2009.03.30 Monday
リパ市に戦争の傷跡を訪ねる
●福林 徹
京都在住・元歴史教員
フィリピン戦では、日本軍によるゲリラ掃討を名目とする住民虐殺が全土で多発したが、その中でも、マニラ南方のラグナ州とバタンガス州で引き起こされた虐殺事件は大規模なものであった。
この地域には「藤兵団」と呼ばれる部隊が配備されていた。「藤兵団」は、秋田の歩兵第17連隊(1944年8月に満州から移駐)、弘前の歩兵第31連隊の一部、第86飛行場大隊(1944年8月に満州からリパ飛行場に移駐)、第2海上挺身隊(バタンガス湾に配備され、ベニヤ板製の特攻艇約100隻で米軍を迎え撃つ部隊)などから成る寄せ集め部隊で、総兵力は約1万2000人、兵団長は歩兵第17連隊長の藤重正従大佐、司令部はバタンガス州リパ市の東北10キロのマララヤ山系の北麓サンタクララに置かれていた。
「藤兵団」による虐殺は、1945年2月初め、米軍がこの地域に進攻して来た時に始まり、兵団が敗北して撤退するまでの1カ月半続いた。兵団長の藤重大佐は、「世界戦史に残る殺戮戦をやれ」と命じたと言われ、これにより、ラグナ州のカランバ、ロスバニオス、バイ、サンパブロ、バタンガス州のリパ、バウアン、タナワン、サンニコラスなど多くの都市で2万5000人にも及ぶ住民が虐殺されたと言われる。
この中でも最大の被害があったのはリパ市であった。リパ市での虐殺事件は広範囲に及んでおり、私たちはパンガオ集落で約70人の男性が殺害され、井戸に投げ込まれた現場なども見学したが、3月4日にリパ市ルンバンで起こった虐殺事件は特に大規模で、約1500人の住民が殺害され、村は抹殺された。
私たちは、ルンバンに住むユーラシオ・レコノさんEufracio Reccono(1929年生まれ)を訪ねて話を聞いた。
それによると、日本軍は通行許可証を発行するなどと言って、老若男女を問わず住民を2カ所の渓谷に集めた。男性と女性は別々に分けられ、虐殺は一晩かけて行われた。男性たちは縄で繋がれて並ばされ、グループごとに呼び出され、日本兵に銃剣で突き刺された。レコノさんは正面から腹を突き刺されて気を失い、川に放り込まれたが、米軍に救出されて手当てを受け、一命は取り止めた。レコノさんの体には、今でも咽ぎわ、脇腹、胃の中心に銃剣の傷跡が残っている。
リパ市で虐殺を実行したのは「藤兵団」第86飛行場大隊であった。この部隊はリパ飛行場の飛行機を失ってからはリパ地区防衛隊に衣替えしていた。また、一部は「藤兵団」の司令部のあったサンタクララの背後のマララヤ山系でトンネルを掘って陣地構築作業をしていた。そのため、第86飛行場大隊はルンバンの住民を掘削作業や物資の運搬作業に駆り出していた。ルンバンの村にはゲリラはおらず、むしろ日本軍に協力的であったという。それにもかかわらず住民の皆殺しを計ったのは、口封じと、この地域を作戦区域として無人化することをねらったのではないかと思われる。
第86飛行場大隊は3月21日頃、米軍に追われ、リパ市に放火してマララヤ山系に撤退し、さらに4月末、敗残の「藤兵団」はマララヤ山系を脱出、東方のバナハオ山へ落ち延びていった。
ラグナ州・バタンガス州の虐殺事件で特徴的なことは、日本軍と住民の関係は、虐殺が始まるまで、それほど緊迫していた分けではなさそうということである。住民の証言でも、「日本兵は以前から大勢いたが、別に怖くなかった」とのことである。それが、米軍の進攻を迎えて、自暴自棄になった日本軍が突然狂気のような虐殺を始めたという印象を受ける。そのきっかけになったのが、藤重大佐の虐殺命令であるなら、責任は余りにも重大であるが、それと同時に、どんな不法な命令でも防げ得ない日本軍の体質にも問題があった。
最後に、今回のツアーで感じたこととして、戦争被害に関するフィリピン側の地域資料がほとんど残っておらず、正確なことが分かりにくいことがある。フィリピンの歴史にとって、これほど大きな問題が忘れ去られて良いはずがない。戦争被害者が存命のうちに、フィリピン側で調査・記録する努力が望まれる。また、虐殺現場にくまなく慰霊碑を建立することなども必要であろう。そのような点から言うと、リパのデ・ラ・サール大学で我々が参加した交流会「過去の和解、平和な未来へ」などは大きな意味をもつかも知れない。教職員・学生や市職員200人が参加したこの集会は、フィリピンの若い世代が過去の歴史に目を向ける良い機会になると思う。日本軍が住民を爆殺した事件のあったバウアン町での集会にも、チトー氏の尽力で高校生や大学生50人ほどが参加していたのは良かった。もちろん、我々日本人の側にも、フィリピンでの出来事を語り継いでいくという重い課題があるわけだが。
