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南方の島で終戦を知るのに2年かかったTさん(94)への取材
 1月26日、千葉県船橋市在住のTさん(94)にお話を伺ってきました。

Tさんは昭和175月、海軍の練習生として召集されました。まずは神奈川県平塚市にあった"学校に入学"。約240人いた二十歳前後の同期と共に、水兵として身につけるべき技術から、衛生兵が行うような医療的な処置の方法までを学びました。

 

1711月に外地に出発しました。延べ約80島を回ることになるTさんの外地生活の始まりでした。初めに足を踏み入れたのはフィリピンでしたが、まず感じ、そして最後まで心にあったのは、「私は何しにここに来たのか」という疑問でした。

 

というのも、敵軍との戦闘は皆無。一方的に航空機で襲撃され、主要な任務といえば、敵機が去った後に、味方の遺体を収容するといったものでした。食料は、地元の人々と交渉をして分けてもらったり、田畑を耕したりしてしのぐ生活。この島にいては危ないという情報が、島民との交流の中からもたらされることも多く、その場合は、危険はないと島民が薦めてくれる島に、船を調達して移動するという状況の繰り返しでした。

 

そうした任務の中でTさん自身も負傷したことがありました。181月、敵機に背後から追い立てられ、全速力で走って逃げている最中、前にいた仲間の腹部に弾が当たったのが見えました。ところが、Tさんも体に猛烈な熱さを感じました。気づくと、胸部から出血。敵の弾が、まず自分の胸を貫通し、その後、前にいた仲間に直撃したのでした。弾は奇跡的に急所から外れていたため、その後、消毒だけで回復しましたが、腹部に傷を負った仲間は、回復にひどく日数を要したそうです。

 

終戦を迎えた208月、Tさんはミンダナオ島にいました。しかし、すでに本隊とは連絡も付かずに移動を繰り返していたTさんの部隊には、その知らせを受け取る術はありませんでした。Tさんが終戦を知ったのは、その2年後。当時、Tさんを含む190名の日本兵が一つの島に駐屯していたのですが、その地区の村長が、教えてくれたのだといいます。「あんたたち、いつまでここにおるんだね。戦争はもう終わっているのに」。

 

Tさんたちはこの頃、地元のコミュニティと協力しながら生活していました。軍服などはとうの昔になくなり、衣類は地元島民と同じものを身につけ、島民と一緒に田畑を耕すことで食料を得ていました。顔も真っ黒に日焼けし、外見は島民とほとんど変わらない姿でした。Tさんは、当時のことを振り返り、「同じように終戦を知らず、島に根を生やして生活していた日本人兵士が他の島にもたくさんいたはず。中には乱暴をするようなこともあったかもしれないが、村の娘と結婚して骨をうずめようという人もいるような状況だった」と話します。

 

終戦を教えてくれた村長が用立ててくれた船で日本に帰国したのは23年。Tさんは、家にたどりついた日付を923日とはっきりと覚えています。しかし、終戦からすでに3年が経過し、家族はすでに死亡届も出していました。突然現れたTさんに家族は非常に驚いたといいます。

 

Tさんは帰国時、総兵長の立場であったため、占領軍からスパイ行為の容疑をかけられた隊を代表して3カ月ほど巣鴨プリズンに拘置されるという経験もしました。戦後は、新聞記者となりましたが、戦時中に世話になった島の人々のことを忘れることはなく、戦後、8回にわたって再訪し、地元の人々に感謝の意を表してきたそうです。

 

Tさんは、戦中に出会った島々の人が、「日本社会が忘れてしまった大切な心」(道徳のようなもの)をまだ持っていると気づき、彼らから学ぶことが多いと考えるようになったといいます。また、戦争に関しては、「本当に野暮なこと。外交的な努力を怠った後にやる一番幼稚なこと」と断言し、「戦争なんて惨めなことをやるもんじゃない」と若い世代へのメッセージを力強く話してインタビューを締めくくりました。

