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閉ざされていた想い
「僕はまだ、生きていていいのかなぁ…」
「戦後65年。もう時効なんだろうか」

先日お邪魔した岩手で、ある元日本兵の方から発せられたこの言葉に、私は愕然としてしまいました。

その方は、何百通か送った取材依頼の手紙を受け取ったお一人で、
「なぜ今ごろになって、若い人が過去のことを知りたいのか不思議に思う」とすぐに返信をくださった方でした。こちらからもすぐに連絡を取らせて頂きましたが、
「電話はいいけど、わざわざ来てもらう程のことはない」
と取材は拒否。

仕方なくあきらめ、私はその方の戦友でもある岩手の方を訪ねることにしたのです。
そしたら、戦友に聞いて私の宿泊先に電話をかけ、翌朝駅まで会いに来てくださいました。
次の取材予定を組んでいましたので、ほんの15分程の面会でした。

でも、ただならぬものを感じた私は、予定していた午前中の取材を終えた後、すぐにまた連絡をして、再度駅まで来て頂けるようにお願いしました。私が仕事で夕方関東に戻らなければいけなかったので、2時間だけでしたが、お話を伺う事ができました。

…といっても、
「女性には話せない」

そう言って全てを吐露してくださることはありませんでした。それでも搾り出すように、戦時中のエピソードを幾つか紹介してくださいました。あっという間に2時間が経ち、私が帰宅しようとカメラを片付け始めた時に、その方がおっしゃったのが冒頭の言葉でした。

戦時中のことは家族にも話さず、戦友会にもほとんど顔を出さなかったそうです。

再度訪問する約束をして、私は新幹線に飛び乗りました。
ちょうど雨が降った後だったので、黒い雲の間から夕日が本当に美しく輝いて見えました。
この写真は、その時に車中から撮ったものです。


取材拒否をしていたのに、わざわざ駅まで来てくださった、この方の心のうちが少しでも晴れやかになりますように…と祈らずにはいられませんでした。

その後、話せなかったエピソードも含め、赤裸々に記載したお手紙をくださいました。
今も文通やお電話の交換を続けています。

こうして証言してくださることに、心から感謝したいと思います。
それと同時に、この方のように話せずにいらっしゃる方が、どの位いるのだろうか…とも思いました。

国の命令で派兵されたことを「運命だと思っている」とおっしゃっていました。
戦後世代の私としては、運命だけで済ませてよいとは思えないのです。2度と同じ苦しみを抱える人が現れないよう、出来ることをやっていきたいと考えています。
| 取材-フィリピン戦 | 13:39 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
秋田取材報告 その2
   Cさん宅の取材を終えて秋田市に近付くと、強い雨となりました。私は
前にも書きましたが、究極の晴れ男で、今回も車で移動中は雨に降られても、
外に出る時はほとんど止んでいました。

 秋田市では地元に住む友人が一席を設けて待ってくれていました。彼は今
回、人や車の手配を快くしてくれた人物です。取材の成功の鍵は彼にあったと
言っていいでしょう。

  美味しい食事と話を満喫、夜遅くホテルに戻りました。

 翌朝また早起きをして、今度は奥羽本線の電車に乗り、青森に近い県北の鷹ノ
巣駅に向かいました。

 私は地方を旅する時、必ず現地の新聞を手にしますが、その日の『秋田魁新報』
の一面に、「鷹ノ巣の病院でインフルエンザ集団発生」とありました。タイミン
グは悪いですが、予定を変更するほどのことではありません。

 電車を降りて改札口に行くと、案内役と通訳をお願いしていた宮野明義さんが笑
顔で迎えてくれました。宮野さんは写真家でこの辺りに精通する頼もしい助っ人で
す。

 宮野さんの運転する小型ジープで、軽快に取材が始まりました。元日本兵のDさ
んのお宅に着くまで自己紹介をします。それとBFPの活動の説明をしました。

 Dさんの家は宮野さんのお陰で比較的簡単に見つけることができました。Dさん
は復員後、数々の要職に就かれていた事もあってか、90歳とは思えぬほどの矍鑠
(かくしゃく)とされた方でした。傍らには息子さんが付き添われました。

