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シベリア抑留・松本さんの取材報告

2017年2月5日、久しぶりの雨の中、シベリア抑留で強制労働をさせられた元兵士の方に、斎藤由美子さん、畑江奈つ希さん、そして私、金子聖奈とで取材をしてきました。

今回取材させていただいたのは、19歳で徴兵され、1948年まで極寒の地での労働を強いられていた松本茂雄さん(91)です。雨の中にもかかわらず、私たちを駅まで迎えに来てくださったり、取材に絶好の静かな公民館まで手配してくださったり、私たちをとても暖かく迎えてくださいました。元日本兵の方への取材が初めてだった私にとって、松本さんのあたたかいお人柄のおかげでどれほどリラックスできたことでしょう…。

そして松本さんは、たくさんの資料まで準備してくださっていました。徴兵されたときに受け取った入隊通知や、シベリアからの抑留通知、陸軍の戦陣訓、傷痍軍人証などを大切に保存されており、現物をそのまま見せてくださいました。

戦争を知らずに育ってきたわたしは今20歳で、松本さんが兵隊にとられたのは19歳。松本さんは、私と同じ年のころは満州でソ連兵と命をかけた戦いをしていたという現実は、私をとても動揺させました。もちろん、自分くらいの年齢の人が、戦時中にはたとえ学生であっても、女性であっても、戦争のために命をかけなければならなかったことは、事実として知っていました。しかし、本当にその経験をした松本さんの口によってその経験を裏付ける様々な資料をもとに語られることで、歴史的な「事実」として受け止めていたものが、本当の「現実」だったのだというリアルな感触を痛烈に感じました。

国への功労者でありながら侵略者であり、罪悪感もありながらシベリア抑留では犠牲者でもある。そのような矛盾に満ちた、簡単には解釈できないような人生を、松本さんは淡々とした口調と落ち着いた表情で、しかし奥には厳しさを持って、語ってくださいました。

私にとって歴史として習ったことが、リアリティを持って自分に突き刺さるのは、想像していたものよりもずっとショッキングなことで、途中では涙が出てしまうこともありました。しかし、私は今のより多くの若い人、つまり私たちの年齢の人、学徒動員で兵隊にとられていたような年齢の人たちがこのショックを受け止めるべきなのではないかと思いました。

後半には、現代的な問題についてもお話をいただきました。武器輸出三原則にかわる防衛装備移転三原則で武器の輸出が限定的であったとしても認められたり、集団的自衛権が認められたりと、日本はどんどん軍事色を強めているように感じます。松本さんは、そのような社会の中で、問題をきちんとテーブルに置いて提示すること、答えが出なくても議論しつづけることが大切であり、今の社会ではそれができていない、と強くおっしゃっていました。

たしかに、少しの政治的な発言さえも憚られるこの空気感はなんなのだろう、と大学生ながらに(いや、学生だからか?)思います。自由な発言が許されているはずなのに、「空気感」が問題を提示することを躊躇わせる。この状況では、このままどんどん日本が軍事化していっても誰のせいにもできません。「おかしいな」と感じた時に声をあげなかった、私たちの責任になってしまうのです。私たち若い世代は、これからを生きていくのですからなおさら、もっと関心を持ってもっと活発に議論しなければなりません。

そんなとき、松本さんがおっしゃっていたような「国に捨てられた経験」(「棄民」という言葉を松本さんは使っていました)を持つ人の体験談をしっかりと受け止め、これからの未来をつくるための貴重な証言として、リアリティを維持したままずっと語り継いでいくべきだと強く思いました。

ブログでは松本さんが教えてくださった息を飲むような経験や、たくさんのご意見をすべてシェアできないのが残念です。しかし、今後ワークショップなどで証言を活用させていただき、そういったかたちで私たちは問題をテーブルにのせ続けていこう、と思います。

私にとって元日本兵の方への初めての取材でしたが、斎藤さん、畑江さん、そして松本さんのおかげで、たくさん勉強させていただきました。本当にありがとうございました。

以下、畑江さんの感想です。

19歳で『入隊通知』を受けた松本さん。「私に狎捗姚瓩皺燭發覆ぁハガキ一枚で連れていかれ‥‥全部戦争だった。」と仰ったその厳しい表情の奥に、満州で過酷な時を過ごした戦時中の記憶とシベリアでの抑留の悲惨さを垣間見た気がしました。