 

| 取材-南洋諸島 | 08:40 | - | - | pookmark |
12/23 斎藤元雄さん取材報告 パプアニューギニア 苦闘の日々
 練馬区にお住まいの斎藤元雄さんの体験をお聞きしました。

斎藤さんは、1918年(大正7年)生まれで、現在は 93才ですが、90代とは思えないほどお元気でした。お宅には、趣味で描かれた大きな絵がたくさん飾ってありました(健康の秘訣かもしれません)。
制空権、制海権も失ったニューギニア(日本の本州の3−4倍の広さ)で、無謀な作戦を
何度も強いて、大きな犠牲を出したこと。鉄砲玉一発も打つことなく、ほとんどが飢え死にの悲惨さ。無能な参謀たちの机上の空論を激しく批判されていたのが、印象的でした。
+++
1939(昭和14)年9月に現役で宇都宮第59連隊に入隊。
体が小さかったため(155cm)衛生兵として1カ月の初年兵訓練、その後2カ月の
衛生兵訓練を受けて、宇都宮陸軍病院のレントゲン科に配属。

1941(昭和16)年8月に満州へ、2カ月後に広州の広東へ。孫文が作った中山大学が
宿舎だった。12月には日本軍が広州の飛行場から一方的にものすごい爆撃を加えた
「香港戦」に衛生兵として参加(初めての戦闘、歩兵部隊の後方支援)

1942(昭和17)年11月、南太平洋のパラオ(遠方への船の中継地だった)を経由
して要塞の島ラバウルへ。陸軍の飛行場で防空壕を掘れと言われたが、サンゴ礁の
島なので固くて深くは掘れなかった。

1943(昭和18)年11月、2隻でラバウルからニューギニアへ向かう途中、米軍の爆撃
を受け船(ネーブリ丸)は沈没。ライフジャケットを付けて、真っ暗な中を手さぐりで甲板に出た。50m位の高さから真っ暗な海に飛び込んだ。10~13時間泳いだ後に、救助されてパラオに。1カ月滞在、飛行場造りをした。

1944(昭和19)年 2月、ニューギニアに向けて2隻で出発した2回目も、潜水艦からの
魚雷攻撃を受けて1隻は轟沈(50m四方が火の海になった)され、斎藤さんの乗った船も退艦命令が出て、30分後に沈んだ。怖いので船倉に入らず甲板で寝ていたので、逃げることができた、翌日の昼過ぎまで泳いで救助。

3度目はガソリンの缶を一杯に積んだ上に米俵を並べた船だったので、今度はダメか
覚悟したが、ジグザグ航海でようやくニューギニアのウエワク(師団司令部があった)へ上陸。ウエワクの海岸線は、艦砲射撃でやられて木が一本もなく、物資を積んであった所も真っ黒に焦げていた。
ウエワクの警備を命令されていたが、既に食糧はなく、どうやって生きていくか、自活するかが問題だった。 兵隊たちは栄養不足でどんどん衰弱していった。斎藤さんたちは、土人(現地人)から教わって、サゴヤシの木を砕いて晒してデンプンを取り出したり、動くものは何でも食べた。バッタも羽をむしって、火にあぶって口に放り込んだ。青臭かったがそんなことはかまっていられなかった。ジャングルの中を行軍、毎日バタバタと人が死んだ。明日は自分と思うと、倒れても助けたりできなかった。
真偽のほどは知らないが「土人が一人いなくなったとか、兵隊が一人消えた」というような噂もあった。

1945(昭和20)年8月 師団司令部から、最後のご奉公ということで玉砕命令が出た。準備中の2日目に昼は何時も飛んでいる飛行機が飛んで来ないのに気付き、飛行機が落としていったビラで敗戦を知る。終戦確認は8月21日、ようやく一縷の希望が見えた。
オーストラリア軍の捕虜として近くのムッシ島で約5カ月間収容。
ニューギニアの師団司令部には初め17-8万人いたのに、ムッシ島に収容された者は
約15000人だけになっていた。斎藤さんは、皆が嫌がるオーストラリア将校の当番兵
として朝晩使役したが、対等な扱いだった。帰国する時に「靴がほしい」と言ったら、「いいよ、持っていけ」と軍靴をもらった(ジャングルの中の行軍で、靴がズタズタになり、靴がなかったので)