 Dさんは、太平洋戦争の始まる1941年に〇連隊に入隊。
対戦車攻撃の訓練を受けて満州(現中国東北部)に送り込まれました。南方戦線の
戦況の悪化に伴い、中国に駐留していた日本軍の多くが南方戦線に送り込まれまし
たが、Dさんの部隊も例外ではなく、満州を後にすると、1944(昭和20)年9月に釜
山港から南方行きの船に乗せられました。

 その頃、制空権のみならず、広い海域も米軍の支配下にあり、Dさんは「フィリ
ッピンに送り込まれた船の半分が沈められて、100万人の内50万人しか上陸で
きなかった」と言われたましが、船団の多くが大きな被害に遭っていました。

 Dさんの船団(13隻)は、軍旗を積んでいた為、飛行機の護衛がつき、途中、
米潜水艦の攻撃を受けそうになりましたが、護衛機がそれらを撃沈、無事にマニラ
に着くことができたということです。

 そうしてマニラに着いたDさん達は、それからルソン島南部のバタンガス州に向
けて13日間の行軍。猛暑と疲労から日射病やデング熱に罹る者が続出、士気が急
速に低下していったそうです。

 連隊本部のあるリパに着いた途端、米軍機の空襲を受けて翌日には大隊本部に
向けて行軍を再開しました。

 65年以上前の話です。しかも、見ず知らずの私が向けるヴィデオ・カメラに緊張
されたためもあるでしょう。後で文章にまとめようとすると、Dさんの言われることに
つじつまが多少合わない部分が出てきました。そこで、以前にDさんが自費出版さ
れた本や様々な史書に書かれている内容で確認しながら書き進める事にします
(実は、この報告の発表が遅れたのは、この辺りの時間や事実関係の矛盾点の
確認に時間を取られたためです)。

 1944年10月にレイテ島上陸をした米軍に対して苦戦する第16師団に増援部
隊がルソン島から送られることになり、Dさん(軍曹)は11月上旬、その増援部隊
の教育係として司令部のあるマッキンレー(マニラ近郊)に移動しました。それは、
「敵戦車はひとりで一台斃せ!」を合言葉にする玉砕作戦であったと言います。

 ところが、米軍の圧倒的な戦力の前に負け戦が続き、日本側はその増援部隊を
送る間もなくレイテ島は米軍の手に落ちました。

 それに伴い、「次の攻撃目標である」ルソン島への米軍の攻撃は激しさを増し、
それを迎え撃つ日本軍はマッキンレーの司令部をイポ(マニラ北東約70キロ)に
移動させました。

 すると今度はDさんに「原隊復帰命令」が出ました。ルソン島南部の17連隊の本
部に戻れということでした。〇連隊の本部も司令部同様、米軍の上陸作戦に備え
て他の場所(サンタクララ)に移動していました。もうこの頃になると、命令指揮系
統は機能していなかったそうです。

 話は前後しますが、Dさんはこの指揮系統の混乱で命拾いをされたと話されまし
た。ある時は、現場と本部の間で「D軍曹を寄越してくれ」「Dはやらねえ」とのやり
取りの末、代わりに送られた兵長が帰らぬ人となったと言います。

 原隊復帰するとDさんは軍旗隊に配属されました。誇りある軍旗と部隊長を守る
のが主な役割という軍旗隊指揮班長を務めたとDさんは心なしかその話をされる
時、背筋を伸ばされました。「鬼軍曹」の顔の一端を見たような気がしました。

 当時、軍旗は天皇から直接親授される極めて神聖なものとされました。また天皇
の分身であるとされていたため、格別丁重に扱われたものです。

 一度奪われた軍旗を奪い返すために無謀とも思える作戦を行い、全滅に近い損
害を受けた事例もあったといいますから、その辺りからも「戦争を知らない世代」に
は到底理解出来ない状況であったことが分かります。

