取材チームの大学生、板橋です。
取材報告をさせていただきます。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
◎松原勝さん(87)
大正十四年生まれ
○所属:第海軍第四施設部第一物品係〜野砲兵第三連隊立花隊山砲隊
〜独立山砲隊
○兵科:海軍軍属(理事生)・砲兵
○戦地:トラック島/夏島〜名古屋〜九州/久留米
――――――――――――――――
○大正十四年、神戸市生まれ。
・銀行員の家庭に生まれる。幼少期には父親の仕事の関係で日本各地を移り住んでいた。
・小学校卒業後、岐阜県中津商業学校に入学。
・親のすすめがあったことと、苦手な音楽の授業がなかったので進学することに。
・中津商業は非常に民主的な学校で、軍事教練の教官も生徒を紳士的に扱ってくれた。学校に三人いた教官は後に召集されて戦死。
・実家からではなく下宿して通学していた。下宿先では出された食事を食べないと、お腹がすいてやっていけないので、なんでも食べるようになった。
○昭和十六年十二月八日、大東亜戦争開戦。
・学校に行くと宣戦布告の掲示がしてあった。「こりゃえらいことになった」と思っていたところに、真珠湾で大勝したニュースが流れて、「よかったな」「いよいよこれからか」という気分になった。
・「兵隊に行く前に戦争が終わればいいが」と思っていた。
○昭和十六年十二月二十六日、繰り上げ卒業。
○昭和十七年
・いくらか親にお金を残したいと思い、海軍軍属に志願することに。
・新聞などに軍属の募集がだされていた。
・採用された時、試験官に「内地に残れ」と言われたが、戦時手当がもらえないので南方行に志願した。戦地に行くと月給に加えて戦時手当がつくので、親にお金を送ったとしても自分で充分に生活することができた。
・「平洋丸」に乗船しトラック島へ向け出港。
・伊豆諸島大島を出たとたんに荒波になり船酔いになる者が続出したが、自分一人だけ平気でご飯を食べていた。軍人もゲロゲロやっていた。
・トラック島・夏島に到着。海軍第四施設部第一物品係に配属となる。
・海軍施設部は飛行場の建設や物資の輸送を担当し、工員のほか朝鮮人軍夫など合計で二万人くらいの人がいた。
・第一物品係は係長以下五名くらいの構成で、主に帳簿をつける仕事をしていた。
・女性の職員が多くいて、直属の上司も女性だった。
・高床の官舎に住んでいた。一部屋に四・五人で雑居。
・宿舎の端っこにトイレがあった。そこにウジが大量に湧いたことがあり、踏み潰しながら用を足さなければならなかったので気持ち悪かった。
・蚊帳をつって寝る。朝鮮人の軍夫が風を扇いでくれた。
・天窓に椰子の実を置いておき、熟れると食べた。
・木登りの上手い者が椰子の実を取ってくる。
・部隊長は萩原寛一。「鬼かん」と呼ばれて清廉潔白な人だった。後に上官から嫌われて激戦地に左遷されて戦死した。
・内地の刑務所から七百名くらいの囚人が労働力としてやってきていた。ひどい扱いを受けて、最後は六十人になって帰った。
・夏島には慰安所があり、軍人軍属が使っていた。
・慰安婦には日本人もいたが朝鮮人も多かった。強制的にではなく騙されて連れてこられた人々で、募集広告を見てやってきていた。
・二十歳未満は慰安所に行くことが出来なかったが、上司が年齢を偽って許可証を作ってくれた。
・一回一円くらいで、将校だと値段が少し高くなる。
・当時は公娼制の時代で、赤線街がいたるところにあったので、慰安所にもそれほど違和感なく行けた。
・慰安所に並ぶことは恥でもなんでもなかった。
○昭和十七年後半〜昭和十八年前半、ガダルカナル島攻防戦。
・トラック島にガ島から撤退してきた傷病兵が後送されてきて、桟橋に並べられていた。彼らを担架とトラックで海軍病院に搬送した。
・サイパン島出身の軍属の同僚が、クエゼリン島へ行く事になった。彼は涙を流して「行くのは嫌だ」と言った。しかし命令なので仕方がない。その後、昭和十九年二月にクエゼリン島守備隊が玉砕、さらにサイパン島も玉砕してしまった。
○昭和十九年二月十一日、トラック島大空襲。
・午前三時半〜四時ごろ、空襲警報が鳴るとすぐに、敵機がわーっとやってきた。
・それまでトラック島に空襲はなかったのでびっくり。みんな大混乱になった。
・草むらに逃げて身をひそめていた。そこから周りが見えた。
・敵の目標は船、次が重油タンク、その次が食糧庫。
・地上は機銃掃射をされる。すぐそばにいた兵隊に弾が当たり腕をもがれた。彼はもだえ苦しんで「お母さん、お母さん」と言って死んでしまった。今でも夢に見る。
