NPO法人ブリッジ・フォー・ピース(BFP)の公式blogです。
ここに記載される会員もしくは参加者の見方や考え方は、必ずしもBFPを代表するものではありません。
個人の自由な想いを尊重して運営しています。
Copyright(C) 2005-2015 Bridge for Peace All rights reserved.

<< フィリピンへ行ってきます! | main | 秋田取材報告 その2 >>
秋田取材報告
 今回の取材は、フィリピン・ルソン島南部に送り込まれた「陸軍○連隊(秋田市に本部。所属兵は当時秋田在住)」の足跡を追うことが目的でした。

秋田には、代表の神直子がこれまでにも二度足を運んでいましたが、聴き取れ
ていない部分がまだまだあります。そのひとつが、バタンガスの教会爆破の話です。神が会う現地住民たちが、その残虐性を訴えてきていましたが、元日本兵たちはそれについて言及してくれませんでした。神は毎日のように「教会爆破の証言が欲しい」と言っており、その想いは、私に十二分に伝わっていました。

 そんなわけで神は再度秋田に取材に行きたいと切望していましたが、各地の講演会に呼ばれたり、果てはカナダに招待されて出かけたりするなど、秋田に足を運ぶ機会が中々見つかりません。その上、フィリピンにも現地協力者との約束を果たすために行くことが決まっており(時期も含めて)、外すことはできませんでした(神を含む4名のBFP会員が現在フィリピン滞在中)。フィリピンから帰って来たら来たでまた多忙になり、あっという間に師走を迎えてしまうことは明らかです。そうなると彼の地は雪深くなり取材もままならなくなると言っていました。

 ○連隊の最年少が大正12年生まれ。87歳か88歳です。厳しい冬を越せない方が出てくるかもしれないと焦りにも似た気持ちになっていました。誰かが神の代わりに取材に出かける必要がありました。

 同じ取材でも残虐行為の証言を引き出すにはやはり多少の聴き取りのテクニックや経験が必要となります。そこで私が行くことになり、「○連隊戦友会名簿」にある元日本兵約400人に一斉に手紙を送りました。住所の入力は、BFP会員が頑張ってくれました。

 数日すると、電話が鳴り始めました。でも返事を頂く半分以上が、「既に他界しました」というお知らせでした。また、かなりの数の封書がそのまま送り返されてきました。宅急便会社は旧住所でも新しい住居表示を調べてくれるのだそうです。それでも、「宛先不明」「表札なし」で続々と返って来てしまいました。

 時の経過を実感させられると共に、「万障を繰り合わせて日本兵取材に取り組むべき」との思いを強くしました。

 ぽつぽつと取材受諾の連絡が入るようになりました。ところが、そこで大きな問題が生じたのです。同じ日本語でありながら、私には秋田弁がよく理解がきないのです。「鈴木」という名前を電話で伺うのに、4,5分かかってしまうという失態まで演じる始末。そこで、秋田の友人に“通訳”を探すようお願いしました。

 最終的に秋田県南部と北部それぞれお二人の元日本兵から取材受諾との連絡を頂きました。秋田の友人によると、訛が南北で違うので、南と北それぞれの通訳を手配してもらいました。

 11月6日午前、到着した秋田駅には、手助け組みの「通訳」と「運転手」が待っていました。

 そこから由利本荘駅へ。そこには、神がお世話になっているAさんという元日本兵が待っておられました。Aさんは「案内役」を買って出てくださったのです。

 今回、元日本兵の名を伏せるのは、想像がつくとは思いますが、慎重に扱う必要のある貴重な証言をいただいたからです。ご本人は名前も顔も公表して構わないとのことですが、しばらくは慎重を期して名を伏せます。

 Aさんを加えた一行は、Bさんの御宅に伺いました。

 Bさんは難聴で、筆談で取材を進めました。私が書いたものを読んで、その質問にお答えいただく形です。

 17人兄弟という大家族に生まれ、小さい頃は「他所に預けられていた」というBさんがご両親と暮らすようになったのは、小学校に入ってからです。
「父親は顔を見ると怒ってばかり」「母親は、腰をもめだの、庭の掃除をしろだのうるさかった」と回顧されます。