 年末になると連隊本部は、サンタクララからさらに山中のマレンプンヨーへ移動
しました。

 年が明け、1945年1月になると、米軍のルソン島上陸作戦が開始されました。
2月には街全体が地獄絵と化した「マニラ市街戦」が行なわれ、首都マニラが3月
3日に陥落しました。

 それまでにも激しかった米軍のルソン東南部への攻撃がさらに激化。〇連隊本
部陣地は「修羅場となった」そうです。

 4月29日、マレンプンヨーを放棄してさらに山奥のバナハオ山への「転進(敗走
とか撤退とは言わなかった)」が決まりました。この日は、昭和天皇の誕生日で
す。

 「糧秣、武器弾薬を置いての転進だった。食糧は直ぐに食べ尽くしてしまいまし
た。ゲリラ攻撃にも悩まされました。彼らは木の上から撃って来るんだから」

 「5月3日のゲリラ攻撃に遭った時はもうだめだと思いました。ゲリラと交戦して
3人(約20人のうち)死にました。O軍曹が撃たれて瀕死の重傷でしたから『D、
止めをさせ』と言われましたが、(私は)できませんでした。代わりに憲兵が殺し
ました」

 この辺りからDさんの表情に余裕がなくなっていくのが感じられました。

 「食糧はどうされたんですか。飢餓地獄と言われたあの辺りでは人肉食の話を
聞くこともあるのですが」と私が聞くと、

 「畑からとうもろこしなんかを盗って来て食べました。人肉食ですか。私たちは
比較的食べ物には恵まれていましたから…。伊藤大尉が『敵の肉は良いが、友軍
は喰うな』と言っていましたね。そう言っていた伊藤大尉は餓死したと聞いていま
す」と息苦しそうに話されました。

 その後いくつか質問をして、フィリピンの人たちへの言葉をいただこうとするが、
質問の内容とは違うお話をされるようになった。質問の形を変えて再度訊ねると、
息子さんが横から「もうこのぐらいにしてやってください。パニック状態になって
いますから」と助け舟を出された。

 もちろん私たちの活動の主旨は責任追及ではなありません。そういうことである
のならあえて質問を続けるのはDさんの心の負担となるだけです。私はそこから
は当たり障りのない質問をした後インタヴューを終えました。

 Dさんの御宅を出て私たちは次にEさんの家を目指しました。「里山100選」に
選ばれた部落です。案内書には、クマを狩る狩猟集団として一般に知られるマ
タギの集落として有名とあります。

 宮野さんの駆るジープは山道を奥深く進んで行きます。途中、この辺りを知り尽
くした宮野さんの話でこの地域への興味が益々深まっていきました。

 それと同時に、宮野さん個人への興味も湧いてきました。

 彼は私と同世代。若かりし頃は報道カメラマンを志して上京、勉強をされたそう
です。私がヴェトナム戦争などの戦争報道で知られた岡村昭彦氏の生前に親交
があった話をすると、宮野さんも同じく岡村さんに憧れたとのことで話は盛り上が
りました。

 私がAP通信に籍を置いていた時期もあると言うと、「三上さんというカメラマン
をご存知ですか」と聞いてきました。三上は、世界報道写真展でグランプリを取
る等数々の栄誉に浴してきたカメラマンです。彼は同僚の中でも親しくした方で、
彼とのエピソードを幾つか話すと、宮野さんから「三上さんと私の妻とは高校の
同級生だったんですよ」と聞いてビックリ仰天。

 そんな話に盛り上がりながら山道を進み、長いトンネル(一車線)を抜けると、
眼下に広がる部落が眼下に広がりました。

 Eさんは奥様と共に私たちを迎えてくださいました。
 
 ただ、電話でも話しておられたのですが、通信隊に属していた事もあり、「語る
ほどの戦闘体験はない」とのことで、あまり踏み込んだ話は伺えませんでした。

 「『一銭五厘』をもらったのは、17年の10月のことでした」とEさんは思い出しま
す。

 昭和12年(1937年)の盧溝橋事件を発端として始まった日中戦争当時の葉書
代から召集令状は別名「一銭五厘」とも呼ばれていました。ただ、実際には葉書で
はなく役場職員により送達されていました。