・内地に引き揚げる婦女子をのせた赤城丸が撃沈された。
・竹島に航空隊の基地があったが、ベテランのパイロット達は夏島で休んでいて若いパイロットしかおらず、迎撃に出ても次々と撃ち落されていた。
・地上にあった200機の飛行機は全部爆破された。
・一番問題があると思ったのは、この空襲の一週間前に連合艦隊がトラック島を離れたこと。
・空襲で食糧倉庫がやられて二千トンの食糧がなくなり、それ以降は自給自足体制に移った。
・タロイモやジャガイモを作った。
○昭和十九年三月、徴兵検査のため内地に帰ることに。
・夏島から病院船で帰還。
○昭和十九年八月、徴兵検査。
・結果は第一乙。
・検査会場の中では合格した人が意気揚々としていたが、外に出ると逆に合格した人が悄然としていて、受からなかった人が意気揚々としていた。
・軍国教育を受けていても兵隊に行くことは嫌だった。
○昭和十九年九月一日、野砲兵第三聯隊立花隊・山砲隊に入営。
・朝点呼をとった後に厩へ行き、小便や糞まみれの敷き藁を素手で交換し、馬を洗う。
・馬は山砲隊にとっては非常に重要。
・朝整列して点呼をとるとき、いつも他の人より先に整列していたので、私的制裁を受ける事はなかった。
・同年兵に文盲の人がいて、その教育係にさせられた。その兵は真面目で覚えが早く、一から軍人勅諭が暗唱できるようになった。その後、その文盲の兵は馬を引いている時に、前を歩いていた馬に顔面を蹴られて失明し、除隊になった。
・兵舎は名古屋城の近くにあった。兵舎の周りは高い壁で囲まれ、下界との接触は全然なく、心が寂れた。
・要領の悪い人はビンタをとられる。
・洗濯物を干していると盗まれるので見張り番がついていた。
・一度軍靴を盗まれたことがあった。週番下士官に報告したら、どこから代わりを盗んできてくれた。
・寝台の木のすきまに南京虫が潜んでいて、夜になると血を吸いにでてくる。お湯をかけたりして退治したが、戦力外のことで手を取られた。
○昭和二十年三月六日、名古屋大空襲。
【※三月十二日か十九日のことか】
・B29は操縦席の兵士が見えるくらい低空でやってきて、地上で燃える火に照らされて真赤になる。
・高射砲の破片がときどき落ちてくるのも怖かった。
・遺体の収容にあたったこともあった。
○昭和二十年七月、軍用列車で九州に移動。
・独立山砲隊に転属となる。
【※独立山砲兵第十八連隊のことか。】
・途中広島で国防婦人会の人が湯茶の接待をしてくれた。
・西牟田小学校に駐屯。
・九州の兵隊は気が荒くリンチがひどい。両足を抱えて振り回される。それを見ていた近所の人達が「応召中の肉親を見ているようでつらい」と隊長に抗議しに来た。部隊長は講義を受け入れて禁止令が出された。
・「長」という名前のひどく乱暴な兵隊がいて、今でも「長」という名前の人に会うと当時を思い出す。
・この部隊には年配の応召兵もやってきており、終戦後にリンチの首謀者だった兵長が応召兵に刺殺された。
○昭和二十年八月十日、この日あたりから、各隊は民家に分宿していた。
○昭和二十年八月十五日、終戦。
・玉音放送を聞く。部隊長は全将兵を前に「日本は降伏した。軽挙妄動走るな」と訓示をした。
・「これで命が助かった」と思った。みんな同じだと思う。分宿していた農家の人も安堵していた。
・この日の夜、部隊長が尺八を吹いていた。その音が胸にしみた。
・翌日、「憲兵隊より告ぐ。徹底抗戦する。○月○日○時○○へ武装して集結せよ」とのビラが配られたが誰も応じなかった。
○昭和二十年八月二十日、武装解除。
・これでようやく戦争が終わったと思った。
・終戦後に運動会や演芸会があり、村民が慰問してくれた。若い女の人に接することができたので胸がときめいた。
・それから残務整理にあたった。
○昭和二十年九月二十一日、軍用列車で復員。
・広島に着いた時、街が廃墟になっていて驚いた。お茶を接待してくれた人たちはどうしたんだろうかと思った。
●アジアの人に。
・日本人として戦前申し訳ないことをしたと思う。きちんと政府が認識していないことを残念に思う。
・日の丸は侵略のシンボル。アジアの人にとっては嫌悪すべきもの。
・将来仲良く平和にお互いが暮らしていけるようにしたいと思っている。
・特に朝鮮の人に対してその思いは強い。勝手に併合して何もかも奪ってしまった。教科書はしっかりそういう面を記述しなければならない。
●若い世代に。
・戦争になれば若者達は戦争にとられ、命を失う。平和に暮らすため憲法九条を守ってほしいと思う。