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元日本兵取材報告 「隼」飛行兵
  21日、都内の喫茶店にて元日本陸軍航空兵の岡野工治さんにお話を伺いました。

 岡野さんは新潟の水産高校在学中に航空教育隊に入り、約半年間の訓練を受けて昭和19(1944)年9月、旧満州(中国東北部)のチチハルの飛行場にパイロットとして配属されましたが、その後も訓練に明け暮れる毎日で、一度も出撃することなく終戦を迎えました。

 従って、インタヴュウの話題は、訓練の厳しさとソ連での抑留生活に集まりました。

 特攻隊員である岡野さんが受けた訓練はとても厳しいもので、急降下や緊急離着陸を繰り返して練習する中で、死者も出るほどであったといいます。

 訓練の他にも事あるごとに走らされ、足腰が鍛えられたそうです。その賜物でしょうか。85歳とは思えない足取りで歩かれる姿は健康そのものでした。

 そんな厳しい訓練に明け暮れる中で、楽しかったことは外出。地元の店をのぞき込んで冷やかすことだったそうです。

 慰安所もあり、その前にはいつも兵士たちが少ない時で5、6人、多いときには14、5人が列を成して順番を待っていたそうです。岡野さんは利用することはなかったのであくまでも聞いた話とのことですが、慰安婦の中には16歳くらいの少女もいたとのこと。そういった少女は当然ながら自分から喜んで慰安婦になった感じはなく、暗い雰囲気なので兵士たちには人気がありませんでした。「恐らく強制的に連行されて来ていたんでしょうね」と岡野さんは言われました。

 対ソ戦に備えて配備されていましたが、空港には37機の「隼(戦闘機)」しかなく、岡野さんを含む多くのパイロットは、歩兵として戦う準備をしました。

 ソ連軍が攻めてきた8月9日の前日夕、司令部から「ソ連軍の攻撃に備えよ」との命令が出され、軍装を解かずに一夜を明かしました。

 翌朝、敵機が飛来して何発かの爆弾が落とされる音がして「いよいよ始まった」と覚悟を決めましたが、隼が出撃することはなく、また周辺では戦闘もなく3日が過ぎました。

 そこから急にハルピンに“転進(撤退)”。そこで武装解除されてソ連軍の捕虜となりました。

 その時、ひとりの将官(副部隊長)が捕虜になるのを善しとせず、多くの兵の前で自害。しかし、部隊長の「帰国して祖国の復興に努めよ」との声に他の将兵は冷静さを取り戻したそうです。

 岡野さんが送り込まれたのは、ハバロフスク近くのテルマという場所で、シベリア鉄道の支線作りと山林伐採作業をさせられました。厳寒の中での作業は、想像を絶する過酷な毎日となりました。テルマに抑留された約1万3千人の日本兵の内、891人が命を失ったとのことです。

 1948(昭和23)年6月、岡野さんは日本に復員しました。そして今は、「シベリア抑留体験を語る」語り部として全国を周られています。
 
| 取材-シベリア抑留 | 12:06 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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