 村人のバンザイの声に送られて出征した時の感想を聞くと、Eさんは親御さんと
の思い出に感極まって見る見るうちにその両の目を涙で一杯にされました。出征
前夜には、兵士たち全員に対して芸者を上げての大宴会が行なわれたとのこと
でした。ただ、「それを楽しむ心の余裕はなかったです」とEさん。

 1943年10月、フィリピンに到着。ルソン島南部のリパにあった連隊本部付きの
通信分隊の一員として仕事に集中した毎日。大変だった事と言えば、電話線をゲ
リラに切断されてしまうのを補修する作業だったと述懐されました。

 特筆するような苦労を味わう事もなく敗戦を迎え、故郷の土を踏む事が出来たE
さん。その時の感慨は取り分け深かったようで、柔らかな表情でお話をされました。

 Eさんの方から進んでお話いただくこともなかったので深い話をすることもなく、
インタヴュ−を終えました。ただ、話を聞く側の私には、Eさんが全てを語ってくれ
た感じはしませんでした。同席した宮野さんも同感でした。ジャーナリストの立場
であればもっと時間をかけて聞き出そうとしますが、BFPのような聞き取り形態
である以上、それはそれで仕方がないこと。諦めるしかありません。

ただ、機会があれば、再訪して雑談の中から何かお話を伺ってみたいとの気持ち
はあります。これからも定期的に連絡をしていこうと思っています。
| 取材-フィリピン戦 | 22:51 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
秋田取材報告
 
| 取材-フィリピン戦 | 23:32 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
安田誠さんを訪問しました
*取材チームの大学生・板橋幸太郎さんがまとめてくれた報告です(加筆:浅井久仁臣)。

  10月20日、BFP取材チーム(今回は3名)は、戦時中フィリピンに派兵された安田誠さん(大正12年福島県生まれの87歳)の都内のお宅にお邪魔しました。  

 安田さんは、横須賀の海軍工廠に勤める傍ら、夜間学校に通われていました。その時、日米開戦の知らせを横須賀で聞いたとのことです。開戦の知らせを聞いてどのようなお気持ちになられたかとの問いに、格別の思いを抱かれなかったとのこと。当時、戦争は、多くの国民にとっては、起こるべくして起こったということだったのでしょう。 昭和19年4月、三重県第7航空通信連隊に、現役兵(※徴兵で軍隊に入った兵士)で入営され、第2中隊に配属されて無線・暗号教育を受けられました。  満州や中国戦線に出動した古参兵が多く、訓練につきもののしごきは厳しかったとのこと。たまに伊勢神宮に訓練で行くのが楽しみだったそうです。

  昭和19年10月、第七航空通信連隊から豪北派遣隊として63名が選ばれ南方に送られることになりました。戦友のほとんどは命を落としたと見られます。終戦後、帰国してみると、確認できたのは5名だったとのことです。 マニラに着いたのは、昭和19年12月末でした。マニラ港にはアメリカの攻撃を受け、多くの日本船が沈んでいました。豪北派遣隊は解散(?)し、それぞれが比島の各部隊に送られました。安田さんは第4航空軍司令部(通称:真15300部隊)通信隊の暗号班に配属となりました。  

 しかし、戦局は悪化の一途を辿っており、翌年1月7日、第四航空軍にマニラからエチアゲ(現イザベラ州エチャゲ:Echague)に移動命令が出てからは、“転進(撤退とは言わず転進と言う言葉が使われましたが事実上の敗走)”に次ぐ転進、敗走を続けました。  1月9日、アメリカ第六軍がリンガエン湾から上陸。ルソン島の陸上戦闘が始まると、16日、第四航空軍司令官、富永恭次中将が残存将兵を残して台湾に逃亡。隷下諸部隊の一万人くらいがフィリピンに残されました。
 
