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9/4取材報告【満州引き揚げ経験をされたIさん】
 2012年9月4日、愛知県安城市在住のIさんに満州からの引き揚げ経験についてお話を伺いました。

 

大正8年7月7日、神奈川県小田原に、Iさんは生まれました。女学校を卒業後、東京市役所(現都庁)に3年間勤務した後、満州に渡り現地の林野局に務めます。計8年に渡る満州の滞在では、林野局に3年、草履会社に3年、そして耐火煉瓦組合に2年勤めました。

 

満州に渡った経緯ですが、小学校5・6年の時に、地理の先生から満州は素晴らしいと聞いて、一度満州に行ってみたい思い、満州での勤務を希望したそうです。Iさんはお話をしながら、当時のことを振り返り、「今思うと、その地理の先生が、満州に行ったことがあったはずがないのに、満州は素晴らしいと言ったその言葉を信じて疑わなかった。教育とは本当に恐ろしいものだと思います。」と仰っていました。

 

日本の敗戦の色が濃くなるにつれ、現地では女性を日本に戻す動きが出始めたそうです。(敗戦後、ソ連軍が侵攻してくると、女性はレイプされる可能性があったため)Iさんも他の日本人とともに、日本に戻るために、シンキョウから列車に乗り、朝鮮半島から日本を目指しました。敵軍に見つかる恐れがあったため、列車は少し動いては止まりの繰り返しで、南を目指したそうです。

 

終戦となったのは、シンキョウを離れて4日目のことでした。10月のはじめに、チンナンポウに着きますが、そこでソ連軍に捕まり、施設に収容されます。ソ連軍に捕まった当初は、特にやることが与えられませんでしたが、その後物資をソ連に運ぶために、倉庫から物資を貨車に運ぶ作業を命じられます。

 

夜、数人の日本人と施設を出て、朝鮮半島から日本を目指しました。一週間かけて、38度線を超え、釜山から博多に戻りました。Iさんは、朝鮮の疎開地にて、ご主人と結婚しました。38度線を超えて日本に戻る際、Iさんのお腹の中には子どもがいました。

 

博多に到着後、5日間をかけて、ご主人の実家のある安城市に列車で戻りました。敗戦後は、あまりお風呂に入ることが出来なかったため、シラミがわいてしまい、博多に着いた際、米軍によりDDTを頭から撒かれ、体中が真っ白になった状態で、列車に乗り込み愛知を目指しました。乗客からは引揚者だという目で見られたそうです。

 

安城には、10月25日・26日頃戻ったそうです。実家に戻ると、ご主人のお母様から、裏戸から上がるように命じられました。裏戸から入ると、着ていた服をすべて脱ぐように言われ、湧かしたお風呂につかりました。お風呂から上がってくると、脱いだ服は庭で焼かれ、Iさんは義母さんの服を着させられたそうです。安城に着いてから一ヶ月後の11月にお子さんを出産されました。

 

戦後世代へのメッセージを伺うと、「戦争は決してやってはいけない。民族など関係なしに付き合うべきだ」と仰っていました。

 

2時間にわたる取材となりましたが、Iさんの内から出る凄みと臨場感あふれる言葉に、日常では体験できない貴重な時間を過ごすことができました。

 

戦争体験者の方々がご高齢となる中で、我々戦後世代の者たちが戦争体験のお話を伺うことは、戦争という過ちを二度と繰り返さないためにも、出来る限り行なうべきであると今回心から思いました。

 

 

 

 

| 取材-女性から見た戦争 | 22:13 | comments(0) | trackbacks(1) | pookmark |
2/10取材報告【在フィリピン日本軍司令部勤務 Oさん】

〜「楽しかった」フィリピンの昭和18年〜



 210日、千葉県船橋市在住のOさん(女性、86歳)の取材に行ってきました。O さんは、元日本兵ではありませんが、戦中にフィリピンに渡った経験を持っています。 取材に伺ったのは、神直子、斎藤由美子、畑江奈つ希、益田美樹の4人です(敬称略)。

 

Oさんは学校卒業直後の昭和18年春、在フィリピン日本軍司令部の筆生(ひつせい: 現在の事務職のこと)として当地に赴任、一年後の19年春に日本に戻られました。現地では、日本ではまだ珍しかった電気冷蔵庫を使うなど快適で豊かな生活を送っていたそうです。また、戦況については全く知らされてなかったとのこと。現地の方たちとの関係も良好だったそうで、フィリピンでの日々について、屈託なく「楽しかった」と言って振り返られました。しかし、渡航中に慰安婦と思われる女性の姿を見たことなど、話の節々に戦争の暗い影も垣間見られました。

 

