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東京大空襲 取材報告

 東京大空襲体験者 取材報告

夏井 佑来

2012年2月26日(日)、東京大空襲を経験されたMさんの取材に同行させて頂きました。当日は、BFP取材班の浅井久仁臣さんと石澤信一さんとともに、我孫子駅近くにあるけやきプラザ内喫茶店にて1時間半ほどお話を伺いました。

東京大空襲とは、太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)11月から1945年5月にかけ、計100回以上に渡って東京の下町を中心にアメリカ軍により行なわれた大規模な空襲のことです。特に1945年3月10日、4月13日、4月15日、5月25日に行なわれた空爆が大規模であったと言われています。今回、Mさんは、ご自身が経験された4月13日の空襲についてお話しして下さいました。

1931年(昭和6年)2月11日、7人兄弟の次男として広島で生まれたMさんは、お父様のお仕事の関係で、熊本→広島→東京と移り住みました。その移り住んだ先である東京の淀橋区戸塚3丁目(現在の新宿区戸山)にお住まいの際に、空襲に遭いました。当時、Mさんは中野中学校(現在の明大中野中学校)に通う中学生でした。

Mさんによると、1944年(昭和19年)11月から東京への空襲は始まっていたそうです。空爆開始当初は、Mさんのお宅があった新宿区付近は特に被害はなかったそうです。(私の調べですと、空爆当初は中島飛行機の工場があった武蔵野市を爆撃していました。その後、東京の下町周辺、銀座へと空爆地域が変わっていきました。)

空襲が始まっていた時期の出来事について“ジェラルミンの銀色の飛行機のB29が何十機も編隊を組んで、上空を通過して行く姿が、とてもキレイだったなと非常に印象に残った。飛行機雲をぎっしりひいてくる姿がとてもキレイだった”とお話しして下さいました。

Mさんが空襲を経験されたのは、4月13日の夜のことでした。自宅にいた際に、空襲警報が鳴ったので、自宅の庭に掘った防空壕に入り、空襲が終わるのを待ちました。戦時中、防空壕は、爆風を避けるために自宅の庭に掘っておくものだったそうです。Mさんの家の防空壕は1m以上の深さがあり、1944(S19年)に掘ったそうです。

もし自宅が爆撃されたら・・・という質問に対して、Mさんは“直撃弾を受けたら助からないとは分かっていた。防空壕は、爆風を避けるためのものであった。”と答えました。

23時前に空襲が始まり、B29は一機ずつバラバラに来ては、東京周辺を空爆していったそうです。一回の空襲では、200〜300機ほど来たそうです。空襲が続く時間は長く、明け方の3時か4時頃まで続いたそうです。この時の事を、Mさんは“とにかく長かった。いつまで経っても終わらない。”

この日の空襲のことを、“3月10日と比べて、火の手が近い。自分たちの真上の空まで真っ赤であった”爆弾の音については、“ガードレールの上を電車が通り過ぎるような音が聞こえると安心した。爆弾が自分の上を通り過ぎて行く音だから”と語ってくれました。

Mさんは、夜中の2時頃に防空壕から出ました。外は明るかったそうです。

“高田馬場駅から火の手が回ってきていたので、早稲田の方へ逃げた。まだ爆撃は終わっていなかった。爆撃の音がすると、5歳の弟が地べたにベタっと座っていた。当時、子供でも身を屈める事を知っていた”

当時の子どもたちの雰囲気について、Mさんは“周りの人を見回すだけの余裕はなかった。子どもたちは、おとなしく恐怖におびえていた。泣き叫ぶのなんて、怖くて言葉が出なかった。本当に怖い時は、言葉が出なくなるものだと思います”と語っていました。

当時は強制疎開と言って、家をつぶして防火帯を作ったそうです。Mさんのご家族は水が必要だと考え、神田川付近の防火帯に逃げました。

爆撃は明け方まで続きました。

4月14日に、Mさんご一家は佐賀県に疎開予定でした。当時、疎開する日と乗る汽車は決められていました。一家は、10:40発の佐賀行きの汽車に乗る予定だったのです。13日から始まった空襲が明け方まで続き、日付が変わって迎えた朝、一家全員、指定された汽車に乗るために、高田馬場から東京駅に向かって歩きました。

Mさんご一家は、神田川の防火帯から一旦家に戻りました。お父様とお兄様だけが戻ったのか、Mさんも一緒に戻ったのかは定かではないそうですが、全員が戻ったわけではないのは確かだそうです。Mさん宅は焼失していました。

ご自宅が焼けた事について、Mさんは“東京を出るのが決まっていたから、家が焼けたことに対してもそれほどの想いはなかった”と語られました。

東京駅に向かう状況について、Mさんは“あれだけの空襲があって汽車が動いているかわからないのに、その時は東京駅に向かったのですね。ひょっとしたら電車があるかもしれないと思い、高田馬場から市ヶ谷に出たところ、電車が動いていたんですね。東京駅について電車に乗った時は、ほっとしました。汽車が出たのは不思議でした”と語ってくれました。

東京を離れたMさんご一家は、佐賀に1週間から10日ほどいた後、お父様のお仕事で福岡県の直方に移りました。

直方での生活について、Mさんは“毎日が飢えとの戦いだった。わら草履を履いて歩いていた。当時のごはんは、まずかったことしか覚えていない”北九州に移ってからの生活の中で、軍国少年になることについて、“仕方がないと思っていた”。

また、中3の時の軍事訓練について、“やらざる終えないと思っていた”と話されました。その軍事訓練も、沖縄が米軍の手に落ちてからは、「次は九州」との想定で、道路に穴を掘り、上陸してくる戦車を待ち構えて自爆する今では考えられないものでした。

「当時、楽しかったことは?」とのこちらからの質問に、“何もなかった。転校してきたこともあり、友だちがいなく、口ですごまれた。いじめられた”。勉強については、“勤労動員で勉強をすることはなかった。石炭の山を運ぶ仕事をしていたりしたからね”と回顧されました。

1985年8月15日の玉音放送はどこでどのような形で聞かれたのかとの質問には、“玉音放送は聞いた。勅語だから、理解するのは難しかった。戦争が終わったのかなと理解出来ていたのかな。心の中では命が助かった。ほっとしたという気持ちだった”と答えられました。

| 取材-空襲体験 | 23:55 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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