NPO法人ブリッジ・フォー・ピース(BFP)の公式blogです。
ここに記載される会員もしくは参加者の見方や考え方は、必ずしもBFPを代表するものではありません。
個人の自由な想いを尊重して運営しています。
Copyright(C) 2005-2015 Bridge for Peace All rights reserved.

2017年8月28日 岩井忠正さんの取材

こんにちは。学生実行委員の金子聖奈です。
大変遅くなってしまいましたが、8月28日に岩井忠正さんを訪問し、取材させていただいたご報告です。

おととしBFPのワークショップにもお呼びしてお話を聞かせていただきましたが、その日は私の都合が合わず、私にとっては今回が悲願の岩井さん訪問でした。

お会いしてみるととてもあたたかい笑顔で迎えてくださり、「志願」という言葉の岩井さんは、学徒動員で軍隊に入り、人間魚雷といわれる「回天」そして人間機雷と言われる「伏龍」という2つの特攻部隊に行くという、極めて稀な経験をされた方です。
岩井さんは、様々な取材を受けたり記事に書かれたりするなかで、「特攻隊に志願」として、まるで望んでいたかのように書かれることに違和感を感じる、とおっしゃっていました。岩井さんは「望んでいたわけではない。特攻だと知らされていなかったし、行った先がそうだっただけだ。」と、強い口調で仰いました。
終戦から70年以上経った今、当時との言葉と概念のズレは少なからず起こってしまうのかもしれません。
しかし、それだけ現代人の知識も想像力も衰えてきているのかもしれない、と危機感を感じました。当時の話を想像力をたくましくしながらしっかりと受け止め、しっかりと伝えていかなければならないと強く思いました。

岩井さんの経験された「伏龍」は、潜水服に酸素ボンベを背負い、棒の先端に機雷を仕込んだ装備で、兵士は海底に潜み、本土に近づく敵の上陸用舟艇を攻撃する作戦です。しかし、それは構造上成功することはありえなかったと言います。重い酸素ボンベを背負っているからひっくり返らないように前のめりになりますが、それでは頭上を通る船なんて攻撃できない。「海のことを知らない人たちが作ったんだな。と思った」と語っていた岩井さん。
権力者はバックの安全なところでこうして頭を使い、無茶を言うだけで、実際に動員されて命をかけているのは戦後社会を担うべきの若者であるんだなと思い、本当に腹が立ちました。



弟さんや奥様など、ご家族のお話もお聞きすることができました。
去年亡くなられた奥様は栃木県宇都宮市のご出身ということで、私と同郷でした。
そのことをお伝えすると、お顔がパッと明るくなって、「そうですか。」と嬉しそうに言ってらっしゃいました。
そのとき私は、とても陳腐ではあるけれど、人間のひとりひとりの幸せとは、大切な人との時間なのかもしれないと唐突に思いました。

私は、今の日本の情勢や理不尽なニュースに腹を立てて、今の状態をなんとかできないかとこうしてBFPの活動に参加したり、もっと知識を増やさねばと大学での講義などを通して勉強したりと、細々と活動を続けています。そうした、いわば「怒り」に裏打ちされた行動は、正直なところ大学の友人にはあまり理解されていないように感じています。

しかし、彼らには一見荒々しく(?)見えている私の言動や行動も、実は岩井さんが奥様をずっと大切にされていたように、人々が大切な人と幸せな時間を過ごせるような世の中を追求したいという、素朴な気持ちであることに気付かされました。都合がよいかもしれませんが、自分自身で、「これでいいんだ。」と思うことができました。

岩井さんは96歳になった今でも、社会に対して「おかしい」と思うことに声をあげつづけています。
それは私たち自身の責務としても引き受け、同じ事を二度と繰り返さないよう、自分たちの素朴な犢せ瓩里燭瓩棒爾鬚△欧弔鼎韻燭蝓議論をしたりしていくべきだと改めて背筋が伸びる思いでした。