1946(昭和.21)年1月31日に最後の引き上げ船氷川丸で帰国、浦賀に上陸。
斎藤さんのいた中隊250人中残ったのは13人だった。21歳で入隊してから7年間、音沙汰なしだったので、家族はあきらめていたらしい。

若い人たちへのメッセージ:
「戦争だけは絶対にしてはいけない」ということを強く言いたい。
参謀たちは現地を知らないで、無謀な作戦を押しつけてきた。そのせいで
何千名もの兵士が、無駄に死んでいった(ダンピール海峡で約2000名、4000mの
サラワケット山脈越えで犠牲者2200名等)ニューギニアのジャングル内で死んだ兵士の大部分はそのまま。未だに帰還できないでいる。

+++
*斎藤さんは、何度か紙一重のところで幸運にも助かって生きて帰ってくることができた。「薬はほとんどなかったが、それでも衛生兵ということで大事にしてもらえた」と話されていました。また現地の人のことは、「土人」といういい方をしていました。
*また「慰安所」については、パラオやラバウルにはたくさんあったが、
ニューギニアでは、全く見なかったとのことでした。

取材チーム 斉藤由美子
| 取材-南洋諸島 | 23:54 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
日本軍初の落下傘部隊、インドネシア・メナド降下作戦に参加した元兵士
 こんばんは。
宮脇七奈です。

今日、田所義行さんにお話を聞きにいきました。
私は初めて元日本兵の方にお話を聞きました。
初めは不安でいっぱいでしたが、話をお聞きしている間に引き込まれて、
もっと知りたいと不安なんて忘れていました。田所さん自身、話していると
いろいろな出来事を思い出していたみたいで、涙をうかべていらしたのが
印象的でした。
若い人達は聞いてくれないんだよ、戦争は勝っても負けても特なんてな
いんだよ。
この言葉を聞いて、私達が活動する意味が分かった気がします。


| 取材-南洋諸島 | 15:51 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
【取材報告】六月二十一日 松原勝さん
 取材チームの大学生、板橋です。
取材報告をさせていただきます。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
◎松原勝さん(87)
大正十四年生まれ
○所属:第海軍第四施設部第一物品係〜野砲兵第三連隊立花隊山砲隊
〜独立山砲隊
○兵科:海軍軍属(理事生)・砲兵
○戦地:トラック島/夏島〜名古屋〜九州/久留米
――――――――――――――――


○大正十四年、神戸市生まれ。

・銀行員の家庭に生まれる。幼少期には父親の仕事の関係で日本各地を移り住んでいた。
・小学校卒業後、岐阜県中津商業学校に入学。
・親のすすめがあったことと、苦手な音楽の授業がなかったので進学することに。
・中津商業は非常に民主的な学校で、軍事教練の教官も生徒を紳士的に扱ってくれた。学校に三人いた教官は後に召集されて戦死。
・実家からではなく下宿して通学していた。下宿先では出された食事を食べないと、お腹がすいてやっていけないので、なんでも食べるようになった。

○昭和十六年十二月八日、大東亜戦争開戦。

・学校に行くと宣戦布告の掲示がしてあった。「こりゃえらいことになった」と思っていたところに、真珠湾で大勝したニュースが流れて、「よかったな」「いよいよこれからか」という気分になった。
・「兵隊に行く前に戦争が終わればいいが」と思っていた。

