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90歳の方から、戦争体験を伺いました
月曜日からBFPのインターンに来ている学生さんと、戦争体験者の取材へ行って来ました。

手作りの資料をたくさん抱え、3時間近くぶっ通しで語ってくださった90歳のOさん。10代で見てしまった豊川海軍工廠での悲劇を、少しでも記憶に残して欲しいとのこと。
「実は、語るのは今日が初めてなんです」 そう、おっしゃいました。 聞けば、お子さん二人にも機会がなく話したことがないとのこと。次世代に伝えたいと思い続け、いつか訪れる日のために作成した資料を公開してくださったのでした。
| 取材-青少年から見た戦争 | 22:24 | comments(0) | - | pookmark |
10/27◆‐学校時代に疎開を含む戦争体験をしたYさんの取材
先に投稿した10月27日の取材報告の2回目。今回は、Yさんのお話です。


 ■戮気鵝78

Yさんは東京・中野区生まれ。太平洋戦争は小学校3年生のときに始まりましたが、4年生の頃までは、影響を全く感じなかったといいます。4年生のころから、ゴムが不足し始め、大好きだったゴムまりがなくなり、非常に悲しかったのを覚えていると言います。「転校生がいて、普段なら転校生はクラスに受け入れられるのに時間がかかるのに、その子がゴムまりを持っていたものですから、皆、貸してもらおうと必死に友達になろうとしました」。食糧事情も深刻になりました。5年生になった昭和194月に妹が生まれたのですが、ミルクの配給がなく、10月に栄養不足で亡くなったそうです。

 

5年生だった昭和19年8月末、都内で、まず小学校3年生以上が学童疎開の対象となり、Yさんは中野駅から特別列車に乗って長野県に疎開しました。学校全体で400人ぐらいの人数ではなかったかと言います。20年春には、1、2年生も合流しました。泊まるのは温泉宿で、そこから、学校が借りた2kmほどはなれた村の学校の校舎に通う毎日でした。

 

食事は、最初は3食ともご飯でしたが、じきに芋などに変わりました。信州なので魚も肉もほとんどなく、おかずも野菜中心でした。3食あるといっても、つねにひもじさはあり、男の子の間では、力のあるものが弱いものから食事を取ってしまうという状況もあったようです。現に、Yさんの3つ下の弟は、満足に栄養を得ることができず、終戦後すぐに面会に来た両親がその姿に驚き、先に弟だけ引き取って東京に戻ったそうです。

 

疎開中は皆、空腹もさることながら、親と一緒にいられないことに常に苦しんでいたそうです。Yさんは疎開する前、それを契機に急いで家族で撮った家族写真を、両親から渡されたのですが、同じように両親の写真を持ってきている子供は多かったそうです。Yさんは、朝晩、必ずその写真に向かって「お父さん、お母さん、おはようございます」などと話していたと言います。東京にいる両親がもし死んでしまったら、という恐怖が離れなかったそうです。

 

ひもじさと、寂しさとの戦いだった疎開生活でしたが、村のボランティアの女性たちが自宅から食料を届けてくれたり、親身になってくれる様子に接したりしたことで、現地には大きな感謝の念を持ち続けているそうです。「東京生まれの私には、いなかと呼べる場所はありませんが、疎開した信州の村は、私にとってはそういう場所です。今でも、信州の方には恩を感じています」。

 

終戦の日は、学芸会が予定されており、日ごろお世話になっている村の人に劇などを披露することになっていました。公民館に朝から行き、準備をして待っていたのですが、予定していた昼の時刻になっても誰もやってこない。仕方なく、おそらく夕方になって宿に戻ったときに、校長先生が児童を集めて、「日本は戦争に負けました」と発表しました。男の子は悔しがって泣いていたそうですが、女の子の反応は真逆だったそうです。Yさんもその一人で、「やった、これで親のところに帰れる」「おなかいっぱい食べられるようになる」と嬉しさがこみ上げてきたと言います。

 