今回一緒に取材させていただいた斎藤由美子さん、山地和文さん、そしてたくさんの貴重なお話を聞かせてくださった岩井さんに、改めて心から感謝いたします。
本当にありがとうございました。

| 取材-学徒出陣 | 22:39 | comments(0) | - | pookmark |
取材報告【学徒出陣 Iさん(現在90歳)】
神さんにご一緒させていただき、Iさんのお話を伺いました。 Iさんは今年90歳、とても丁寧で穏やかで思慮深い方でした。ご家族と都内にお住まいです。

【概略】
 戦況の悪化から学徒出陣が閣議決定した1943年、 慶応義塾経済学部在学中だった22歳のIさんも召集され、熊本予備士官学校での初年兵教育を経て南方へ。 マレーシア、ビルマと転属する中、マラリア・アメーバ赤痢を患い現地陸軍病院へ入院。 1945年8月、病院で玉音放送を聞くも、すぐに復員かなわず、指揮命令系統が混乱する中で9ケ月ベトナムにて 英軍指揮下の独立大隊での任務をこなし、終戦翌年の5月に復員。 

 【感想】
 Iさんはいわゆる学徒出陣のはしりです。 召集の際のお気持ちは? とお伺いしたところ、 「学内では軍隊教育はなかったが、自分で本などで“学生とは何ぞや”“この時代における生き方・哲学” などを学んでいたこともあり、いざ召集の際はもう割り切っており、お国のためにと勇ましい気持ちだった」 世の中全体を覆っていた空気もあるのかなぁ、、、と前置きされ、 「“国のために”ということ・・・そのためには自分というものを持っていては、そうはいかないわけだから、 これはもう自分を捨てるしかない、と。それはもう間違いない!と。。」  「壮行会ではこう、机をダーンとぶっ叩いてね、行ってまいりますっ!!とね。。 それはもう勇ましい気持ちでしたよ」 と振り返っておられました。 また、出征壮行会に来ていた住職さんに呼ばれて 「君ね、、、平常心で行きなさい」 と言われたことがとても印象に残っているそうで、 「その時はどういうことか、よく分からなかったけれど、 あとから考えると、ああーあの言葉、、とすごくわかる気がする」とのこと。 インタビューの最後に、 もし今、出征する22歳の自分が目の前にいたら、なんと声をかけますか? とお伺いしたときも、 「“平常心”だね」と即答されました。 「あのお坊さんが言ったように、結局は平常心ってことだと思うんだ、生きるか死ぬかの状況で、 自分で決断していかなきゃいけないんだから」。 勇ましく憧れを持って陸軍へ入隊したものの、南方へ送られてからは、 「なんでこんな戦争しているのかなって。。。自分たち全然、力ないのに。 だってな〜んにもないですよ、人がいない、鉄砲もない、食べられるものも米以外はない(ビルマはお米が主食)。 それで戦争しろっていうんですから」 「特に南方はひどいもんでしたよ、おっぽり出すだけおっぽり出して、 どうやって闘えっていうの  負けるにきまってる 勝てるわけないですよ」 「ある時 上が言うんです、新兵器ができたから見てみろ、使えって。どんなのかと思ったら、 それは投げて爆発するタイプのものでね、数十メートルは飛ぶ、でもどこに飛ぶか分からないんだそうです。 そんなバカみたいな・・・って思いましたよ、それで新しい兵器を開発した?  冗談じゃない、さすがに僕も呆れ果ててね」 Iさんは、下士官であったことや、南方戦線では早期に病で前線から退いたこともあり、 戦闘経験に関わるお話はあまりお伺いできませんでしたが、 “あの戦争はなんだったのか”“その中にあった自分とは”ということを、 当時も、今現在も考え続けてらっしゃるようでした。 戦後、沖縄に行って思うことがあったのがきっかけに、 もうすべて忘れよう、同じ経験をしていないものに言っても わかりっこないから、これからは同じ境遇の人(戦争体験者)以外はシャットダウン!と決意されたとのこと。 

