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AUTHOR: naoko_j
TITLE: 7月のインタビュー
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DATE: 07/24/2005 22:28:47
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インタビュー(抜粋)
  Y.Tさん(男性86歳/海軍103軍需部、戦後自力で事業興す)
  T.Tさん(女性83歳/婚約者を戦争で亡くした)
  K.Hさん(男性82歳/戦闘機部隊、現在憲法9条の会所属)
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●Y.Tさん(男性86歳/海軍103軍需部、戦後自力で事業興す)
「英霊が乗り移っているような気がするんや。フィリピンに行くと、どこかで
連れて帰ってくれ〜と叫んでいるような気がしてな。」
そう言って、戦後行なってきた遺骨収集について熱っぽく語るY.Tさん。
「どんな死に方したか知らない。誰も知らない。一体誰がそれをやって
くれるんや、と。ぼくにはそれがたまらなかった。」
あと2年早く終戦を迎えていれば、国民がどれほど助かったか。何で
はようやめなかったんか…と肩を落とした。
これまでフィリピンに行った回数は300回近い。
その都度、何らかの遺品や遺骨が出てくる。その活動も一筋縄では
いかず、数々の苦労があったらしい。現地の協力を得るためにも、
反日感情が湧き上がらぬよう、幼稚園にオルガンを寄付したり、様々な
支援活動を独自に行なってきている。政府の援助やODAが決して届か
ない地域での草の根の活動である。
誰もやってくれないから自分でやる、と決意したY.Tさん。
同じ体験をした同世代に向けたメッセージをくださった。
「軍隊の組織は逃亡したり、命令に背けば銃殺というひどい状態だった。
お互い戦争だから、非戦闘員も殺す。それはある意味仕方のないこと
かもしれん。だから、自分の国がされた話ばっかりするのではなく、悪い
ことも含めて、体験したこと伝えなあかん!」

●T.Tさん(女性83歳/婚約者を戦争で亡くした)
私のこのプロジェクトは、バーバラさんという結婚後すぐに旦那さんを
日本兵に連れ去られ、その悲しみを58年間、胸の奥底にずっと携えて
生きてこざるを得なかった女性に出会ったことから始まりました。
ある時、バーバラさんと同じような苦しみを味わっている日本人女性も
いるのではないか…と思い、T.Tさんと巡り会いました。
このプロジェクトの趣旨は、フィリピンの方へのメッセージを頂くという
目的で進めていたのですが、今回は改めて戦争は双方にとって苦しみを
もたらす惨いものである、と心に刻むことができました。
 
T.Tさんの婚約者であったKさんは35軍司令部の大尉でした。
戦後待てど暮らせど帰国しないKさんのことを、軍に問い合わせた
ところ、致命傷を負ったので兵隊2人をつけて洞窟に置いてきた、
というのです。戦友も置いてきたという負い目があるからか、口を閉ざ
したままそれ以上のことは話してくれませんでした。それなら、自分の
目で見てこようと何度かその洞窟を探しに戦後フィリピンへ渡ったという
T.Tさん。戦後60年、未だにどこで亡くなったのかわかっていません。
「待ってたのに…」と嗚咽すると、緊張の糸が切れてしまったように
細い身体を小刻みに揺らして涙を流されました。
戦後数年経って両親に進められて一度は結婚したけれど、娘を
身ごもって半年後には離婚したというT.Tさん。
「戦後は遠くなったとか、すでに終わったとか言われます。しかし、日々
悲しみ、怨念の炎を燃やし続けております残された者にとって、
どうして素直にそんな言葉が受け入れられましょう。残された者も
老いました。いずれ私の生命が果てたときは、フィリピンに骨を埋めて
もらおうと思っています。そのとき、私の戦後は終わるのでござい
ましょう…」
詳細な記録は、以下に掲載されています。ぜひ手にとってほしいです。
『フィリピン−悲島』読売新聞大阪社会部 昭和58年 p.107悲恋 

●K.Hさん (男性82歳/戦闘機部隊、現在憲法9条の会所属)
「原爆落とされて焼け野原になる前に、もっと早く決断していたら、もっと
被害が少なくてすんだ」大正12年生まれのK.Hさんが電話口で声を大きく
した。
死人が山積みになっているのを目撃した。
死んでいく戦友をたくさん見た。
ご自身も、足が腫れてしまい50Mも歩けなくなってしまった時期があると
いう。飢えのため、死ぬか生きるかの瀬戸際だったとき、食料が現地人の
人や元日本兵によって取り尽くされている地域で、唯一残っていた
さつまいもの葉っぱの美味かったこと…と言葉を詰まらせた。
塩もない状況の中、飯盒にその葉っぱと水だけを入れて炊いたという。
日中は米軍が砲撃をあびせてくるので隠れていたが、長期にわたる戦闘の
ため、不衛生な状況がつづき、身体にはしらみがびっしりついていた。
攻撃の間に外に出てしらみ潰しをしてました、と何とも言えない壮絶な
状況を、笑いながら話してくださったK.Hさん。
「戦争は悪そのものや。戦争が起こらんように、皆が戦争はいやだと思わな
あかん。一生懸命思わな。戦争は天災ではない。人が始めた人災じゃ。
人がやらんと思ったらそれで済むんや。」
イラク戦争が始まろうとする時も、戦争反対のプラカードを首からさげて
街頭に立った。K.Hさんが遺書のような気持ちで書いたという自伝を、
孫は「化石のようなことを言うなと言って未だに読んでくれない」と寂しそう。
若い世代は戦争にどう向き合うのか、一人ひとりが考えるべきときに来て
いるとつくづく思いました。

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