交通事情のためか、疎開先から東京に戻るのには時間がかかり、結局11月下旬まで待たなければなりませんでした。東京に戻ったときは、元の小学校まで皆で行って解散となったのですが、すべて焼けてしまい何も残っていませんでした。その小学校には、当時樹齢600年というケヤキの木があり、地元の自慢でもあったそうですが、それも焼失していたことを知り、衝撃を受けたそうです。その時点で、多くの友達とは生き別れになりました。「解散となった後、親が死んでしまった人は、どこかに引き取られたでしょうし、親が生きていたとしても、家が焼けてしまっていたら、また別のところに移らなければならなかったでしょう。親と家の安否が、皆のその後の人生を本当に左右したと思います」。

 

戦争を知らない世代へのメッセージとして、Yさんは「命を捨てろといわれて育ったけれど、命より大切なものはないと今、思っています」といって、命の大切さを訴えました。また、「大きな戦争はさすがにもうないかもしれませんが、小さな紛争はまだなくならない。先の大戦で亡くなった人たちがいて、その事実の上に今の時代がある。なくなった人たちの思いを受け止めて生きてほしい」と話しました。


以上です。


NさんもYさんも、同じ学年で同時期に戦争を体験されていますが、一方は東京に残り、一方は東京から長野県に疎開しています。この二人の証言に限れば、食事や物資の面では、疎開していたYさんのほうがいくらか恵まれていたようで、この度の取材中に、それを本人たちも比較して互いに驚いていました。


「戦争の体験は、当時何歳だったかということはもちろん、当時どこにいて何をしていたのか、ということに大きく左右される」と二人は強調していましたが、それを強く感じる取材になりました。


 

| 取材-青少年から見た戦争 | 23:43 | - | - | pookmark |
10/27 ‐学校時代に東京で戦争を体験したNさんの取材
 1027日(土)、東京都江東区にあるN(78)さんの自宅にて、Nさんと、お友達のYさん(78)のお話を伺いました。いずれも女性で、小学校時代に戦争を体験しています。

下記、2回に分けて報告します。

 

。里気鵝78

Nさんは東京・日本橋生まれの吉祥寺育ち。幼少期に過ごした祖父母の家は当時、流行していたと思われる英国の食器がふんだんにあったそうで、親英家だった家族の生活の様子が想像できました。


小学校3年生の12月に太平洋戦争が始まりました。都内(現在より狭い範囲です)の学校は全て学童疎開の対象となったため、それを避けるために、両親が、都内の境界線から少し外にある都下(都内ではないという意味)の学校を選んだとのこと。そのため、Nさんは、現在の都内にあたる場所で戦時中に小学生だったにもかかわらず、疎開は経験していません。


東京では、食料と物資の不足は深刻だったそうです。終戦間際は、食料は一日に乾パン一つだけという日が続いたとい言います。おなかがすいたら、平時であれば親にそれを訴えればいいのですが、戦時中は、それを言ってもないものはない。親が困るだけだと思い、一人で空に向かって「おなかがすいた」と言いながら涙を流していたそうです。ある時には、水に入れてふやかしたら大きくなると思い、やってみたところ、狙い通りに大きくなったのですが、触ると目の前で溶けてなくなってしまったと話してくれました。Nさんは、紛争地の子供に対する寄付などを続けてこられたそうで、「あのひもじさを体験していなかったら、そうした活動もしていなかったと思います」と話しました。


東京に残っていたNさんは、空襲を体験しています。低空飛行し、街を歩く人々を狙って撃ってくる米軍機に何度も襲われたそうです。家々の軒先の下を無我夢中で駆け抜け、幸いにして怪我はありませんでしたが、同じように襲われた友人の一人は亡くなり、撃たれた人の遺体が往来に横たわっている様子が日常の光景となっていったことをよく覚えていると言います。Nさんが伝え聞いたところでは、両国も大空襲で被害を受けましたが、横たわる力士の遺体を、当時、(すでに男たちは根こそぎ戦争に借り出されていたので)駆り出された小学生の女の子たちが、道路の一部に設置された火葬場に運んだそうです。


広島に原爆が投下されたとわかった日。父親が「もう最後だから」と言い出し、Nさんの家族はいつも入っていた防空壕に入らず、残していた食料を出し惜しみせずに食卓に並べたそうです。「新型爆弾は東京にも投下されるだろうと父親は考え、死ぬならおなかいっぱい食べて、家族皆でそのときを迎えようと覚悟を決めたのでしょう」とNさんは振り返りました。