○昭和十六年十二月二十六日、繰り上げ卒業。

○昭和十七年

・いくらか親にお金を残したいと思い、海軍軍属に志願することに。
・新聞などに軍属の募集がだされていた。
・採用された時、試験官に「内地に残れ」と言われたが、戦時手当がもらえないので南方行に志願した。戦地に行くと月給に加えて戦時手当がつくので、親にお金を送ったとしても自分で充分に生活することができた。
・「平洋丸」に乗船しトラック島へ向け出港。
・伊豆諸島大島を出たとたんに荒波になり船酔いになる者が続出したが、自分一人だけ平気でご飯を食べていた。軍人もゲロゲロやっていた。
・トラック島・夏島に到着。海軍第四施設部第一物品係に配属となる。
・海軍施設部は飛行場の建設や物資の輸送を担当し、工員のほか朝鮮人軍夫など合計で二万人くらいの人がいた。
・第一物品係は係長以下五名くらいの構成で、主に帳簿をつける仕事をしていた。
・女性の職員が多くいて、直属の上司も女性だった。

・高床の官舎に住んでいた。一部屋に四・五人で雑居。
・宿舎の端っこにトイレがあった。そこにウジが大量に湧いたことがあり、踏み潰しながら用を足さなければならなかったので気持ち悪かった。
・蚊帳をつって寝る。朝鮮人の軍夫が風を扇いでくれた。
・天窓に椰子の実を置いておき、熟れると食べた。
・木登りの上手い者が椰子の実を取ってくる。

・部隊長は萩原寛一。「鬼かん」と呼ばれて清廉潔白な人だった。後に上官から嫌われて激戦地に左遷されて戦死した。

・内地の刑務所から七百名くらいの囚人が労働力としてやってきていた。ひどい扱いを受けて、最後は六十人になって帰った。

・夏島には慰安所があり、軍人軍属が使っていた。
・慰安婦には日本人もいたが朝鮮人も多かった。強制的にではなく騙されて連れてこられた人々で、募集広告を見てやってきていた。
・二十歳未満は慰安所に行くことが出来なかったが、上司が年齢を偽って許可証を作ってくれた。
・一回一円くらいで、将校だと値段が少し高くなる。
・当時は公娼制の時代で、赤線街がいたるところにあったので、慰安所にもそれほど違和感なく行けた。
・慰安所に並ぶことは恥でもなんでもなかった。

○昭和十七年後半〜昭和十八年前半、ガダルカナル島攻防戦。

・トラック島にガ島から撤退してきた傷病兵が後送されてきて、桟橋に並べられていた。彼らを担架とトラックで海軍病院に搬送した。

・サイパン島出身の軍属の同僚が、クエゼリン島へ行く事になった。彼は涙を流して「行くのは嫌だ」と言った。しかし命令なので仕方がない。その後、昭和十九年二月にクエゼリン島守備隊が玉砕、さらにサイパン島も玉砕してしまった。

○昭和十九年二月十一日、トラック島大空襲。

・午前三時半〜四時ごろ、空襲警報が鳴るとすぐに、敵機がわーっとやってきた。
・それまでトラック島に空襲はなかったのでびっくり。みんな大混乱になった。
・草むらに逃げて身をひそめていた。そこから周りが見えた。
・敵の目標は船、次が重油タンク、その次が食糧庫。
・地上は機銃掃射をされる。すぐそばにいた兵隊に弾が当たり腕をもがれた。彼はもだえ苦しんで「お母さん、お母さん」と言って死んでしまった。今でも夢に見る。
・内地に引き揚げる婦女子をのせた赤城丸が撃沈された。
・竹島に航空隊の基地があったが、ベテランのパイロット達は夏島で休んでいて若いパイロットしかおらず、迎撃に出ても次々と撃ち落されていた。
・地上にあった200機の飛行機は全部爆破された。
・一番問題があると思ったのは、この空襲の一週間前に連合艦隊がトラック島を離れたこと。
・空襲で食糧倉庫がやられて二千トンの食糧がなくなり、それ以降は自給自足体制に移った。
・タロイモやジャガイモを作った。

○昭和十九年三月、徴兵検査のため内地に帰ることに。

・夏島から病院船で帰還。

○昭和十九年八月、徴兵検査。

・結果は第一乙。
・検査会場の中では合格した人が意気揚々としていたが、外に出ると逆に合格した人が悄然としていて、受からなかった人が意気揚々としていた。
・軍国教育を受けていても兵隊に行くことは嫌だった。