しかし、 14年前にご病気をされたことから、 “人はなぜ生きているか” “今から何をすればいいか” と思うようになったのだそうです。 お孫さんにご自身の体験をお話しすることはないそうです。 「孫には話さないねぇ。聞いてこないしねぇ。」 Iさんにとって、あの戦争とはなんですか? 「来たるべくして来たもの」 「人間の命っていうのは その人がその時代 その世の中で どれだけ生きられるかだ」 以上です。 よろしくお願いいたします。 取材チーム M
| 取材-学徒出陣 | 11:37 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
大学生が戦争に駆り出される時代
いつもblogを読みに来てくださっている皆さま、本当にありがとうございます。
このところ、BFPの取材チームからの報告は大学生によるものが多いと感じている方も多いでしょう。お陰様で、有難いことに大学生の参加が多く、励まされます。

時代が違えば、そんな大学生が戦争に駆り出されていたのです。
「学徒出陣」という言葉は多くの方がご存知でしょうし、私も知っていたつもりです。実際に立教大学からフィリピンへ派兵された方の話も直接伺ったことがありました。

しかし、先日お邪魔した京都在住のMさんの証言は、本当に重たいものでした。
学徒出陣の現実を、ガツンとぶつけられた感じでした。

Mさんは、大学卒業まで5ヶ月を残し、立命館大学の4回生だった時に戦地へ送られたと言います。その時の心境を伺うと、疑問など全く持つことなく、勇ましく中国へ渡ったとのこと。実際、送られる前の大学での教育を聞き、本当に驚いてしまいました。

文学部で中国語を学んでいたというMさんは、中国の慣習も含めて徹底的に大学で教えられたとのこと。その後送られた戦地では諜報活動が任務で、中国人に成りすます事が簡単だった程というのです。その時に着ていたという便衣服も見せてくださいました。

「戦争なんて殺すか、殺されるか」
そう言い放つMさんの表情が忘れられません。大学生をはじめ、若くしてそのような想いをしなければならない時代があった事を、私たち戦後世代はしっかりと胸に刻む必要があると改めて感じました。

「命がけで戦ったこと、苦労したことは焼きついている。
だからついつい美談にし、手柄話にしてしまうことが多い。
でも、それではいけないと思う。

私たちは、軍国主義に踊らされたバッタ。
皇軍に虫偏をつけると、蝗虫(バッタ)と読めると中国人が皮肉っていたんです」
| 取材-学徒出陣 | 19:09 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
元日本兵取材報告:塚田耕治さん
取材チームの大学生、板橋です。
五月二十五日の元日本兵取材の報告をさせていただきます。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−―――――――――
◎塚田耕治さん(86)
取材日:平成二十三年五月二十五日
所属:東部第五十部隊(松本連隊)第一大隊第一中隊〜決65部隊(九十三師団)経理部
場所:長野県安曇野〜千葉県取手
兵科:歩兵/主計兵
当時の本籍地:長野県



○大正十四年七月二十八日生まれ。

・横浜の青木小学校を卒業後、府立一中を受験したが不合格だったので、親戚のつてを使って慶応商工学校に入学。

・学校には配属将校がいて、代々木の練兵場や多摩川の河川敷を使って軍事教練をしていた。
・当時から教練が戦地で役に立つのか疑問に思っていた。

〇昭和十六年十二月八日、大東亜戦争開戦。

・学校に行く途中に開戦を伝えるラジオのニュースを聞き、ショックで思わずしゃがみこんでしまった。

○昭和十八年四月、慶応大学予科入学。

・各クラスは小隊にわけられており、教練の時に小隊長をしていた。
・一個小隊四十五人で、そのうち約十五人が戦争反対で軍事教練をエスケープしていた。小隊長は出席簿をつけることになっていたが、自分も戦争には反対だったので、エスケープ組に欠席をつけなかった。戦後、そのことで感謝された。
・戦争反対組の中には、ただ遊んでいたいから反対するという人もいた。

・学校の近くにはビリヤード屋と喫茶店が一軒ずつくらいしかなく、娯楽が少なかったので下宿先で麻雀ばかりやっていた。
・部活はボート部、卓球部、音楽部などに所属。音楽部といってもハーモニカ担当だった。