「古い精神論、そんなものの元に、どれだけの命が散ったか‥‥」

「戦後、日本人は過去の戦争と、今の社会の現状について正面きって向き合った議論をしてきたのでしょうか。経済的成長を追い求めるだけで本当にいいのでしょうか。

まず、自分たちが感じているその猝簑雖瓩鬟董璽屮襪砲里擦討澆襦自分たちの問題として、まずその前提で互いに話をしてみればいいのだと思います。」

松本さんがくださった未来世代へのメッセージはあたたかく、背筋が伸びる思いです。

当時の資料となるものをカバンいっぱいに持ってきてくださり、見せてくださいました。松本さんが私たちに伝えてくださったことを、更に多くの方にお伝えできるよう、努めていきたいと思います。

| 取材-シベリア抑留 | 17:27 | comments(0) | - | pookmark |
初めて取材に同行しました!(学生・中村)
 学生の中村です。

先日28日、取材チームの浅井さんと寺田さんに同行し、元兵士の関根さんの取材を行ってきました。簡単に報告させていただきます。

関根さんは、14歳で内原訓練所に志願して入所され、その後満州大和訓練所にて鉄道警備や実践訓練、武蔵義勇隊開拓団にて農作業等を経てハイラル満州558部隊に入隊し、兵士になられました。この部隊では戦車壕の構築を行っていましたが、そこにソ連軍が攻めてきたそうです。また終戦後はシベリアやウルジオストックで建築作業などを行ったそうです。

開戦や終戦当時のご自身の感情について、特に高ぶったりはせず、淡々としていたとおっしゃっていました。一方、最初に弾がとんできたときは動けなかったといいます。

私は今回初めて取材に同行しました。関根さんが語って下さった友人の死、満州での厳しい訓練や戦闘の様子、シベリアの苛酷な労働環境など、その体験や感情は私の想像の範疇を超えていました。同時に、こういった話をうかがうことの重みや継承していくことの重要性も感じました。

今後も戦争経験者の方々のお話に注意深く耳を傾けていければと思います。

中村潤一
| 取材-シベリア抑留 | 13:45 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
元日本兵取材報告
 *取材チームの斉藤由美子による報告です。

 

元日本兵取材報告ー槇原幸成さん


1926年1月23日生まれ、85歳
島根県出雲市出身、4人兄弟の長男

ハルピンで満鉄に勤務
今でいうハローワークで満鉄を紹介され、ハルピンの満鉄で3年勤務。初めは技術部、その後配給係、1200人の職員中 200人位ロシア人がいたので、ロシア語を少し覚えた。そのことが後に役だった。

19455月に召集命令
前日に職場の上司から召集命令を聞いた。令状はなく、「誰にも言うな」と職場の上司から指示を受け、日本国内にいる家族にも知らせることができなかった。

1945522日、牡丹江の関東軍重砲兵連隊に入隊。 55人が一緒に入隊した。古年兵がたくさんいて、とにかく軍隊は無茶苦茶なところだった。男やもめだけで、夢も希望もない。国境の寂しい町のハーモニカ長屋みたいなところだった。古年兵は「突撃一番(コンドームの名前)」 を配られて、慰安所に行くことだけが楽しみ。自分は慰安所など知らなかったが、古い兵隊たちはそんな話ばかりしていた。


1945
89日ロシアの侵攻で重傷

88日の晩、上官侮辱罪(剣道初段で強かった槇原さんが、刺突訓練を本気でやったため、上官に勝ってしまったため)で「夜警にまわれ!」と言われ、3人で兵舎の見回りをさせられた。
89日の早朝、ソ連軍が攻めてきたが、営門の倉庫で寝ていたために命拾いした。

その後ロシア軍戦車の総攻撃で、連隊長はじめ皆が玉砕、壮絶な戦闘だった。槇原さんは左脇の下を負傷したが、3-4人の死体の下敷きになっていて、3日目に気づいたら生きていた。ズボンのベルトのところに血が帯のようにたまっていた。今もその時の戦車砲の破片が、体内に残っている。その後もいくつかの偶然の幸運が重なって、生き延びることができた。

 