終戦の日。近所の人がNさんの家に集まってラジオを聴いたそうです。子供だったNさんは、庭で遊んでいたそうですが、ある瞬間、父親が「うっ」と泣き始めたそうです。「日本は死ぬまで戦う」「負けたら死ぬんだ」と教えられ、信じていたNさんは、その瞬間、自分はもう死ぬんだ、と思ったそうです。ただ、新聞で、皇居などに大勢の人が集まった様子を見ても、皆で死んだということは書いていなかったため、あの教えはなんだったのか、ショックを受けたといいます。「子供でしたから純粋にそう信じ込んでいたのです。その反動で、教えられていたことと違う動きに衝撃を受けました」。戦争が終わっても、しばらく食糧・物資の不足は深刻で苦しい生活が続いたといいます。


Nさんは、戦争を知らない世代へのメッセージとして、世の中の動きを単純に受け入れるのでなく、疑いや疑問の目を持って考え続けることが必要だと話しました。戦争はやってはいけないと誰もが思っていても、そういう意識を一人ひとりが持たなければ、世の中は良くならないし、戦争もまた繰り返されるかもしれないと訴えました。


以上です。(△紡海ます・・・)


| 取材-青少年から見た戦争 | 23:34 | - | - | pookmark |
9/1 学徒動員で風船爆弾を作っていた小岩さんの取材
今回は、学徒動員で風船爆弾を作っていた小岩昌子さん(83歳)に取材です猫 

小岩昌子さんは、80代とは思えないくらい元気なおばあちゃんでしたリボン 

そんな小岩さんは、15歳の時に学徒動員され、

極秘で風船爆弾を終戦まで作らされたそうです。 

これは当時「ふ号作戦」と呼ばれました。 


〜風船爆弾〜



 


 直径10メートルの巨大な気球に15キロの爆弾と2個の焼夷弾を付けた攻撃用の兵器。
当時は、最終兵器として極秘で作られた。 
風船爆弾は9300発発球したうち、285発到着。

ピクニックに来ていた牧師一家と子供たち6人が亡くなり、

山火事と送電線事故の被害を与えました。




小岩さんは、風船爆弾の気球部分に使う紙貼り作業担当。
特別な和紙を交互にこんにゃく糊で貼り合わせ、それを苛性ソーダとグリセリン液で浸し、ビニールの様にする。
その作業を、毎日、朝7時から12時間、休憩はお昼休みの1時間のみで行ったそうです。

当時、小岩さんは何を作っているのか知らされないまま、風船爆弾を作っていたため、友達と競い合って、和紙を貼っていたそうです。



自分が一体何を作っていたのか、

自分が生産に参加していた風船爆弾が6人の死者を出したことを

戦後自分で調べることで初めて知った小岩さんは、「無知の恐怖に震えた。」とおっしゃっていました。

また、

死者が6人いたと知った時は、頭をひっぱたかれた様だった。

6人でも、人の命を奪ったことには変わりない。震えました。」

と言い、明るく元気だった小岩さんが少し涙目だった様な気がします。

小岩さんは、

「『戦争中だったから仕方ない』『知らなかったから仕方ない』という言葉は二度と言うまい。」と思い、

自分の体験をきちっと語り継ぎたいと思ったそうです。
(そして、語り継ぐために、風船爆弾について、自分が何を作らされていたのか調べ、語り継ぎをされているそうです。)


この戦争体験を聞いたら、他の人にも話してほしい。

私が語り継ぎをしても、

次の世代にこの体験が語り継がれなかったら意味がないからです。

戦争は、一度なったら全員が何らかの形で巻き込まれることを知ってほしい。

自分は、大切な青春と勉強する時間を奪われ、戦争の加害者になってしまった。

とおっしゃっていました。

****************************************

小岩昌子さん(83歳)

昭和4年に練馬区生まれ、練馬区育ち。
六人兄弟の下から二番目で、お父さんが小学校教師だった影響を受け、戦後はご自身も小学校教師に。



(風船爆弾の画像は、一宮町役場ホームページ http://www.town.ichinomiya.chiba.jp/kankou/shoukai/60/415.html からお借りしました。説明のためにこの画像を使用しているため、このインタビューと一宮町役場は一切関係ありません。)
| 取材-青少年から見た戦争 | 01:39 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |
3/18取材報告【学徒動員で呉に行った女学生 Sさん】
〜親元を離れ学徒動員で呉に行った女学生〜