・学徒動員で川崎の軍需工場に勤労奉仕にいかされたこともあった。
・女学校の生徒も同じ工場に動員されていて、一緒に話が出来て楽しかった。

・軍人にはなりたくなく、2年の兵役で帰りたかったので軍隊には志願しなかった。そのことを配属将校に報告したらビンタをされた。

○昭和十九年三月、父親が亡くなる。

・父親は死ぬ前に「アメリカとは財力が十倍違う。負け戦に加勢するな」と言った。それを聞いてからそのことが自分の基本的な考え方になった。

○昭和十九年四月、徴兵検査を受ける。

・徴兵検査官が女性で、裸になって調べられたので恥ずかしかった。
・結果は第一乙。

〇昭和十九年八月十二日、一家で長野に疎開。

・入営の時、母親になにか孝行できないかと思い、村の人が百人くらい日の丸を持って集まっている前で「絶対死なないで帰って来るから」と大声で叫んだ。母親は泣いていた。
・特高警察に捕まる恐れもあった当時、こんなことを叫んだことを自慢に思っている。

○昭和十九年八月十六日、長野県松本市の東部第50部隊(松本連隊)に入営。
【※歩兵第204連隊か?】

・長野県安曇野の小学校を兵舎に使って教育を受けていた。
・安曇野は冬はマイナス二十度になるくらい寒かった。
・飯盒は川に洗いに行っていたが、寒い時期には凍って洗えなかった。
・ある朝、起きたら寒さのために兵隊が亡くなっていた。そのため不寝番が責任を問われ二ヶ月の重営倉入りとなった。

・私的制裁も行われていた。本人のためのビンタではなく、下士官が腹いせにビンタをとった。
・安曇野の住民から食糧をもらうことができた。

・一個中隊は機関銃分隊など四個分隊に分けられていた。
・銃剣で突く訓練や、敵前五十メートルまで匍匐前進をして突撃する訓練、機関銃まで弾を運ぶ訓練を行っていた。
・三八式歩兵銃が配備されており、月に一度実弾射撃訓練があった。十発に一発くらいしか標的に当たらないが楽しかった。

・同じ分隊に朝鮮出身の兵隊が一名いてアリランをよく歌っていた。

・百姓出身の兵隊がいて、軍隊が嫌だという。「指をなくせば帰れるよ」と言うと、その兵隊は対戦車攻撃訓練の時に戦車に飛び込み、戦車の下敷きになった。
・結局その兵隊は指どころか右腕をなくしたが、除隊することができた。

・体温計を毛布でこすって温めてから使い、一週間休みになったこともあった。このときは楽をした一週間ではなく、一週間生き延びられたという感じだった。

・二年の兵役で帰りたかったので幹部候補生に志願しなかったが、しぶしぶ経理学校にだけは昭和二十年の九月からいくことにした。

○昭和二十年五月、部隊が千葉県九十九里浜へ移動。

・列車で安曇野から八王子へ。八王子からは歩いて千葉県に移動。

・決65部隊の経理部に転属となる。
・経理は取手の女学校に置かれていた。
【※歩兵第204連隊(決6665)か九十三師団司令部(決6661)の経理部】
・転属してからは農家から食糧を調達する仕事をしていた。
・調達のために公用腕章をもらっていたのでかなり自由に外出できた。
・当時は男性が少なかったのでもてた。

・九十九里浜には隙間がないくらい多くの兵士が配置されていた。
・戦車豪やガソリンを保管する豪を作ったが、戦車がなかった。後から考えると漫画みたいだった。

・五月の東京大空襲の後に渋谷の友人宅に様子を見に行った事があったが、もはやどこに何があるのかさえ分からなくなっていた。


〇昭和二十年八月十五日、終戦。

・玉音放送を聞いたが何を言っているのかよくわからなかった。ただ「ポツダム宣言を受諾」ということだけは聞こえた。その場にいた下士官は「これからがんばるように」と言っていたが、おかしいと思って本部のあった女学校の人や郵便局の人に聞いて日本の敗戦を知った。