 バレテ峠で戦う鉄兵団(第十師団)へ食糧輸送にあたることもありました。夜中に輸送部隊がリレー式で運んでいくやり方でした。ところが、フィリピンの抗日ゲリラの執拗な攻撃に遭って輸送が思うようにいきませんでした。

  抗日ゲリラと一般住民との区別はつかず、若い男と見ると捕まえるのが現実だったそうです。挙句の果てに、ゲリラ活動に悩まされ続けた日本軍は、捕まえた住民を殺害する暴挙に出ます。ただ、軍隊の中にいると、そうすることへの抵抗感がなくなったと安田さんは言われます。特に、友軍が殺されたりすると、“ゲリラ”への憎しみが増したそうです。

  七人の日本兵がゲリラに殺されたことがありました。そこで、ゲリラ狩りが行なわれ、ゲリラなのかわからないが、とにかくフィリピン人が捕えられて集められました。後ろ手に縛って座らせ、前に穴を掘っておき、各中隊から初年兵が集められました。安田さんもその一人でした。 上官から銃剣で突けとの命令が出ました。恐ろしさもあって心臓を突くのは難しく、首とか肩とかにはずれてしまう。すると、満州で何人も殺した経験がある古参兵に、「バカヤロー、どこ突いてんだ!」と怒鳴られて、やり直しをさせられました。こうして安田さん自身も四人を殺したと言います。その時の心境を伺うと、すでに日本兵が七人殺されていたので特に何にも思わなかったそうです。

 また違う村で、斥候に出た二人が帰ってこなかったことがありました。見に行くと二人が殺されていました。村を捜索すると、サトウキビをゆでる釜から赤ん坊の泣き声が聞こえたので、行ってみたら女とその子供がました。 赤ん坊は殺さなかったものの、女は抵抗するので殺してしまったそうです。そしたら、山から隠れていた夫らしい男が出てきました。捕まえてゲリラの陣地に案内させようとしましたが村の周りをぐるぐる回るだけで、これはおかしいと思い結局殺してしまいました。

 同年5月中旬、鉄兵団が全滅。残された安田さんの部隊も時折り、米軍への攻撃を試みるものの、蟻が巨象に挑むようなもの、歯が立ちませんでした。安田さんは両脚に貫通創を負い、歩行がままならなくなりました。 行軍中にそうなると放置されて死を迎えるのが普通の状況でしたが、幸いにして前人未到のシエラマドレ山脈を歩くのが困難を極めており、行軍の速度が遅く命拾いしました。傷口を消毒する薬など望むべくも無く、蛆虫に“キレイに”してもらったと言います。さらに、その蛆虫を食べたと言うのですからどれほどの飢餓状態にあったかが聞く者でも想像できます。

  食糧がなくなると、最終的に人肉食に走る兵隊もいました。安田さんも敗走中に3体くらい、太ももを切り取られた日本兵の死体を見たそうです。状況からして「食べられた」と思ったとの事。また、3人で肉を食べている日本兵に会ったこともありました。安田さんと一緒にいた上官が「何食っているんだ」ときくと、「これはカラバオ(水牛)だ!」と答えましたが、安田さんたちはそうは思わなかったと言います。 時折り元日本兵から聞く、「後ろダマ(背後から快く思っていない戦友を撃ってしまうこと。その死体の肉を食べた場合もあったという)」については、安田さんは「聞いたことが無い」と言われました。 昭和20年8月15日の終戦の知らせは直ぐに伝わってこなかったが、砲声がなくなったなとは思っていたそうです。