 

 318日、千葉県松戸市在住のSさん(女性、82歳)の取材に行ってきました。Sさんは、太平洋戦争中に、通っていた女学校から学徒動員で広島県・呉の海軍工廠に派遣された経験を持っています。

 

Sさんは、戦争のことは家族にもあまり話していません。女学校の友人からも、当時のことを話題にするのはやめてほしいと強く言われているそうです。地域で戦争体験を話す機会があったとき、会場の一人から「なぜ今戦争なの」と批判的な口調で問われ、気持ちが沈んだこともあったそうです。自身にとっても、つらい体験を思い出して口にするのは精神的に大きな負担になると思いますが、それでもなお、語ろうとされている姿を目の当たりにして、戦争体験を伝えておきたいという意志の強さを深く感じました。

********************************************************************************

 Sさんは昭和4年、島根県・松江の印刷業を営む家に生まれました。小学校3年生の頃に日中戦争が始まるなど情勢の変化は続いていましたが、子どもだったSさんにとって、不穏な空気はほとんど感じられなかったといいます。

 

 そうした暮らしに変化が訪れたのは、女学校1年生の冬。昭和1612月の真珠湾攻撃を境に、学校生活に戦争の影響が出てきました。「教練」の授業が始まり、英語の授業は廃止、女学生にとって楽しみの授業だった創作ダンスもなぎなたの訓練に変わりました。また、兵隊にとられた男性の労力を穴埋めするために丸一日、授業を潰して、農作業などの勤労奉仕に出かけることが増えました。

 

 はっきりとした年は覚えていないそうですが、5月ごろ、記憶が間違っていなければ教員も含め女学校の100人ばかりで、松江から呉へ行くことになりました。「死ぬなら家族と一緒に死にたい。呉になど行きたくない」。Sさんは心の中でそう願いました。女学校の学徒動員者は夜、山陰から山陽に向かう列車に乗りました。無蓋車です。Sさんは、家族と別れた悲しみに耐えようと、ひざを抱えてうつむいていたのですが、ふと顔を上げると月が出ていました。その光景を眺めながら、Sさんは、「頑張ろう」と決心しました。Sさんは、このときの様子を語った後、「一緒にいた友人皆がつらさに耐えていたと思いますが、誰一人取り乱すことはなかった。また十代も半ばの女の子ですよ。あのときの私、皆を、ほめてやりたい」と涙を流しました。

 

 呉では、高台にある寮に入り、海軍工廠の仕事に従事しました。「海軍が必要とする兵器、武器あるいは船を、刻一刻と変わる戦況に対応するように作る」こと、そしてそれらを修理することが、海軍工廠の機能でした。Sさんは、工場が連なる広大な敷地に、連絡事項を流す放送の担当となりました。

 

呉は松江と異なり、海軍の要所だったため、毎日のように焼夷弾の攻撃を受けました。あまりにも頻繁な攻撃に、広島市への原子爆弾投下も、気づかないほどだったといいます。Sさんは戦艦大和も目撃しています。ある日、高台にいて、眼下の瀬戸内海を見ると、戦艦大和が出航するところでした。敵国から気づかれるとの理由で、「目を向けるな」と上官から注意されましたが、関係者が手が千切れんばかりに「帽フレ」をしていた光景が目に入ったといいます。

 

 815日、工場で皆集まってラジオを聴くことになりました。「雑音が多くて、よく聞き取れない」というのがSさんの印象でした。いつもはひょうきんなある工員さんが、「日本は負けたんで!」と厳しい表情で叫んだとき、ようやく事情が少し飲み込めました。先生が回ってきて、日本は降伏したと知らせてくれました。すまないような気持ちと、家に帰れるという気持ちが入り混じったといいます。

 

 数日して家に戻りました。Sさんは玄関で母親から体を洗われました。広島の原爆を心配してのことだったとSさんは言います。呉にいたことから被爆の可能性があったようですが、女学校の生徒のうち、その申請をしたのは当時半数に留まったそうで、親たちに差別への心配があったことがうかがえます。現にSさんの父親も、Sさんに対して「呉にいたことは誰にも言うな」と口止めをしたそうです。

 