〇昭和二十年九月、復員。

・復員してから同級生と会った。一人だけ戦死していたが、みんなと会えて嬉しかった。
 
| 取材-学徒出陣 | 14:03 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
元日本兵取材報告:岩井忠正さん(90歳)
*取材チームの斉藤由美子による報告です。

1920年熊本生まれ、4歳からは職業軍人だった父の都合で大連で軍隊式の教育を受けて育つ。10人兄弟の9番目(姉4人、兄4人)、弟の忠熊さんは末っ子。高円寺の叔母のところに下宿しながら、慶応大学で西洋哲学を専攻。慶応に入ったのは、数学が苦手だったから。1年浪人して入学。
映画が大好きでたくさん見ていた。レ・マルクの「西部戦線異状なし」は本も何度も読み、映画も一番気にいっていて、影響を受けた。

当時どこの大学にも軍事教練のための38式歩兵銃が何百丁もあった。
世の中の空気には反発を持っていて、天皇制が裏にある「侵略戦争」だと思っていた。批判や嫌悪感を持っていたにもかかわらず、沈黙して大勢には妥協していた。精神主義、非合理的な立場が大嫌いだったが、「オレ一人が反対しても、どうにもならない」と考えていた。

後に、そう考えていた人は、自分だけではなく弟(岩井忠熊)や和田稔(「死ぬのは天皇のためではない」と言っていた)をはじめ、他にもそういう考えの人たちがいたことを知った。

1943年の学徒出陣で、雨の神宮外苑では、びしょぬれになった記憶だけが残っている。12月10日召集 横須賀・武山の海兵団に二等水兵として入隊。44年2月からは対潜学校で訓練を受けた。
精神教育が厭でたまらず、「どうせ死ぬに決まっているから」と思い、「特攻」に応募、様々な試験があったが、合格。10人兄弟の9番目ということが理由だったのでは・・と思っている。
約400人の予備学生が山口県光の回天基地に送られた。ここには45年の4月までいた。

(44年10月頃だったか、長崎の川棚というところに1カ月ほど行くことがあり、 そこで震洋の乗組員だった弟と再会した。)

結核にかかり、転勤命令が出て、山口県から呉の潜水艦基地隊へ(実際は軍医の誤診だったが、このために回天には乗らず、結果として命びろいした。もし、回天基地にいたら、いづれ特攻で死んでいたはず。その後、45年の6月頃から7月末までの約1カ月半、横須賀・野比海岸の伏竜隊へ 行った。実際、事故が多く、上陸用舟艇を下から突くことなど不可能で、海の中を知らない人が思いつきでつくった部隊で実戦では、全く役には立たないものだった。

潜水服を着て、60キロ近いボンベ等を背負い、足にも鉛を付けていたので、陸上では重くて歩けなかった。7月14日に事故に遭い、11日程入院したが、命は助かった。

「伊勢」とか「青葉」などのわずかに残っていた軍艦が油がないので、動けず、島に乗り上げているのを見て、戦争は負けると思っていた。8月6日は空が青く良く晴れた日で、呉でも一瞬辺りが白くピカーと光り、それからドカーンとものすごい音がした。

8月15日に玉音放送を聞き、日本が負けたことを知った。天皇の声は初めて聞いたけれど何だか変な声だった。

若い人たちへのメッセージ:
1)戦争の本質を知ってもらいたい。
 今の状況も当時と似ているところがあることを考えて欲しい。
 防衛のための軍事力=攻撃力=アメリカの前進基地、それはとりもなおさず、安全保障
 ではなくて、「危険」保障、つまり危険を招き入れる装置ではないか。

2)日本の歴史を考えてみてほしい。元寇以外は一度も侵略されたことはない。日本は島
 国で、資源貧国だから。

3)今は「KY」とか言って揶揄するが、「KY」でいい。
  空気なんか読むな! といいたい。大勢に流されないことが大切だと思う。そのことに
 気づいてほしい。

4)日本は中国や慰安婦被害者などはっきりと謝罪すべき。ドイツははっきり謝罪したこと
 で、却って信頼を回復している。日本が自国の犯罪にむきあわないことは恥ずかしい事。