 敗戦を確認したのは、9月に入ってからで、スピーカーを着けた米軍機(たぶん米軍の観測機:スチンソンL−5観測機とか)からの投降の呼びかけで知りました。 それに応える形で投降し、米軍の捕虜になりました。第4キャンプ第81中隊に収容されて、誰もやりたがらない米兵のハウスボーイもやりました。 仕える事になった米軍のクーパー軍曹に気に入られ、「アメリカに来い」とまで誘われたそうです。軍曹からの紹介状を今も大事に持っており、見せていただきました。住所をもらっていたのに軍曹に連絡を取っていないことを悔やんでおられたので、お手紙を代筆するなどBFPとして何かお手伝いができればと、安田さんにお伝えしてあります。
| 取材-フィリピン戦 | 20:44 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
3度目の訪問
京都にお住まいのHさんのお宅には、今回で3度目の訪問でした。
毎回お邪魔する度に違う話を聞かせてくださり、しかも1回の取材は軽く5時間以上。2度目に伺った時は、フル充電していたバッテリーが足りなくなってしまうほどでした。

今回はこれまで聞いたお話の中で、わかりづらかった箇所について改めて伺うことも目的の一つでした。でもそれ以上に、「またお会いしたい」そう思わせるものがHさんにはあるのです。情報将校という特別な立場にあった方だからこそ知りえたことも多く、戦争という事象の多面性を改めて感じさせられます。

新しい話をたくさん伺った中で、2年前の秋の訪問した際と同じ戦争責任に話が及びました。

「このこと(戦争責任)をはっきりさせるまでは、死んでも死にきれませんよ!」
とう力強くおっしゃっていたHさん。
95歳を迎えた今も、その口調はまったく変わっていませんでした。

むしろ、その事を訴えるために先日も講演会を2つこなしてきたとおっしゃいます。
もっとも難しい問題。戦後世代として、どう受け止められるか。まだまだ勉強が必要だと痛感するこの頃です。
| 取材-フィリピン戦 | 16:20 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
言えない気持ち
 新しい年になってすぐ、自宅から電車で20分位のところにお住まいの元兵士のYさんを訪ねました。

Yさんは、私が昨年秋に訪問したネグロス島に派遣されていた方です。
昨年末に、読売新聞埼玉版にBFPの活動が掲載されたのをご覧になり、ご連絡くださいました。前にも1度お会いしたことはありましたが、その記事に元兵士の方々の「言えない気持ち」について記者の方が書いてくださっていましたので、そこに反応してくださったようでした。

駅で待ち合わせをし、久しぶりの再会を喜びながら喫茶店へ。

「戦場での話をしても、『また大げさなこと言って…』と言われるのが嫌なんですよね」
そう言って、肩をおとすYさん。前にお会いした時も同じ気持ちを吐露してくださったので、きっと辛い場面に何度も遭われてきたのだと思います。

そんなYさんに、戦場で辛かった話を今回はたくさん聞かせて頂きました。

「夜、行軍していると何かにつまづくんですよね。よく見ると、戦友だったりする。
そういうことが、何回もありましたよ。埋葬してやりたいけど、自分も体力がない。
仕方ないから、笹とかをかぶせて、とりあえず自分は先を急ぎました」

「最後の方は、弾薬、食糧、衣服、靴…何もありませんでした。
戦死者の靴を脱がして、自分ではいたこともありましたよね」

「ある時、戦友が洞穴に落ちてしまったことがありました。体力がないから、
本人も這い上がってこられないし、自分も助けられない。結局、置いていき
ました」

「今だに夢を見ることがあります。
夢の中で、戦友が『嫌だ嫌だ』と、戦地から逃げ出そうとするんです」

「一番辛かったのは、部下が死ぬことでした。
部下が死ぬなら、自分が死んだ方がいいと思うこともありましたよ」

「学徒出陣で行った人、かわいそうだと思ったけど、言えないよね
ましてや、遺族に本当のことなんか言えないですよ。うそを言うしかない。
本当のことを言ったら、生きている自分を責められるから…」

