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元日本兵インタビュー抜粋 その2

翌1945年2月頃、興南(現在の北朝鮮)の港から船に乗せられました。みんな帰国できると思っていたのに最終的に着いた先は沿海州のスーチャンというところで全員肩を落としました。【記録者註:ここで言うスーチャンはおそらく現在のロシア連邦沿海地方パルチザンスク(Партиза&#769;нск)。1972年までスーチャン(Сучан)といわれていた、炭坑のある町】

 アルチョン【場所未確認:スーチャンの近く?】というところの炭坑に2、3年置かれました。最初の2年でかなりの死者が出ました。人間じゃない、ひどい、悲惨で、滑稽で、悲しい死に方をしたとTさんの目は怒りで一杯になりました。

 一日の食事は黒パン350gとスープと砂糖10gだけ。栄養失調になり、作業中もヨタヨタしていた。最初のうちはいい加減に行われたパンの分け方も、次第に争いの種にまでなるようになり、その内計りを作ったりしてパンを分けるようになりました。

 

夜寝る時の話題はいつも食べ物。おはぎ、大福、お汁粉などの話で、ぼたもちの定義は何だとかを夜な夜な話していた。女性の話より食べ物の話がほとんどだったそうです。


 収容所の中でも軍隊の組織(将校、下士官、下級兵)は生きていたとのこと。ソ連軍にとって管理するのに都合が良かったからなのでは、とTさん。

 

しかし、それも次第に崩れ、それに不満を抱いた元下級兵士たちが元将校たちに反抗を始めると、ソ連はそれを利用して「民主化教育」をやるようになりました。


 敗戦から約5年経った1950年7月21日、ソ連の収容所から出されたTさんは、帰国できるかと胸を膨らませましたが、喜びも束の間、今度は中国側に引き渡されてしまいます。ソ連から中国に手渡された日本人の数は全部で969名。その中には旧満州国の役人や関東軍の高級将校もいましたが、兵隊が多かったそうです。Tさんは未だなぜ自分が中国に引き渡されたのかは不明。

 ソ連では貨車で移動させられましたが、中国で乗せられた列車は客車です。さらに食事も良かったので、この待遇の変化には何かあると疑心暗鬼になった人もいたようです。

 そして着いたのが撫順戦犯管理所(現:遼寧省撫順市)です。


 ここでの生活はソ連におけるものとは一変。強制労働もないし、部屋は温かいし、情報は人民日報などを通じてどんどん入ってきました。管理する中国人も日本語が上手でした。

 だから朝鮮動乱が起きたことも知っていたとのこと。その時は、「日本に圧倒的に勝った米軍に共産勢力がまともに戦えるはずが無い」と思っただけに、いったんは負け戦であった共産勢力が三十八度線まで押し戻したと聞いた時は驚かれたそうです。

 

 収容される内に中国人との間に信頼が生まれていったと言います。中国人への加害行為について学習する中から徐々に皆が反省し始めていきます。中国側はその辺りは巧みで、学習や反省を強制するのではなく、環境作りをしてから段々とそちらの方向に捕虜達を導いたようです。起訴された戦犯も反省をしたことで刑罰を免除されました。

 1956年6月21日、ラジオで釈放を聞かされます。収容所内が「うおーっ」という感じになったそうです。

 そうして終戦から11年目で帰国しました。

 

同年7月3日、舞鶴港(京都府)に到着。生まれ故郷の延岡に着くと地元の市役所の職員らがのぼりを立てて待っていました。母親に会えた時はうれしかったと述懐されます。再会の時、母親は何も言わなかった(言えなかった?)そうです。Tさんが中国にいる間、安否を知るために占いに行ったりしていたと後で聞かされました。親孝行もしてないので母親が一番かわいそうだったと語るTさんの顔は気のせいか硬くなっていました。

 「私達は中国で酷い事をやりました」と口を揃える撫順からの帰還者を見てメディアが「彼らは洗脳された」と騒ぎたてました。そのことにTさんは今でも怒りの表情を隠しません。969人の内たったひとりを除いて全員がその後一貫してその考えを変えなかったように、自発的にそう考えるようになったのであり、洗脳されたわけではないことを強調されます。

 

そんな悲惨な経験を強いられた帰還者の多くが、マスコミ報道のせいでまともな職に就けなかった事実があります。そんな中で、幸いなことに元いた会社がTさんを温かく迎え入れてくれたそうです。

 「戦後世代へのメッセージをいただきたい」とのBFP側からの要請に応えて、Tさんは次のように語られました。

 「日本の若者は先輩たちがやってきた近現代史の侵略の歴史を理解してしっかり反省しなければならない。被害者は忘れない。そこを考えなければ中日関係(ママ)はよくならないのです」


(文責 板橋孝太郎/浅井久仁臣)

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