2013.12.11 Wednesday
平塚在住元海軍の方への取材
平塚在住元海軍の方への取材
夏井 佑来
2013年11月9日(土)、平塚在住の宮川績(みやかわ いさお)さんにご自身の戦争体験について取材させて頂きました。
当日は、畑江奈つ希さんと若林良さんの三人で先方のお宅に訪問させて頂きました。
立派な門構えのお宅の中に入ると、手入れの行き届いた庭木が見え、玄関の呼び鈴を鳴らすと、宮川さんの奥さまがお出迎えしてくれました。
庭の池や大木が見渡せる居間に通され少し経つと、書類を手に携えた宮川さんが現れました。
お電話でお話した際も、とても歓迎して下さっている様子が伝わってきたのですが、戦争の時の話ができることがとても嬉しいと言ってくれて、満面の笑みで我々を迎えてくれました。特に、20代の三人が戦争について聞きたいと言ってくれたことがとても嬉しかったようで、よく来てくれたね、とご夫婦揃って喜んでくれました。
居間のソファに腰かけると、ご夫婦揃って取材に応じてくれました。
ご主人のお話に始まり、途中で奥さまのお話、そしてお二人で会話をしながら回答してくれるなど、お二人の夫婦関係が伝わってくる様子に、一つの夫婦像を学ばせて頂きました。
さて、本題の戦争体験についてですが、宮川さんは、大正12年10月28日に座間村にて生まれました。大正12年は、西暦にすると、1923年、すなわち関東大震災の起きた年です。震災の余震がある中、竹藪の中で生まれたそうです。
座間小学校、厚木中学校を経て、昭和16年に東京高等商船学校(現、東京海洋大学)機関科に入学しました。昭和19年12月に卒業し、海軍系の会社に入社すると同時に、海軍に召集がかかり、駆逐艦での勤務が始まります。
宮川さんは、終戦まで4つの艦船に乗船しています。
まず、インドネシアにて捕獲した米軍駆逐艦「スチュワード(日本名一〇二号哨戒艇)」に広島の呉にて乗船しました。
4か月間の乗船の中で、米軍の機銃照射にあい、何十人もの命が失われました。軍医が傷ついた兵士たちの手当てをしていましたが、中には腸が出ている者など、士官室は血の海になったそうです。当時の心境を伺いましたが、いずれ自分もこうなるんだなと何とも思わなかったと仰っていました。
つぎに、京都の舞鶴にて、「初梅」に乗船。この時は、船が艤装中で一週間の乗船でした。
その後、横須賀にて、「潮」に乗船し、一か月ほど過ごし、最後に、横浜にて「第一雲洋丸」に乗船しました。
昭和20年7月14日、第一雲洋丸は、室蘭沖にて、米軍艦隊による空襲と艦砲射撃によって、沈没しました。
当時、宮川さんは機関室の中にいたのですが、機関室に打ち込まれた爆弾三発が不発弾であったおかげで、命を失うことはありませんでした。
室蘭にて終戦を迎えたその後、8月末に横須賀鎮守府にて、召集解除の令が出て、海軍を除隊しました。
海軍除隊後は、会社に戻り、昭和39年にご自身の会社を設立して、平成11年まで経営者として勤めました。
元海軍士官の方にお話を伺うのは初めてだったのですが、元日本兵の方にお話を聞く度に、「知らないこと」「知らされなかったこと」を知ることができます。
1年余りの期間に、これだけ頻繁に船が変わったことや米軍艦隊が室蘭沖まで来たことも知りませんでした。
知らない歴史の事実を知ることに加えて、今日は当時の海軍士官服や短剣を見せて頂けるなど、戦争当時に着ていた、そして使用したものを間近で見られる貴重な経験をさせてもらえました。
戦争世代の方々の生きる力には勇気と元気をもらいます。
「何もない社会」を経験されて、道を開いてここまで生きてこられた方の目に宿る力強さ。
ただ、ただ、凄いと畏怖の念を抱きます。
宮川さんは多才な方で、本を執筆されたり、絵を描かれたり、蛍を飼われたりと、とにかくいろんなことを形にされている方です。
ご本人曰く、いろんなことに挑戦するのが長生きの秘訣!と仰っていました。
そして、いろんなことをする宮川さんに寄り添ってこられた奥さまの存在の大きさも感じました。
20代の三人で臨んだ取材でしたが、とても素敵な経験をさせて頂くことができました。
こうしたご縁を頂けたのも、これまで人との縁を大切にしてこられたBFPの方々のおかげでもあります。
そして、そのご縁を共有してくださった奈つ希さんと若林さんに感謝感謝です。