そして、一兵隊は何も出来ない。命令で動くだけ。
仕方ない。しょうがない。という言葉を、幾度となく重ねて話してくださいました。

戦後、フィリピンへ遺骨収集を目的に訪問したこともあったそうです。
「○○くん、来たよー」と大声で叫び、言葉にならなかったそう。
「何回泣いたかわからない」
そう言って、大きな身体とごつい手の持ち主であるYさんは、目を潤ませました。

「すまんという気持ちがあって辛い。
こっちは元気で帰ってきて…。悲しいですよ」

そう話してくださったYさん。戦場の様子を聞き、戦友への思いの丈を聞き、私はほんの少しでも兵士の方の立場や気持ちに寄り添えることが出来るだろうか…と、今も自問しています。

そして、当事者である彼らが仕方ない、しょうがない、と済まそうとしている事に対して、私たちの世代にいったい何が出来るのか。そう考える時間が、私の中ではずっと続いています。
| 取材-フィリピン戦 | 23:43 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
K.Nさん(16師団・野砲兵・伍長)
「終戦直後に米軍の捕虜収容所で体重を量ったら、26kgでした」
と何とも言えぬ苦笑いをしながら、教えてくださったK.Nさん。

部隊がほぼ壊滅状態となってからは、3人で行動を共にし、生きるために食料を探しながらの逃避生活をしていました。夜寝る時に、もうこのまま意識が戻らないのではと何度も考えたそうです。そして、朝目覚めた時は「嬉しい!」それに尽きると本当に嬉しそうに話してくださいました。

自給自足になってから、アブラムシが身体中についた兵隊に遭遇した時のこと。
「兵隊さん、何か食べるものをください」
と半泣きで訴えてくるその人に、手元にあった野菜を少し分けてあげました。それと引換えに、その人がかけていた眼鏡を奪ったそうです。泣きながら持っていかないように懇願されましたが、自分の眼鏡の片目が壊れていたのでやむを得なかったと当時を振り返ります。その話を聞いて、
「生きて帰った人で悪いことをしたない人はいない」
私は、以前聞いた元兵士の言葉を思い出さずにはいられませんでした。

また、ある時は共に行動していた2人が
「糧秣を取りに行く」
と行っていなくなり、
(もうほかされた)と思ったそうです。
*注:ほかす=捨てる
戻ってきた2人にイモ畑があると連れて行かれ、その場所に着いた途端30名ほどの米軍に囲まれ、捕虜になりました。その2人が仕組んだものか、偶然だったのかは未だに分からないとのことでした。収容所に入ると1人1週間で突然亡くなり、もう1人は会っても知らん顔を決め込むようになったといいます。

その後に聞いた捕虜生活では、他の兵士の方もよく口にされるように「米軍のすごさ」を度々感じたそうです。収容所で死んだ日本人兵士の墓地を作ってくれていたことには、本当に感激したようです。そういう指摘を聞く度に、日本は戦時中にいかに世界の常識とずれていたかを感じさせられます。

最後にフィリピンの方々へのメッセージを聞いてみると、興味深いエピソードを話してくださいました。
「スペインは教会、アメリカは道路や学校を作ってくれた。日本人は何してくれる?」と、まだ戦況が悪化する前にフィリピン人から問いかけられ困ったことがあったそうです。前線にいた日本兵が、彼らとの関係に戸惑う様子が伺える一方、終戦後に石を当てられたから「嫌い」という感情があるなど、その時々の状況で判断せざるを得なかった日本兵の素顔を垣間見た気がしました。

そして最後に、大きなメッセージを頂きました。
「戦争はやったらいかん。みんな犠牲者になる。
少し前は、戦争がまたあったらやり返すと思っていたけれど、
今、この年になるとそうは思わない」
| 取材-フィリピン戦 | 08:59 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
元兵士の方々との交流
先週末、上映会で京都に足をのばしたので、ずっと再訪を約束していた元兵士の方を訪ねようと思い立ちました。兵庫にお住まいの90歳の方で、文通を続け、つい最近は作った野菜を送ってくださったりもしていました。

