Cさん宅の取材を終えて秋田市に近付くと、強い雨となりました。私は
前にも書きましたが、究極の晴れ男で、今回も車で移動中は雨に降られても、
外に出る時はほとんど止んでいました。
秋田市では地元に住む友人が一席を設けて待ってくれていました。彼は今
回、人や車の手配を快くしてくれた人物です。取材の成功の鍵は彼にあったと
言っていいでしょう。
美味しい食事と話を満喫、夜遅くホテルに戻りました。
翌朝また早起きをして、今度は奥羽本線の電車に乗り、青森に近い県北の鷹ノ
巣駅に向かいました。
私は地方を旅する時、必ず現地の新聞を手にしますが、その日の『秋田魁新報』
の一面に、「鷹ノ巣の病院でインフルエンザ集団発生」とありました。タイミン
グは悪いですが、予定を変更するほどのことではありません。
電車を降りて改札口に行くと、案内役と通訳をお願いしていた宮野明義さんが笑
顔で迎えてくれました。宮野さんは写真家でこの辺りに精通する頼もしい助っ人で
す。
宮野さんの運転する小型ジープで、軽快に取材が始まりました。元日本兵のDさ
んのお宅に着くまで自己紹介をします。それとBFPの活動の説明をしました。
Dさんの家は宮野さんのお陰で比較的簡単に見つけることができました。Dさん
は復員後、数々の要職に就かれていた事もあってか、90歳とは思えぬほどの矍鑠
(かくしゃく)とされた方でした。傍らには息子さんが付き添われました。
Dさんは、太平洋戦争の始まる1941年に〇連隊に入隊。
対戦車攻撃の訓練を受けて満州(現中国東北部)に送り込まれました。南方戦線の
戦況の悪化に伴い、中国に駐留していた日本軍の多くが南方戦線に送り込まれまし
たが、Dさんの部隊も例外ではなく、満州を後にすると、1944(昭和20)年9月に釜
山港から南方行きの船に乗せられました。
その頃、制空権のみならず、広い海域も米軍の支配下にあり、Dさんは「フィリ
ッピンに送り込まれた船の半分が沈められて、100万人の内50万人しか上陸で
きなかった」と言われたましが、船団の多くが大きな被害に遭っていました。
Dさんの船団(13隻)は、軍旗を積んでいた為、飛行機の護衛がつき、途中、
米潜水艦の攻撃を受けそうになりましたが、護衛機がそれらを撃沈、無事にマニラ
に着くことができたということです。
そうしてマニラに着いたDさん達は、それからルソン島南部のバタンガス州に向
けて13日間の行軍。猛暑と疲労から日射病やデング熱に罹る者が続出、士気が急
速に低下していったそうです。
連隊本部のあるリパに着いた途端、米軍機の空襲を受けて翌日には大隊本部に
向けて行軍を再開しました。
65年以上前の話です。しかも、見ず知らずの私が向けるヴィデオ・カメラに緊張
されたためもあるでしょう。後で文章にまとめようとすると、Dさんの言われることに
つじつまが多少合わない部分が出てきました。そこで、以前にDさんが自費出版さ
れた本や様々な史書に書かれている内容で確認しながら書き進める事にします
(実は、この報告の発表が遅れたのは、この辺りの時間や事実関係の矛盾点の
確認に時間を取られたためです)。
1944年10月にレイテ島上陸をした米軍に対して苦戦する第16師団に増援部
隊がルソン島から送られることになり、Dさん(軍曹)は11月上旬、その増援部隊
の教育係として司令部のあるマッキンレー(マニラ近郊)に移動しました。それは、
「敵戦車はひとりで一台斃せ!」を合言葉にする玉砕作戦であったと言います。
ところが、米軍の圧倒的な戦力の前に負け戦が続き、日本側はその増援部隊を
送る間もなくレイテ島は米軍の手に落ちました。
それに伴い、「次の攻撃目標である」ルソン島への米軍の攻撃は激しさを増し、
それを迎え撃つ日本軍はマッキンレーの司令部をイポ(マニラ北東約70キロ)に
移動させました。
すると今度はDさんに「原隊復帰命令」が出ました。ルソン島南部の17連隊の本
部に戻れということでした。〇連隊の本部も司令部同様、米軍の上陸作戦に備え
て他の場所(サンタクララ)に移動していました。もうこの頃になると、命令指揮系
統は機能していなかったそうです。
話は前後しますが、Dさんはこの指揮系統の混乱で命拾いをされたと話されまし
た。ある時は、現場と本部の間で「D軍曹を寄越してくれ」「Dはやらねえ」とのやり
取りの末、代わりに送られた兵長が帰らぬ人となったと言います。
原隊復帰するとDさんは軍旗隊に配属されました。誇りある軍旗と部隊長を守る
のが主な役割という軍旗隊指揮班長を務めたとDさんは心なしかその話をされる
時、背筋を伸ばされました。「鬼軍曹」の顔の一端を見たような気がしました。
当時、軍旗は天皇から直接親授される極めて神聖なものとされました。また天皇
の分身であるとされていたため、格別丁重に扱われたものです。
一度奪われた軍旗を奪い返すために無謀とも思える作戦を行い、全滅に近い損
害を受けた事例もあったといいますから、その辺りからも「戦争を知らない世代」に
は到底理解出来ない状況であったことが分かります。
年末になると連隊本部は、サンタクララからさらに山中のマレンプンヨーへ移動
しました。
年が明け、1945年1月になると、米軍のルソン島上陸作戦が開始されました。