京都在住・元歴史教員
フィリピン戦では、日本軍によるゲリラ掃討を名目とする住民虐殺が全土で多発したが、その中でも、マニラ南方のラグナ州とバタンガス州で引き起こされた虐殺事件は大規模なものであった。
この地域には「藤兵団」と呼ばれる部隊が配備されていた。「藤兵団」は、秋田の歩兵第17連隊(1944年8月に満州から移駐)、弘前の歩兵第31連隊の一部、第86飛行場大隊(1944年8月に満州からリパ飛行場に移駐)、第2海上挺身隊(バタンガス湾に配備され、ベニヤ板製の特攻艇約100隻で米軍を迎え撃つ部隊)などから成る寄せ集め部隊で、総兵力は約1万2000人、兵団長は歩兵第17連隊長の藤重正従大佐、司令部はバタンガス州リパ市の東北10キロのマララヤ山系の北麓サンタクララに置かれていた。
「藤兵団」による虐殺は、1945年2月初め、米軍がこの地域に進攻して来た時に始まり、兵団が敗北して撤退するまでの1カ月半続いた。兵団長の藤重大佐は、「世界戦史に残る殺戮戦をやれ」と命じたと言われ、これにより、ラグナ州のカランバ、ロスバニオス、バイ、サンパブロ、バタンガス州のリパ、バウアン、タナワン、サンニコラスなど多くの都市で2万5000人にも及ぶ住民が虐殺されたと言われる。
この中でも最大の被害があったのはリパ市であった。リパ市での虐殺事件は広範囲に及んでおり、私たちはパンガオ集落で約70人の男性が殺害され、井戸に投げ込まれた現場なども見学したが、3月4日にリパ市ルンバンで起こった虐殺事件は特に大規模で、約1500人の住民が殺害され、村は抹殺された。
私たちは、ルンバンに住むユーラシオ・レコノさんEufracio Reccono(1929年生まれ)を訪ねて話を聞いた。
それによると、日本軍は通行許可証を発行するなどと言って、老若男女を問わず住民を2カ所の渓谷に集めた。男性と女性は別々に分けられ、虐殺は一晩かけて行われた。男性たちは縄で繋がれて並ばされ、グループごとに呼び出され、日本兵に銃剣で突き刺された。レコノさんは正面から腹を突き刺されて気を失い、川に放り込まれたが、米軍に救出されて手当てを受け、一命は取り止めた。レコノさんの体には、今でも咽ぎわ、脇腹、胃の中心に銃剣の傷跡が残っている。
リパ市で虐殺を実行したのは「藤兵団」第86飛行場大隊であった。この部隊はリパ飛行場の飛行機を失ってからはリパ地区防衛隊に衣替えしていた。また、一部は「藤兵団」の司令部のあったサンタクララの背後のマララヤ山系でトンネルを掘って陣地構築作業をしていた。そのため、第86飛行場大隊はルンバンの住民を掘削作業や物資の運搬作業に駆り出していた。ルンバンの村にはゲリラはおらず、むしろ日本軍に協力的であったという。それにもかかわらず住民の皆殺しを計ったのは、口封じと、この地域を作戦区域として無人化することをねらったのではないかと思われる。
第86飛行場大隊は3月21日頃、米軍に追われ、リパ市に放火してマララヤ山系に撤退し、さらに4月末、敗残の「藤兵団」はマララヤ山系を脱出、東方のバナハオ山へ落ち延びていった。
ラグナ州・バタンガス州の虐殺事件で特徴的なことは、日本軍と住民の関係は、虐殺が始まるまで、それほど緊迫していた分けではなさそうということである。住民の証言でも、「日本兵は以前から大勢いたが、別に怖くなかった」とのことである。それが、米軍の進攻を迎えて、自暴自棄になった日本軍が突然狂気のような虐殺を始めたという印象を受ける。そのきっかけになったのが、藤重大佐の虐殺命令であるなら、責任は余りにも重大であるが、それと同時に、どんな不法な命令でも防げ得ない日本軍の体質にも問題があった。
最後に、今回のツアーで感じたこととして、戦争被害に関するフィリピン側の地域資料がほとんど残っておらず、正確なことが分かりにくいことがある。フィリピンの歴史にとって、これほど大きな問題が忘れ去られて良いはずがない。戦争被害者が存命のうちに、フィリピン側で調査・記録する努力が望まれる。また、虐殺現場にくまなく慰霊碑を建立することなども必要であろう。そのような点から言うと、リパのデ・ラ・サール大学で我々が参加した交流会「過去の和解、平和な未来へ」などは大きな意味をもつかも知れない。教職員・学生や市職員200人が参加したこの集会は、フィリピンの若い世代が過去の歴史に目を向ける良い機会になると思う。日本軍が住民を爆殺した事件のあったバウアン町での集会にも、チトー氏の尽力で高校生や大学生50人ほどが参加していたのは良かった。もちろん、我々日本人の側にも、フィリピンでの出来事を語り継いでいくという重い課題があるわけだが。