「週末お邪魔してもいいですか?」
という私の突然の電話に、
「いいよ、いいよ」
と即答をしてくださったTさん。

そうして迎えた当日は、駅で電車が着くのをぴしっと背筋を伸ばして待っていてくださっていました。戦争体験のある弟さんまで呼んでくださっており、美味しいお菓子や沢山のご馳走が並ぶ昼食を頂きながら、戦争のお話を聞かせてくださいました。
08.12.7
*帰りには、軒先で乾燥させていた小豆を持たせてくださいました。

「あの時、悪いことしてない人なんていなかったよねぇ。
死にそうな人や、また死んだ兵隊の私物を盗って、それで何とか生き延びたんだから。生き残った人は、そうやって帰ってきた人ばかりじゃないかな」

その言葉に、京都での集会後の懇親会で、遺族の方が放った言葉を私は思い出していました。
「生き残った人は、きちんと何があったかを話してほしい」と。

遺族の方の気持ちが十分私にも分かる反面、そうやって生き残った兵士達はそれを当事者に言うのは勇気がいることと思います。私のような戦後世代にだからこそ、「言える」ということがあるかもしれません。

生き残った彼らもまた、飢えに苦しんでいた一兵隊だったのですから。将校クラスの方々でさえ、彼らに向けられる責任追及の声を前に「じゃあ、本当にあの戦争を始めたのは誰だったのかと問いたい」と真顔で反論されることがあります。

一体誰に責任があったのか。何だったのか。
今一度、客観的なところで議論する必要があると感じています。確かに、命令を下した側、手を下した側、色々な立場はあることでしょう。犯人探しという不幸な結末を迎えるということ。このこと事態が、戦争の根源にある悪であると感じます。そして今もなお、責任問題が語られ続け、戦後世代の間では「いつまで謝り続ければいいんだ」という声もあがっています。

この事について、最近よく考えます。
そして戦争を継承しようとする姿勢がないことも、また戦争ということへの責任逃れをする世代を生み出しているように感じています。どこかで、この負の連鎖を止めないといけない。そう強く感じています。
| 取材-フィリピン戦 | 10:52 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
J.Hさん(14方面軍報道部・大尉・92歳)
6月に訪問した方でしたが、またお会いしたいとお願いし、2度目の訪問をさせて頂きました。

今回は、なんとあっという間に7時間半。
「誰かに話したいと思っていた」と、いろいろなお話を聞かせて頂きました。特に、軍属として日本軍に協力したフィリピン人女性については、誰かに書いてほしいと思っていたとのこと。91歳で、今も大阪にお住まいというその女性について、熱く語ってくださるのは、当時日本軍として彼女に協力依頼をした責任感もあるのだろうか…と考えたりしています。

できるだけ早く会ってほしい。
そう言われているので、フィリピンから帰国後、早速その女性を訪問したいと考えています。

戦争を体験され、92歳になられた方が、今一番言い残しておきたいこと。
そんなことを共有して頂けることを、本当に有り難く、嬉しく思いながらお話を聞かせて頂きました。
| 取材-フィリピン戦 | 23:28 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
F.Oさん(歩兵17連隊・一等兵・88歳)
この方も、数百通出したお手紙の中から、連絡を頂いたお一人でした。
事前に『バタンガス収容所』という本まで送ってくださった方です。

実際に、私が聞きたかったバウワンの教会爆破については、詳しくご存知ではなかったのですが、「皆殺し令」が出されたことは、はっきりと教えてくださいました。

ゲリラによって首をきられた戦友がいたり、食糧がないのでフィリピン人の人肉を頼っていたことなど、聞いているだけで背筋が寒くなるような、戦場でのお話も色々と聞かせて頂きました。

軍隊に入った当初、靴が合わないと訴えると
「軍隊は靴に足を合わすところだ!」と一喝された話は、前にも耳にした話ではありましたが、その非情さに、また当時の現実を教えて頂いたように思います。
| 取材-フィリピン戦 | 23:20 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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BFPとしても2章書かせて頂いています。ご覧頂けると嬉しいです。
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