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安田誠さんを訪問しました
*取材チームの大学生・板橋幸太郎さんがまとめてくれた報告です(加筆:浅井久仁臣)。

  10月20日、BFP取材チーム(今回は3名)は、戦時中フィリピンに派兵された安田誠さん(大正12年福島県生まれの87歳)の都内のお宅にお邪魔しました。  

 安田さんは、横須賀の海軍工廠に勤める傍ら、夜間学校に通われていました。その時、日米開戦の知らせを横須賀で聞いたとのことです。開戦の知らせを聞いてどのようなお気持ちになられたかとの問いに、格別の思いを抱かれなかったとのこと。当時、戦争は、多くの国民にとっては、起こるべくして起こったということだったのでしょう。 昭和19年4月、三重県第7航空通信連隊に、現役兵(※徴兵で軍隊に入った兵士)で入営され、第2中隊に配属されて無線・暗号教育を受けられました。  満州や中国戦線に出動した古参兵が多く、訓練につきもののしごきは厳しかったとのこと。たまに伊勢神宮に訓練で行くのが楽しみだったそうです。

  昭和19年10月、第七航空通信連隊から豪北派遣隊として63名が選ばれ南方に送られることになりました。戦友のほとんどは命を落としたと見られます。終戦後、帰国してみると、確認できたのは5名だったとのことです。 マニラに着いたのは、昭和19年12月末でした。マニラ港にはアメリカの攻撃を受け、多くの日本船が沈んでいました。豪北派遣隊は解散(?)し、それぞれが比島の各部隊に送られました。安田さんは第4航空軍司令部(通称:真15300部隊)通信隊の暗号班に配属となりました。  

 しかし、戦局は悪化の一途を辿っており、翌年1月7日、第四航空軍にマニラからエチアゲ(現イザベラ州エチャゲ:Echague)に移動命令が出てからは、“転進(撤退とは言わず転進と言う言葉が使われましたが事実上の敗走)”に次ぐ転進、敗走を続けました。  1月9日、アメリカ第六軍がリンガエン湾から上陸。ルソン島の陸上戦闘が始まると、16日、第四航空軍司令官、富永恭次中将が残存将兵を残して台湾に逃亡。隷下諸部隊の一万人くらいがフィリピンに残されました。
 
 バレテ峠で戦う鉄兵団(第十師団)へ食糧輸送にあたることもありました。夜中に輸送部隊がリレー式で運んでいくやり方でした。ところが、フィリピンの抗日ゲリラの執拗な攻撃に遭って輸送が思うようにいきませんでした。

  抗日ゲリラと一般住民との区別はつかず、若い男と見ると捕まえるのが現実だったそうです。挙句の果てに、ゲリラ活動に悩まされ続けた日本軍は、捕まえた住民を殺害する暴挙に出ます。ただ、軍隊の中にいると、そうすることへの抵抗感がなくなったと安田さんは言われます。特に、友軍が殺されたりすると、“ゲリラ”への憎しみが増したそうです。

  七人の日本兵がゲリラに殺されたことがありました。そこで、ゲリラ狩りが行なわれ、ゲリラなのかわからないが、とにかくフィリピン人が捕えられて集められました。後ろ手に縛って座らせ、前に穴を掘っておき、各中隊から初年兵が集められました。安田さんもその一人でした。 上官から銃剣で突けとの命令が出ました。恐ろしさもあって心臓を突くのは難しく、首とか肩とかにはずれてしまう。すると、満州で何人も殺した経験がある古参兵に、「バカヤロー、どこ突いてんだ!」と怒鳴られて、やり直しをさせられました。こうして安田さん自身も四人を殺したと言います。その時の心境を伺うと、すでに日本兵が七人殺されていたので特に何にも思わなかったそうです。

 また違う村で、斥候に出た二人が帰ってこなかったことがありました。見に行くと二人が殺されていました。村を捜索すると、サトウキビをゆでる釜から赤ん坊の泣き声が聞こえたので、行ってみたら女とその子供がました。 赤ん坊は殺さなかったものの、女は抵抗するので殺してしまったそうです。そしたら、山から隠れていた夫らしい男が出てきました。捕まえてゲリラの陣地に案内させようとしましたが村の周りをぐるぐる回るだけで、これはおかしいと思い結局殺してしまいました。

 同年5月中旬、鉄兵団が全滅。残された安田さんの部隊も時折り、米軍への攻撃を試みるものの、蟻が巨象に挑むようなもの、歯が立ちませんでした。安田さんは両脚に貫通創を負い、歩行がままならなくなりました。 行軍中にそうなると放置されて死を迎えるのが普通の状況でしたが、幸いにして前人未到のシエラマドレ山脈を歩くのが困難を極めており、行軍の速度が遅く命拾いしました。傷口を消毒する薬など望むべくも無く、蛆虫に“キレイに”してもらったと言います。さらに、その蛆虫を食べたと言うのですからどれほどの飢餓状態にあったかが聞く者でも想像できます。

  食糧がなくなると、最終的に人肉食に走る兵隊もいました。安田さんも敗走中に3体くらい、太ももを切り取られた日本兵の死体を見たそうです。状況からして「食べられた」と思ったとの事。また、3人で肉を食べている日本兵に会ったこともありました。安田さんと一緒にいた上官が「何食っているんだ」ときくと、「これはカラバオ(水牛)だ!」と答えましたが、安田さんたちはそうは思わなかったと言います。 時折り元日本兵から聞く、「後ろダマ(背後から快く思っていない戦友を撃ってしまうこと。その死体の肉を食べた場合もあったという)」については、安田さんは「聞いたことが無い」と言われました。 昭和20年8月15日の終戦の知らせは直ぐに伝わってこなかったが、砲声がなくなったなとは思っていたそうです。

 敗戦を確認したのは、9月に入ってからで、スピーカーを着けた米軍機(たぶん米軍の観測機:スチンソンL−5観測機とか)からの投降の呼びかけで知りました。 それに応える形で投降し、米軍の捕虜になりました。第4キャンプ第81中隊に収容されて、誰もやりたがらない米兵のハウスボーイもやりました。 仕える事になった米軍のクーパー軍曹に気に入られ、「アメリカに来い」とまで誘われたそうです。軍曹からの紹介状を今も大事に持っており、見せていただきました。住所をもらっていたのに軍曹に連絡を取っていないことを悔やんでおられたので、お手紙を代筆するなどBFPとして何かお手伝いができればと、安田さんにお伝えしてあります。
| 取材-フィリピン戦 | 20:44 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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