220キロの死の行軍
9
2日に牡丹江で、ソ連軍により武装解除。
子ども連れの開拓団のおばさんたちが7-8人やってきて、「朝鮮へ逃げるにはどっちへ行ったらいいか?」と聞かれた。この時に初めて終戦を知った。その後この開拓団のおばさんたちがどうなったかは知らないが、「子どもを連れて行くのは無理だ、子どもを殺せ」などとひどいことを言ったことを後悔している。残留孤児のニュースが出た時に、たまらない思いがあり、新聞に投書をし、掲載された。
捕虜たちは、たいてい貨車でシベリアまで運ばれたのに、自分たちは牡丹江の駅から、綏芬河(すいふんが)の近くのグリデコボ村までの約220キロ(これは大体、箱根駅伝往復の距離)を850人から1000人の捕虜が1週間、歩かされた。まさに死の行軍で200人位が途中で死んだ。

グリデコボ村の仮収容所での越冬
グリデコボ村の仮収容所で翌年の春まで、越冬をした。大きな馬小屋に6-700人が入れられていた。9月下旬の夜は零下20度にもなり、寒かった。食事は12回、うづら豆の茹でたものが少し入ったスープだけで空腹でたまらなかった。死人が出ると皆が、その衣類をはぎ取り、裸の死体だけが倉庫に積み上げられていた。汚いフンドシもマフラー代わりにした。槇原さんは死体運搬の仕事をさせられた。誰も手伝ってくれず、裸の死体を倉庫まで運んだ。零下30度の中、凍えた死体、バラけた死体を一人で運搬した。地獄とはこうした風景か、これらの事実は昨日のことのように記憶しています。余りに悲惨でヒドイものだけに忘れられません。倉庫が一杯になると、死体をソ連軍のトーチカへトラックに乗せて運びました。でこぼこ道で、トラックが揺れる度に死体がこぼれ落ち、野犬が群がってきて食べた。悲惨な仕事だったが、感覚がマヒしてしまい、かわいそうとかいう感情は湧いてくる余裕がなかった。インテリや上品な人たちが先に死んでいった。重労働をしていた人たち、労働者や農民などが生き残った。シベリアで「九死に一生」を得たのは、入隊前にハルピン鉄道工場で、駅伝の選手をしたり、剣道も初段で体力、気力が人一倍充実していたから。人間喰うものがなく、着るものもなく、対寒手段の素は、体格体力と思う。シベリアでの捕虜生活は、ある意味で試練場だった。

3
年間のウオロシロフ第2収容所での生活
その後3年間は、ウオロシロフ第2収容所(現在はウスリースク駅・シベリア鉄道・グリデコボ支線)
近くで過ごした。
ロシア語ができたので、二等兵なのに、生活部長として皆のまとめ役を命じられた。
バザールに行ったり、新京楽団員だった人がいたので、楽団を作ったりもした。越冬時に一人で死体処理作業をしたことで、ロシア軍からは重宝にされ、功労者扱いだった。
槇原さんは、特別に収容所の外に買い物などに行くこともできた。現地のロシア人は皆いい人たちで、良くしてもらった。また、婦人服を作る人(捕虜の中に「仕立て屋」などがいた)を紹介したのが好評で喜ばれた。

1949年(昭和24年)77日舞鶴に帰国

舞鶴で米兵から、「ソ連の飛行場はどこにあるか?ソ連の戦車を見たか?」などと訊かれたが、そんなことは知らない。
戦後は山口県宇部市で35年近く労働組合や平和運動に取り組んできた。現在もあちこちに大学、高校、講座等で「語り部」の活動を続けている。せめてもう一度シベリアに行ってみたいと思い、平成12(2000)に新潟からハバロフスク経由で再訪。ウオロシロフには行くことができた。ウラジオストクから車で約1.5時間ほどで57年前と地形も変わらず、収容所の枠と食堂の跡だけが残っていた。グリデコボ村は柵があって入ることは許されなかったが、草原から歯を3本と肋骨を内緒で拾いポケットに入れて持ち帰った。千鳥が淵戦没者墓苑の大きな木の下に箱に入れて「二等兵戦後処理」と書いて埋めた。

