはそれは骨の折れる事でした。でも逆に考えれば、人口13億人以上の人が住む中国、ましてや首都の北京において、自分を強く持たないと生きていかれないのが分かる気もしました。日本にいると、中国人の図々しさを指摘する声を耳にすることもありましたが、実際その地に立つと、その背景がよく分かったような気がしました。
 

2.日本のテレビには流れない、中国人の懐の深さ

 次に印象深かったのは、中国人の懐の深さでした。中国に住んでいた経験のある元日本兵からは聞いていた事ではありましたが、腑に落ちていない自分がいました。しかし、今回盧溝橋にある抗日記念館を訪ねた際、その事がストンと理解できたように思いました。

 その記念館は、名称の通り日本軍に抵抗した歴史を展示している博物館です。最初の展示部屋は満州事変の状況が解説され、抗日を宣言する様子がドラマチックに描かれています。中ほどには南京虐殺に関するパネルもありましたが、聞いていたよりはトーンを落とした、随分と冷静な展示だと感じました。

 そして最後の展示部屋には、日中国交正常化など日中友好をテーマにした部屋が設けられていたのです。全く想像していなかった展開でしたので、度肝を抜かれました。日本では、いかに中国政府が反日教育をしているか、という事ばかりが言及されますが、実際はその逆の事が行われていると言えるでしょう。

 他にも同じような印象を受ける事がありました。日本軍の憲兵隊本部だったという新文化運動記念館(旧北京大学紅楼)を訪ねた時のことです。その記述がどこにも見受けられなかったので解説員の方に伺ったところ、「自分はもちろんその事実を知っていますが、今、正確な根拠に基づいて話をすることができません。言えばそれは推測です。こうした敏感な問題については、具体的な事実に基づいて話さなければなりませんし、推測で曖昧な話をすることはあってはなりません。日本軍関連のお話の解説がご希望でしたら、事前に解説のリクエストをお願いします」」という回答を頂きました。事を荒立てるのではなく、不確かなことは説明しないというその姿勢に感銘を受けました。

3.「歴史について語りたくない」という中国の若者達の真意

 そして、最後に私自身が意外に感じたのは、交流させて頂いた数人の中国の若者から「日本人とは、歴史について語りたくない」という言葉が出たことです。日本にいると、歴史問題について中国人から責められるのではないか、という意識ばかりが働いていたように思います。ですから、私はいつそのような機会が訪れるかと待っていたようなところがありました。でも実際はその逆で、あまり語りたくないという姿勢が見受けられました。勿論、1週間という短い滞在の中で、交流した人数が限られる中、この印象が全てであるとは思っていません。

 しかし、こう発言した彼らの口から、続いて出た言葉がさらに印象的でした。「日本人と歴史の話をして、お互いに嫌な気持ちになりたくない」「事を荒立てたくない」という事でした。日本人への配慮が見られるこの対応に、びくびく怯えているのは日本人側だという気がしてなりませんでした。

 BFPは設立当初から、元日本兵の想いをビデオメッセージとして被害国へ届け、懸け橋を築くということを目的としてきました。私自身、こんな事をして一体何になるのだろう、という不安を抱えていなかったと言えば嘘になります。でも、私の中には、対話を避けていては新しい関係は築けないのではないか、という確信に近い想いがありました。

 今回も「本当は歴史について話さないようにしている」という20代後半の方とも意見交換をする機会がありました。その彼から、帰国後すぐにメールが届いたことに希望を感じましたし、別の中国人の方からは「歴史問題は避けるのではなく、互いに真摯な気持ちを伝えることこそがどれほど大事なのかを初めて痛感しました」というメールを頂きました。当然のことながら、配慮は今後も十分にしていかなければと思っていますが、BFPの中国プロジェクトはこれから実施していく上で、状況を把握するという点においては、良い交流ができたと感じています。


4.中国への風当たりが強い背景をしっかり捉える必要性

 以上、3つの視点から中国で受けた印象をまとめましたが、これらの事から強く感じたのは、日本側の抱える問題です。つまり、中国への風当たりが強い背景をしっかり捉える必要性があるという事です。

 中国では日本の原宿と同じような若者の町があり、お洒落で洗練されたファッションを楽しむ姿がありました。一方、日本で報道されるのは遅れた中国、という側面が圧倒的に多いように思います。この事は、一体何を示しているのでしょうか。

 知らず知らずのうちに、過去の出来事に対する後ろめたさがひねた形で現れているのかもしれません。成長を遂げている隣国に対する、ライバル意識が見え隠れしているのかもしれません。

 それ以上に私自身が恐れるのは、中国と日本が良好な関係を築き、結託する事を恐れる国際関係が存在するという事です。ここでは深く掘り下げませんが、このような覇権争いともとれるバランスが戦争を引き起こしてきたことを見逃してはならないと思います。単なる中国嫌いという事よりも、そのネガティブな感情を利用する人々がいるという事を、私達は忘れてはならないのではないでしょうか。

 帰国後にお邪魔した日本での上映会で、「争いのない社会は求めたいけれど、尖閣諸島の問題など、相手が力づくで襲ってくる場合はどうしたらいいか混乱しています」と声を掛けられました。

 草の根で交流を広げていけば、それ程大きな溝がない事に気づきます。でも相手を知らないと、不安に駆られ、恐怖心が募ります。

 第二次世界大戦を思い返す時、当事者だった多くの方々が「洗脳されていた」「マインドコントロールがあった」とおっしゃいます。大きな渦に飲み込まれず、冷静に判断する視点が求められていると思います。その為に出来ることを、BFPとして今後も続けていきたいという思いを、改めて強くするツアーとなりました。

 今後、毎年ツアーの開催を予定しています。皆さまのご参加をお待ちしています。
(余談:中華料理は、どこもとっても美味しかったです!)

| 中国訪問レポート | 19:19 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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