私にとって、在フィリピン日本軍司令部に当時勤務されていた方のお話を伺うのは初めてでした。そのため、お話の中では発見が多かったのですが、中でも「楽しかった」という言葉を何度も使われたことが印象的でした。戦時中の証言を拾い集めるなかで、こうした表現に出会うのは珍しいことではないかと思います。しかし、Oさんのように物資面で恵まれ、戦況の悪化を知らされず、危険な場面にも遭遇せずに現地での任務を終えたならば、確かにその記憶は明るく彩られているのかもしれません。初めての海外、しかも、初めての社会人生活を始めた10代後半の思い出ともなればなおのこと。当時の写真(*)を拝見しながら、三者三様の戦争体験があることを思わされました。楽しかったというOさんの体験もまた一つの事実だったのです。

 

(*)フィリピンの写真館で撮ったという一枚が特に心に残りました。初めてかけたパーマの髪型も誇らしげに、現地の衣装を着てポーズを決めたハイティーンのOさん。はつらつとした笑顔に、「平和そのものだった」というフィリピン生活の雰囲気がにじみ出ているように感じました。

 

益田美樹

| 取材-女性から見た戦争 | 10:10 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
M.Oさん(85歳・従軍看護婦)
 兵士の方の体験をこれまで伺ってきましたが、従軍看護婦の方からの話を聞く機会はあまりありませんでした。お邪魔した兵士の方のお宅で、奥様が元看護婦だったと伺ったことはありましたが、
「話したくない」そう悲しそうな表情で断られたこともありました。

今回、Oさんとの縁を繋いでくださったのは、札幌在住の会員の方でした。
人からの紹介ということもあって、Oさんは突然お電話した私の依頼をすぐに受けてくださいました。
そうは言っても、戦争体験を話し始めたのはほんの5、6年前からとのこと。「真実を伝えるべき」と思うようになり、語り部を始めたそうです。現在は、NPO法人戦争を語り継ぐ会に関わり、地域でも色々な機会でお話をされているようでした。



「神の国で負けることはない」
「情勢が不利になっても必ず援軍が来てくれる」

そう思いながら、1945年9月末に山への転進を始めたそうです。

凄まじい話ばかりでした。
戦地で負傷した兵隊が次から次に運ばれてくる通称「竹やぶ病院」では、病人の身体は膿でいっぱい。それでも、薬や包帯も不足していたので、“うじ療法”なるものが考案されていたそうです。うじが膿を食べてくれるので、あえて“うじ”を病人の身体に這わせるというもの。
その他、病死した兵隊を処理した翌日、野犬が食べていたのを見つけたり。
状況がさらに酷くなると、血管に空気をいれて“処置”したこともあったと話してくださいました。

「地獄ですよ、地獄」

在留邦人と一緒に山の中を逃げ惑うことになったOさん達でしたが、母親が撃たれて亡くなった側で子どもが助けを求めても、誰も助けることができなかったそうです。自分たちのことだけで精一杯だったとのこと。食べることしか考えられなくなり、爆薬の破片が羊羹に見え、皆で一生懸命拾って食べたこともあったそうです。兵隊に「それは食べものではないぞ」と注意され、ようやく我に返った事もあったとか。

戦争の悲惨な側面。
BFPとしても、さらに伝えていきたいと改めて思いました。
| 取材-女性から見た戦争 | 16:37 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
T.Nさん(元日赤看護婦・341救護班・84歳)
看護婦の方の戦争体験。
本で読んだことはあったものの、従軍看護婦の方のお話を聞くのは実質的に今回が初めてでした。Nさんのお婆様は子どもが早く亡くなってしまうなどの理由により、軍隊へ家族を送り出すことが出来ていないことを嘆いていたそうです。
「お国のためにたててない」
そう言って悔しがるのを何度も聞いたとのこと。当時、女性で戦地に行くことができたのは看護婦。Nさんは、迷わず「お国のために」戦地へ行くことを志望しました。そんなNさんのお話を、大学生の飯島彩音さんと訪ねました。


●飯島彩音 T.Nさん訪問レポート
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なんとも優しいおばあさま
台湾に生まれ、日赤の看護婦としてフィリピンで従軍された女性のNさん。初対面にもかかわらず、とても暖かく、細やかな気遣いで私たちを迎えてくださいました。
そんなNさんの体験されたフィリピンでの生活は、かなりの苦労があったことが分かります。次第にアメリカ軍に追い詰められるにしたがって、患者さんを連れて、山の中を歩き回る日々。物資がないので手当てもろくにできず、「精神的な看護」しかできなかったとおっしゃっていました。それでも、「精神的な看護」をすることをあきらめなかったNさんからは、なにかプライドのようなものを感じさえしました。
「人の生き死には運だなぁって感じます」
「なにか食べると、あの時患者さんに食べさせてあげたかあったなぁって思うんです。」

人が「運」で死ぬ状況は本来、あってはならない、と、つくづく思います。お話をされた後に、どこか遠い目をするNさん。当時の光景を思い出しているのでしょう。お話を聞かせていただいている私に、その光景は分かりません。それでも、少しでも、戦争を体験された方に寄り添うことの大事さをかみしめています。
| 取材-女性から見た戦争 | 13:54 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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