 「現代の人に伝えたいことは」と問われ、Sさんは「戦争はやってはいけない」と語気を強めて言いました。「娘から『戦争に反対だったら、当時もそう言えばよかったんじゃないの』と言われたことがありますが、そんなことできる状況ですか」と苦渋の表情で訴えました。ただ、「もし、今また戦争が起こったら、そのときははっきりと『戦争反対』と言いたい」ときっぱりと話しました。

| 取材-青少年から見た戦争 | 15:16 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
はじめての取材 in 東京

はじめまして。

最近こちらで活動をはじめた30代会社員、女性です。

会員申し込みが済むか済まないかくらいのホヤホヤのスピードで、神さんから
「というわけで近々ある方の取材があるので同行しては」と機会をいただいたので、
さっそくその取材にご一緒させていただきました。

簡単ですがご報告させていただきます。

お話を伺ったのは

奥様と埼玉にお住まいのSさん、
今年81歳です。とてもお元気でチャーミング。


 

【概略】

終戦前年の19446月、14歳のとき、家族と住んでいたテニアン島
(サイパンから8
kmの小さな島)にて、地平線が見えないほどの
米軍艦隊からの砲撃を受ける。

昼夜問わず40日あまりの砲撃の中、海岸沿いの無数の洞窟に隠れて

生き延びるもついに米軍上陸。

日本軍、邦人ともに島の端に追い詰められ断崖から海に飛び込み
自決していく人々あ
り、洞窟を出て水を求め移動中に砲弾で命を落とす人々あり。

近くで炸裂した砲弾で友達は即死、ご本人も傷を負い、家族とはぐれる。

8月の玉砕後も、死臭と火薬の匂いが漂う中、海水で傷口を洗いながら、洞窟に隠れ

て米軍の掃討戦から逃げ続ける。

米兵に至近距離で撃たれたり、時に敗残兵に助けられたりしながら数カ月間
生き延び
るが、既に米軍に投降し収容所にいたお父さまが探していると知ったことで、ご本人も投降。

家族とはぐれてから6ケ月が経過していた。

ご家族は、お祖母さま以外はご無事。

収容所で終戦を迎え、19462月、家族で日本へと引き揚げた。

 

 

 

 

【感想】

事前に、A4用紙1枚に体験内容を時系列でまとめてきて下さっており、

それに沿ってお伺いしていくという形でした。私はビデオカメラ担当。

Sさんは兵士ではありませんが、住人として巻き込まれた苛烈な戦場体験
をお持ちです。

今も、Sさんのお体には 砲弾・手榴弾の破片・カービン銃の傷跡がある
そうで
す。

ご家族全員で爆薬で自決する寸前に、お父さまが
「いや待て、死に急ぐことはない、ア
メリカ兵の顔を見てからでも遅くない」
と自決を中止されたとのことで、Sさんは「今となっては親父の判断で

助かった、えらい親父だった」

とおっしゃっていました。

 

「終戦を知ったときどう感じたか」と尋ねたところ、「敗戦にがっかりした」
とのこ
と。

安堵感よりもその感情のほうが大きかったとのこと。

「その場所に、その境遇になってみればそれを受け入れてどう生き延びるかだけだ」

ともおっしゃっていました。

 

テニアン島は当時ほぼ日本人と少数の朝鮮人が暮らしており、

現地人とは接触がなかったそうです。

 

 またSさんは、潜伏逃避行の途中で、

 

・米軍が秘密裏に建設していたテニアン島飛行場(広島・長崎に原爆を落とした
B29
が飛び立った飛行場)

・本土空襲からボロボロの状態で帰ってきたB29

 

など滅多に見られないものもタイムリーに目撃されています。

 

以上です。


Sさんが
「当時14歳の僕が、もう81歳なわけだから、、当時兵隊さんだったお兄さん
たちの一番若いのでももう90近いんだよ」とおっしゃっていました。

神さんが、BFPが、“1件でも多くの貴重な声を1日でも早く”と
スピードを意識して活動されている理由を改めて実感しました。

未来のためにも
“ちゃんと知ること” “ちゃんと知ろうとすること” は大切ですね。
次回の取材でも、真摯に伺い、何があったのかちゃんと知って伝えていきたい
と思いました。

以上、ご報告でした。

東京都 M

| 取材-青少年から見た戦争 | 00:36 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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