○昭和十九年九月一日、野砲兵第三聯隊立花隊・山砲隊に入営。

・朝点呼をとった後に厩へ行き、小便や糞まみれの敷き藁を素手で交換し、馬を洗う。
・馬は山砲隊にとっては非常に重要。
・朝整列して点呼をとるとき、いつも他の人より先に整列していたので、私的制裁を受ける事はなかった。
・同年兵に文盲の人がいて、その教育係にさせられた。その兵は真面目で覚えが早く、一から軍人勅諭が暗唱できるようになった。その後、その文盲の兵は馬を引いている時に、前を歩いていた馬に顔面を蹴られて失明し、除隊になった。
・兵舎は名古屋城の近くにあった。兵舎の周りは高い壁で囲まれ、下界との接触は全然なく、心が寂れた。
・要領の悪い人はビンタをとられる。
・洗濯物を干していると盗まれるので見張り番がついていた。
・一度軍靴を盗まれたことがあった。週番下士官に報告したら、どこから代わりを盗んできてくれた。
・寝台の木のすきまに南京虫が潜んでいて、夜になると血を吸いにでてくる。お湯をかけたりして退治したが、戦力外のことで手を取られた。

○昭和二十年三月六日、名古屋大空襲。
【※三月十二日か十九日のことか】

・B29は操縦席の兵士が見えるくらい低空でやってきて、地上で燃える火に照らされて真赤になる。
・高射砲の破片がときどき落ちてくるのも怖かった。
・遺体の収容にあたったこともあった。

○昭和二十年七月、軍用列車で九州に移動。

・独立山砲隊に転属となる。
【※独立山砲兵第十八連隊のことか。】
・途中広島で国防婦人会の人が湯茶の接待をしてくれた。
・西牟田小学校に駐屯。
・九州の兵隊は気が荒くリンチがひどい。両足を抱えて振り回される。それを見ていた近所の人達が「応召中の肉親を見ているようでつらい」と隊長に抗議しに来た。部隊長は講義を受け入れて禁止令が出された。
・「長」という名前のひどく乱暴な兵隊がいて、今でも「長」という名前の人に会うと当時を思い出す。
・この部隊には年配の応召兵もやってきており、終戦後にリンチの首謀者だった兵長が応召兵に刺殺された。

○昭和二十年八月十日、この日あたりから、各隊は民家に分宿していた。

○昭和二十年八月十五日、終戦。

・玉音放送を聞く。部隊長は全将兵を前に「日本は降伏した。軽挙妄動走るな」と訓示をした。
・「これで命が助かった」と思った。みんな同じだと思う。分宿していた農家の人も安堵していた。
・この日の夜、部隊長が尺八を吹いていた。その音が胸にしみた。
・翌日、「憲兵隊より告ぐ。徹底抗戦する。○月○日○時○○へ武装して集結せよ」とのビラが配られたが誰も応じなかった。

○昭和二十年八月二十日、武装解除。

・これでようやく戦争が終わったと思った。
・終戦後に運動会や演芸会があり、村民が慰問してくれた。若い女の人に接することができたので胸がときめいた。
・それから残務整理にあたった。

○昭和二十年九月二十一日、軍用列車で復員。

・広島に着いた時、街が廃墟になっていて驚いた。お茶を接待してくれた人たちはどうしたんだろうかと思った。


●アジアの人に。

・日本人として戦前申し訳ないことをしたと思う。きちんと政府が認識していないことを残念に思う。
・日の丸は侵略のシンボル。アジアの人にとっては嫌悪すべきもの。
・将来仲良く平和にお互いが暮らしていけるようにしたいと思っている。
・特に朝鮮の人に対してその思いは強い。勝手に併合して何もかも奪ってしまった。教科書はしっかりそういう面を記述しなければならない。


●若い世代に。

・戦争になれば若者達は戦争にとられ、命を失う。平和に暮らすため憲法九条を守ってほしいと思う。


| 取材-南洋諸島 | 22:26 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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