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元日本兵取材報告:岩井忠正さん(90歳)
*取材チームの斉藤由美子による報告です。

1920年熊本生まれ、4歳からは職業軍人だった父の都合で大連で軍隊式の教育を受けて育つ。10人兄弟の9番目(姉4人、兄4人)、弟の忠熊さんは末っ子。高円寺の叔母のところに下宿しながら、慶応大学で西洋哲学を専攻。慶応に入ったのは、数学が苦手だったから。1年浪人して入学。
映画が大好きでたくさん見ていた。レ・マルクの「西部戦線異状なし」は本も何度も読み、映画も一番気にいっていて、影響を受けた。

当時どこの大学にも軍事教練のための38式歩兵銃が何百丁もあった。
世の中の空気には反発を持っていて、天皇制が裏にある「侵略戦争」だと思っていた。批判や嫌悪感を持っていたにもかかわらず、沈黙して大勢には妥協していた。精神主義、非合理的な立場が大嫌いだったが、「オレ一人が反対しても、どうにもならない」と考えていた。

後に、そう考えていた人は、自分だけではなく弟(岩井忠熊)や和田稔(「死ぬのは天皇のためではない」と言っていた)をはじめ、他にもそういう考えの人たちがいたことを知った。

1943年の学徒出陣で、雨の神宮外苑では、びしょぬれになった記憶だけが残っている。12月10日召集 横須賀・武山の海兵団に二等水兵として入隊。44年2月からは対潜学校で訓練を受けた。
精神教育が厭でたまらず、「どうせ死ぬに決まっているから」と思い、「特攻」に応募、様々な試験があったが、合格。10人兄弟の9番目ということが理由だったのでは・・と思っている。
約400人の予備学生が山口県光の回天基地に送られた。ここには45年の4月までいた。

(44年10月頃だったか、長崎の川棚というところに1カ月ほど行くことがあり、 そこで震洋の乗組員だった弟と再会した。)

結核にかかり、転勤命令が出て、山口県から呉の潜水艦基地隊へ(実際は軍医の誤診だったが、このために回天には乗らず、結果として命びろいした。もし、回天基地にいたら、いづれ特攻で死んでいたはず。その後、45年の6月頃から7月末までの約1カ月半、横須賀・野比海岸の伏竜隊へ 行った。実際、事故が多く、上陸用舟艇を下から突くことなど不可能で、海の中を知らない人が思いつきでつくった部隊で実戦では、全く役には立たないものだった。

潜水服を着て、60キロ近いボンベ等を背負い、足にも鉛を付けていたので、陸上では重くて歩けなかった。7月14日に事故に遭い、11日程入院したが、命は助かった。

「伊勢」とか「青葉」などのわずかに残っていた軍艦が油がないので、動けず、島に乗り上げているのを見て、戦争は負けると思っていた。8月6日は空が青く良く晴れた日で、呉でも一瞬辺りが白くピカーと光り、それからドカーンとものすごい音がした。

8月15日に玉音放送を聞き、日本が負けたことを知った。天皇の声は初めて聞いたけれど何だか変な声だった。

若い人たちへのメッセージ:
1)戦争の本質を知ってもらいたい。
 今の状況も当時と似ているところがあることを考えて欲しい。
 防衛のための軍事力=攻撃力=アメリカの前進基地、それはとりもなおさず、安全保障
 ではなくて、「危険」保障、つまり危険を招き入れる装置ではないか。

2)日本の歴史を考えてみてほしい。元寇以外は一度も侵略されたことはない。日本は島
 国で、資源貧国だから。

3)今は「KY」とか言って揶揄するが、「KY」でいい。
  空気なんか読むな! といいたい。大勢に流されないことが大切だと思う。そのことに
 気づいてほしい。

4)日本は中国や慰安婦被害者などはっきりと謝罪すべき。ドイツははっきり謝罪したこと
 で、却って信頼を回復している。日本が自国の犯罪にむきあわないことは恥ずかしい事。


+++++
現在90歳ですが、大変お元気ではつらつとしていて、ユーモアに富んで楽しい方で、その年齢が信じられないくらいでした。当初、2度の特攻と聞いて、深刻なお話になるのを覚悟していましたが、
全くそんなことはありませんでした。 

弟の忠熊さんも、第39震洋隊が武器とともに乗っていた船(沖縄に向かっていた)が米潜水艦に轟沈され、冷たい海で3時間漂流後救助。そのまま沖縄に行っていれば間違いなく死んでいた・・・とのことでした。
| 取材-学徒出陣 | 12:23 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
コメント
岩井忠正/忠熊の兄弟 父の勘六少将など三人の
家族経歴をもとに兄弟の人類愛への思想を知ることが
大切です。100年の歴史を直視体験しそこから
世界平和を追求する兄弟の姿勢言説は私に
大きな勇気と進むべき方向を示してくれます。

   76歳爺 所沢在住 工業デザイン・元学習院講師
| 伊藤千秋 | 2011/09/25 5:20 PM |
先の大戦では、日本人は精神主義で戦って、みじめな敗北を喫した。
日本人の精神力が足りなかったために、戦場においても工場においてもアメリカ人の精神力に負けたのだと考えていたとしたら、それは日本人の誤りである。

日本人には、意思がない。だが、恣意がある。
だから、日本人には能動はないが、願望はある。
米空軍が日本の都市を爆撃し始めたころ、航空機製造業者協会の副会長は「ついに敵機は我々の頭上に飛来してまいりました。しかしながら、我々航空機生産のことに当たっておりますものは、かかる事態の到来することは常に予期してきたところでありまして、これに対処する万全の準備をすでに完了いたしております。したがいまして、何ら憂慮すべき点はないのであります」と述べた。
すべてが予知され、計画され、十分に計画された事柄であるという仮定に立つことによってのみ、日本人は、一切はこちらから積極的に欲したのであって、決して受動的に他から押し付けられたものではないという、彼らにとって欠くことのできない主張を持続することができた。

日本人がどこで希望的観測の罠に落ちるのか、現実と願望 (非現実) を取り違え精神主義に走るのか、きちんと振り返り反省することはほとんど不可能である。
それは、日本語に時制がないからである。
日本語脳においては、現実と非現実を異なる時制を使って表現することができない。
現実を現在時制の内容として表し、願望を未来時制の内容として表すことができれば、それぞれの内容は別世界の内容となり、混乱することはない。混乱しなけれぱ゛キリスト教のような宗教になり、混乱すれば原理主義となる。

だがしかし、我が国では、一つの事態の肯定と否定は、同じ世界のこととして言い表される。
人々は、無為無策でいながら現実が願望へと突然変化 (反転) することをひたすら願うものである。
言霊の効果の出現を望んでやまない。
必勝を心の底から祈願すれば、悲惨な玉砕もあっぱれな勝ち戦に見えてくる。
実現不可能な欲望の思い込みが強すぎて、現実直視は困難になる。
これが、日本人の精神主義の本質である。
日本人は、祈願を他力本願・神頼みとしておおっぴらに認め合っている。
問題解決の能力はないが、事態を台無しにする力は持っている。
この閉塞状態が日本人の知的進歩の限界となっている。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

| noga | 2011/01/28 6:08 PM |
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