若い人たちへのメッセージ
戦争だけはやってほしくない。どんな小さな兆しでも、許してはいけない。

今もその兆しがあるのではないか。

若い人が風化しつつあるあの戦争の惨事を後世に語り継ぎ、正しく歴史として残して頂く作業には、心から尊敬します。

被害国へのメッセージ
戦争はよその国を盗るーいじめることだ。
(今のようなうっ屈した時代の)はけ口を戦争に求めてはいけない。自主独立で、みんなで生きることを考えないといけない。経済界、特に軍需産業はもうかるから、そのたくらみが心配だ。
+++

槇原さんは、手書きの大きなシベリアの地図や写真など、過酷な抑留生活を説明した「シベリアキット」を用意していて、貴重な抑留証明書などをきれいに保存しています。
槇原さんは戦争体験の他、「ビルマの竪琴」や「キャタピラー」などの戦争の映画の話をして下さり、特に「キャタピラーはすごい映画だね〜」と話されていました。

| 取材-シベリア抑留 | 22:45 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
元日本兵取材報告 「隼」飛行兵
  21日、都内の喫茶店にて元日本陸軍航空兵の岡野工治さんにお話を伺いました。

 岡野さんは新潟の水産高校在学中に航空教育隊に入り、約半年間の訓練を受けて昭和19(1944)年9月、旧満州(中国東北部)のチチハルの飛行場にパイロットとして配属されましたが、その後も訓練に明け暮れる毎日で、一度も出撃することなく終戦を迎えました。

 従って、インタヴュウの話題は、訓練の厳しさとソ連での抑留生活に集まりました。

 特攻隊員である岡野さんが受けた訓練はとても厳しいもので、急降下や緊急離着陸を繰り返して練習する中で、死者も出るほどであったといいます。

 訓練の他にも事あるごとに走らされ、足腰が鍛えられたそうです。その賜物でしょうか。85歳とは思えない足取りで歩かれる姿は健康そのものでした。

 そんな厳しい訓練に明け暮れる中で、楽しかったことは外出。地元の店をのぞき込んで冷やかすことだったそうです。

 慰安所もあり、その前にはいつも兵士たちが少ない時で5、6人、多いときには14、5人が列を成して順番を待っていたそうです。岡野さんは利用することはなかったのであくまでも聞いた話とのことですが、慰安婦の中には16歳くらいの少女もいたとのこと。そういった少女は当然ながら自分から喜んで慰安婦になった感じはなく、暗い雰囲気なので兵士たちには人気がありませんでした。「恐らく強制的に連行されて来ていたんでしょうね」と岡野さんは言われました。

 対ソ戦に備えて配備されていましたが、空港には37機の「隼(戦闘機)」しかなく、岡野さんを含む多くのパイロットは、歩兵として戦う準備をしました。

 ソ連軍が攻めてきた8月9日の前日夕、司令部から「ソ連軍の攻撃に備えよ」との命令が出され、軍装を解かずに一夜を明かしました。

 翌朝、敵機が飛来して何発かの爆弾が落とされる音がして「いよいよ始まった」と覚悟を決めましたが、隼が出撃することはなく、また周辺では戦闘もなく3日が過ぎました。

 そこから急にハルピンに“転進(撤退)”。そこで武装解除されてソ連軍の捕虜となりました。

 その時、ひとりの将官(副部隊長)が捕虜になるのを善しとせず、多くの兵の前で自害。しかし、部隊長の「帰国して祖国の復興に努めよ」との声に他の将兵は冷静さを取り戻したそうです。

 岡野さんが送り込まれたのは、ハバロフスク近くのテルマという場所で、シベリア鉄道の支線作りと山林伐採作業をさせられました。厳寒の中での作業は、想像を絶する過酷な毎日となりました。テルマに抑留された約1万3千人の日本兵の内、891人が命を失ったとのことです。

 1948(昭和23)年6月、岡野さんは日本に復員しました。そして今は、「シベリア抑留体験を語る」語り部として全国を周られています。
 
| 取材-シベリア抑留 | 12:06 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
元日本兵インタビュー抜粋 その2

翌1945年2月頃、興南(現在の北朝鮮)の港から船に乗せられました。みんな帰国できると思っていたのに最終的に着いた先は沿海州のスーチャンというところで全員肩を落としました。【記録者註:ここで言うスーチャンはおそらく現在のロシア連邦沿海地方パルチザンスク(Партиза́нск)。1972年までスーチャン(Сучан)といわれていた、炭坑のある町】