2月には街全体が地獄絵と化した「マニラ市街戦」が行なわれ、首都マニラが3月
3日に陥落しました。
それまでにも激しかった米軍のルソン東南部への攻撃がさらに激化。〇連隊本
部陣地は「修羅場となった」そうです。
4月29日、マレンプンヨーを放棄してさらに山奥のバナハオ山への「転進(敗走
とか撤退とは言わなかった)」が決まりました。この日は、昭和天皇の誕生日で
す。
「糧秣、武器弾薬を置いての転進だった。食糧は直ぐに食べ尽くしてしまいまし
た。ゲリラ攻撃にも悩まされました。彼らは木の上から撃って来るんだから」
「5月3日のゲリラ攻撃に遭った時はもうだめだと思いました。ゲリラと交戦して
3人(約20人のうち)死にました。O軍曹が撃たれて瀕死の重傷でしたから『D、
止めをさせ』と言われましたが、(私は)できませんでした。代わりに憲兵が殺し
ました」
この辺りからDさんの表情に余裕がなくなっていくのが感じられました。
「食糧はどうされたんですか。飢餓地獄と言われたあの辺りでは人肉食の話を
聞くこともあるのですが」と私が聞くと、
「畑からとうもろこしなんかを盗って来て食べました。人肉食ですか。私たちは
比較的食べ物には恵まれていましたから…。伊藤大尉が『敵の肉は良いが、友軍
は喰うな』と言っていましたね。そう言っていた伊藤大尉は餓死したと聞いていま
す」と息苦しそうに話されました。
その後いくつか質問をして、フィリピンの人たちへの言葉をいただこうとするが、
質問の内容とは違うお話をされるようになった。質問の形を変えて再度訊ねると、
息子さんが横から「もうこのぐらいにしてやってください。パニック状態になって
いますから」と助け舟を出された。
もちろん私たちの活動の主旨は責任追及ではなありません。そういうことである
のならあえて質問を続けるのはDさんの心の負担となるだけです。私はそこから
は当たり障りのない質問をした後インタヴューを終えました。
Dさんの御宅を出て私たちは次にEさんの家を目指しました。「里山100選」に
選ばれた部落です。案内書には、クマを狩る狩猟集団として一般に知られるマ
タギの集落として有名とあります。
宮野さんの駆るジープは山道を奥深く進んで行きます。途中、この辺りを知り尽
くした宮野さんの話でこの地域への興味が益々深まっていきました。
それと同時に、宮野さん個人への興味も湧いてきました。
彼は私と同世代。若かりし頃は報道カメラマンを志して上京、勉強をされたそう
です。私がヴェトナム戦争などの戦争報道で知られた岡村昭彦氏の生前に親交
があった話をすると、宮野さんも同じく岡村さんに憧れたとのことで話は盛り上が
りました。
私がAP通信に籍を置いていた時期もあると言うと、「三上さんというカメラマン
をご存知ですか」と聞いてきました。三上は、世界報道写真展でグランプリを取
る等数々の栄誉に浴してきたカメラマンです。彼は同僚の中でも親しくした方で、
彼とのエピソードを幾つか話すと、宮野さんから「三上さんと私の妻とは高校の
同級生だったんですよ」と聞いてビックリ仰天。
そんな話に盛り上がりながら山道を進み、長いトンネル(一車線)を抜けると、
眼下に広がる部落が眼下に広がりました。
Eさんは奥様と共に私たちを迎えてくださいました。
ただ、電話でも話しておられたのですが、通信隊に属していた事もあり、「語る
ほどの戦闘体験はない」とのことで、あまり踏み込んだ話は伺えませんでした。
「『一銭五厘』をもらったのは、17年の10月のことでした」とEさんは思い出しま
す。
昭和12年(1937年)の盧溝橋事件を発端として始まった日中戦争当時の葉書
代から召集令状は別名「一銭五厘」とも呼ばれていました。ただ、実際には葉書で
はなく役場職員により送達されていました。
村人のバンザイの声に送られて出征した時の感想を聞くと、Eさんは親御さんと
の思い出に感極まって見る見るうちにその両の目を涙で一杯にされました。出征
前夜には、兵士たち全員に対して芸者を上げての大宴会が行なわれたとのこと
でした。ただ、「それを楽しむ心の余裕はなかったです」とEさん。
1943年10月、フィリピンに到着。ルソン島南部のリパにあった連隊本部付きの
通信分隊の一員として仕事に集中した毎日。大変だった事と言えば、電話線をゲ
リラに切断されてしまうのを補修する作業だったと述懐されました。
特筆するような苦労を味わう事もなく敗戦を迎え、故郷の土を踏む事が出来たE
さん。その時の感慨は取り分け深かったようで、柔らかな表情でお話をされました。
Eさんの方から進んでお話いただくこともなかったので深い話をすることもなく、
インタヴュ−を終えました。ただ、話を聞く側の私には、Eさんが全てを語ってくれ
た感じはしませんでした。同席した宮野さんも同感でした。ジャーナリストの立場
であればもっと時間をかけて聞き出そうとしますが、BFPのような聞き取り形態
である以上、それはそれで仕方がないこと。諦めるしかありません。
ただ、機会があれば、再訪して雑談の中から何かお話を伺ってみたいとの気持ち
はあります。これからも定期的に連絡をしていこうと思っています。