+++++
現在90歳ですが、大変お元気ではつらつとしていて、ユーモアに富んで楽しい方で、その年齢が信じられないくらいでした。当初、2度の特攻と聞いて、深刻なお話になるのを覚悟していましたが、
全くそんなことはありませんでした。 

弟の忠熊さんも、第39震洋隊が武器とともに乗っていた船(沖縄に向かっていた)が米潜水艦に轟沈され、冷たい海で3時間漂流後救助。そのまま沖縄に行っていれば間違いなく死んでいた・・・とのことでした。
| 取材-学徒出陣 | 12:23 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
M.Iさん(学徒出陣・機関銃中隊)
「アジアで唯一の西洋文明を取り入れた国家だったんですよ」
そう、当時のフィリピンを文明人として再評価するIさん。

でも、戦時中は「土民」と呼び、自分が軍隊でぶん殴られている分「フィリピン人を下に見てました」と回想。さらに、生死の境目をさまよっていた時、フィリピン人が勧めた水牛の血を飲むことで生き延びたことがきっかけとなり、フィリピン人への感謝の気持ちが芽生え「人間として初めて見ました」と言います。

戦地で人を殺そうと思ったら「顔が合ってしまったら殺せない」とも分析してくださいました。ここに、戦地で「紳士が鬼になる」ことへの歯止めや、何か手掛かりがありそうだと感じました。

●飯島彩音 M.Iさん訪問レポート
-------------------------------------------------------------------------------
○理由がわかればうなずける
Iさんのお宅はこれで3度目。
久しぶりにお会いしたIさんは、少しやせていて、でも元気そうでした。Iさんのお話は、とにかく豊富な知識に裏打ちされていて分かりやすい。体験者の方のインタビューをしていると、頭で分かっていても、心では「なんでそういう考え方なんだろう・・・」という悩みを抱くことが多々あるのですが、Iさんとお話しすると、そういう疑問が解決されていくことを感じます。

それはなぜかというと、Iさんは、その考え方にいたる背景を、ミクロにマクロに分析して私たちの前に広げてくれるからでしょう。本当に貴重なお話を聞かせていただけたことに感謝です。

○体験で変わることがある
Iさんのお話の中で印象深かったのは、フィリピンの人への気持ちの変化です。「土民」として当時当たり前のように蔑視していたフィリピンの人への気持ちが変わった出来事。それは、上腕神経痛と脚気にやられて倒れていたIさんに、フィリピンの人が水牛の血を飲ませてあげたというものでした。すっかり元気になったIさんは、その後歩きながら1日中、「なぜ憎いはずの日本人の俺を助けてくれたのか」と自問自答したそうです。
そこから、フィリピン人は同じ人間であり、人間愛に助けられたのだと考えるにいたったIさんは、従来の「土民」のイメージを離れてフィリピンの原住民の方を見られた。そのため、無駄な殺戮をする心にならなかったのだと言われていました。
この話に私は、イメージを超えるには、直接触れてみることがとても大事だということを感じました。現在、歴史認識、個人の立場の違い。人を分断するイメージ、偏見は多くの場所にはびこっています。イメージにとらわれず、それを超えていく力を持つことの重要性を感じました。
それは、戦争体験者/現代の若者という間にもあるものだと思っています。だからこそ、戦争体験者の方に直接あって、相手の心に寄り添える認識をできるようになりたいと思いますし、また、現在を生きるものとしての自分のことを、少しでも分かってもらえたら良いなと思います。
| 取材-学徒出陣 | 14:07 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
CALENDAR
S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
<< November 2018 >>
LINKS
RECOMMEND
私たちが戦後の責任を受けとめる30の視点
私たちが戦後の責任を受けとめる30の視点 (JUGEMレビュー »)

BFPとしても2章書かせて頂いています。ご覧頂けると嬉しいです。
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
PROFILE