 アルチョン【場所未確認:スーチャンの近く?】というところの炭坑に2、3年置かれました。最初の2年でかなりの死者が出ました。人間じゃない、ひどい、悲惨で、滑稽で、悲しい死に方をしたとTさんの目は怒りで一杯になりました。

 一日の食事は黒パン350gとスープと砂糖10gだけ。栄養失調になり、作業中もヨタヨタしていた。最初のうちはいい加減に行われたパンの分け方も、次第に争いの種にまでなるようになり、その内計りを作ったりしてパンを分けるようになりました。

 

夜寝る時の話題はいつも食べ物。おはぎ、大福、お汁粉などの話で、ぼたもちの定義は何だとかを夜な夜な話していた。女性の話より食べ物の話がほとんどだったそうです。


 収容所の中でも軍隊の組織(将校、下士官、下級兵)は生きていたとのこと。ソ連軍にとって管理するのに都合が良かったからなのでは、とTさん。

 

しかし、それも次第に崩れ、それに不満を抱いた元下級兵士たちが元将校たちに反抗を始めると、ソ連はそれを利用して「民主化教育」をやるようになりました。


 敗戦から約5年経った1950年7月21日、ソ連の収容所から出されたTさんは、帰国できるかと胸を膨らませましたが、喜びも束の間、今度は中国側に引き渡されてしまいます。ソ連から中国に手渡された日本人の数は全部で969名。その中には旧満州国の役人や関東軍の高級将校もいましたが、兵隊が多かったそうです。Tさんは未だなぜ自分が中国に引き渡されたのかは不明。

 ソ連では貨車で移動させられましたが、中国で乗せられた列車は客車です。さらに食事も良かったので、この待遇の変化には何かあると疑心暗鬼になった人もいたようです。

 そして着いたのが撫順戦犯管理所(現:遼寧省撫順市)です。


 ここでの生活はソ連におけるものとは一変。強制労働もないし、部屋は温かいし、情報は人民日報などを通じてどんどん入ってきました。管理する中国人も日本語が上手でした。

 だから朝鮮動乱が起きたことも知っていたとのこと。その時は、「日本に圧倒的に勝った米軍に共産勢力がまともに戦えるはずが無い」と思っただけに、いったんは負け戦であった共産勢力が三十八度線まで押し戻したと聞いた時は驚かれたそうです。

 

 収容される内に中国人との間に信頼が生まれていったと言います。中国人への加害行為について学習する中から徐々に皆が反省し始めていきます。中国側はその辺りは巧みで、学習や反省を強制するのではなく、環境作りをしてから段々とそちらの方向に捕虜達を導いたようです。起訴された戦犯も反省をしたことで刑罰を免除されました。

 1956年6月21日、ラジオで釈放を聞かされます。収容所内が「うおーっ」という感じになったそうです。

 そうして終戦から11年目で帰国しました。

 

同年7月3日、舞鶴港(京都府)に到着。生まれ故郷の延岡に着くと地元の市役所の職員らがのぼりを立てて待っていました。母親に会えた時はうれしかったと述懐されます。再会の時、母親は何も言わなかった(言えなかった?)そうです。Tさんが中国にいる間、安否を知るために占いに行ったりしていたと後で聞かされました。親孝行もしてないので母親が一番かわいそうだったと語るTさんの顔は気のせいか硬くなっていました。

 「私達は中国で酷い事をやりました」と口を揃える撫順からの帰還者を見てメディアが「彼らは洗脳された」と騒ぎたてました。そのことにTさんは今でも怒りの表情を隠しません。969人の内たったひとりを除いて全員がその後一貫してその考えを変えなかったように、自発的にそう考えるようになったのであり、洗脳されたわけではないことを強調されます。

 

そんな悲惨な経験を強いられた帰還者の多くが、マスコミ報道のせいでまともな職に就けなかった事実があります。そんな中で、幸いなことに元いた会社がTさんを温かく迎え入れてくれたそうです。

 「戦後世代へのメッセージをいただきたい」とのBFP側からの要請に応えて、Tさんは次のように語られました。

 「日本の若者は先輩たちがやってきた近現代史の侵略の歴史を理解してしっかり反省しなければならない。被害者は忘れない。そこを考えなければ中日関係(ママ)はよくならないのです」


(文責 板橋孝太郎/浅井久仁臣)

| 取材-シベリア抑留 | 12:06 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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