 軍隊に入った時も、母親から「兵隊に行って来い。戦死でもすれば、家の名誉になるし、軍人恩給も入るから」というようなことを言われたとのこと。半分笑っておっしゃいましたが、つらかったことは想像に難(かた)くありません。

「そう言われたお母さんですが、本心からだと思われますか」と伺うと、それまで散々母親を悪く言っていたBさんが、「本音の半分は、やっぱり子供だからね……。私が鉄道省に入った年にわざわざ会いに来てくれて、枕を並べて一緒に寝てくれました」と相好を崩されました。大先輩ですが、それまでと違って柔和な可愛い表情でした。

 Bさんは予備士官学校に行った事で階級的には恵まれて中尉になり、砲兵大隊本部に配属されたそうです。本部付であったために、戦闘体験は他の兵隊に比べて少ないと言われましたが、それでもお話を聞いていくと、フィリピン人ゲリラや米兵に指揮されたゲリラ部隊との戦闘をお話してくださいました。

 山中に転進(日本軍は撤退とか敗走とは決して言いませんでした)した後、村落を襲って食糧略奪に明け暮れる毎日で、地元住民には迷惑をかけたと言われましたが、いざ、「フィリピンの人たちへのメッセージ」をお願いすると、ビデオカメラに向かって食糧略奪や占領について謝罪をすることはありませんでした。

 そこから今度はCさんの御宅にうかがいました。

 体験をお聞きする中で、私の「辛い体験もお有りでしたでしょう?」との問いかけに、やや躊躇した後、「三つの虐殺現場に立ち会いました」とCさんは話し始めました。同行したAさんがせわしなく咳をし出しました。

 「一つは、数珠繋ぎにした7,80人のフィリッピン住民(抱かれていた子供もいたが、子供は撃たれなかった)を撃ち殺した現場」「もう一つは、住民が逃げ込んだ教会を爆破した現場」「そして、マンゴーの下にくくりつけた住民を殺した現場」に立ち会ったと証言されました。

 教会爆破?もしかしてバタンガス?と、私は耳を疑い胸が高鳴りました。神が聞きたかった現場の証言かもしれません。

 「それは、バタンガスの教会でしたか。どんな教会でした?誰が何人くらい中にいたんですか」と興奮を抑えて質問しました。Aさんの咳込みが激しくなりました。私には何か意図的に聞こえましたが、その真意は分かりません。

 「バタンガスの教会です。白い色だったと思います。誰が中にいたかは分からないですが、住民たちです。現場から10メートル位の所で見ていたからどっと血しぶきが上がるのが見えました」
 
 Cさんは、こうも付け加えられた。「ただ、これはその前に(日本兵)7人が行方不明になって、耳をそがれたり、腕を切り落とされた惨たらしい姿で発見されたからということもあります」

 Cさんがお話をされている間、私は神に早く伝えてやりたいという思いで一杯でした。また、もっと詳しく話を聞きたかったのですが、取材続行が難しい事情が生じ、Cさん宅を失礼する事になりました。Cさん宅を後にすると直ぐに神に取材の内容を伝えました。

 すると、「うわーすごい話。今、私たちはその教会から帰ってきたよ。教会で兄を亡くした女性にも取材しました」というメイルが神から帰ってきました。

 なんという偶然でしょう。私たちが教会爆破の話を伺っている時、今回フィリピンへ取材へ行ったメンバーは、はその現場にいたのです。あまりの偶然に鳥肌が立ちました。(続く) 
| 取材-フィリピン戦 | 23:32 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
コメント
コメントする









この記事のトラックバックURL
http://blog.bridgeforpeace.jp/trackback/1489396
トラックバック
CALENDAR
S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< July 2018 >>
LINKS
RECOMMEND
私たちが戦後の責任を受けとめる30の視点
私たちが戦後の責任を受けとめる30の視点 (JUGEMレビュー »)

BFPとしても2章書かせて頂いています。ご覧頂けると嬉しいです。
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
PROFILE