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元日本兵取材報告:大津渡さん

*取材チームの斉藤由美子による報告です。

大津さんに赤紙(召集令状)がきたのは、あと半年ほどで戦争も終わろうとしていた
1945
3月末、20歳になったばかりの時でした。大津さんは徴用令によって17歳頃から、日本光学の横浜工場で高射砲算定具を組み立てる作業をしていました。昼夜勤交替で一日14時間というきつい労働でした。 39日夜から10日未明にかけての東京大空襲は、当時住んでいた五反田から目撃し、日本は危ないという気もしたけれど、心のどこかで「神風が吹く」と信じていたと話します。 この頃は徴兵検査も19歳で行われるようになっていて、大津さんも1944年に合格していました。仙台から朝鮮経由で中国・山西省に送られ、北支派遣軍第一軍、独立混成第三旅団歩兵砲中隊に配属されました。初年兵の大津さんにとって、軍隊はとにかくめちゃくちゃないじめ(私的制裁)が横行しているところでした。様々な理由をつけて、来る日も来る日も殴られることばかり。大きな金属のバックルが付いた皮のベルトで殴る、鋲をうったスリッパで往復ビンタなどは日常茶飯事、古い兵隊の陰湿ないじめにオチオチ眠ることもできませんでした。3カ月の初年兵訓練が終わると、初年兵全員に「突撃一番」というコンドームが配られました。しかし当時は「慰安所」行きを考える心理的余裕は全くなかったと言います。その後、源平鎮の病院で衛生兵の教育を受ける中で、八路軍兵士の捕虜2人の「人体解剖」にも参加させられて、モルヒネを注射したことが今でも忘れることができません、自分は「加害者」ですと語ります。

国民党軍(閻錫山の部隊)に編入(1945年8月15日〜1949年4月)


8
15日後、中国の名前をつけられ、日本の敗戦も知らされなかった。


1949
4月に山西省の省都太原が八路軍(中国共産党軍)に包囲され、激しい総攻撃で、陥落。


残留した2600人中、約550人が戦死



中国人民解放軍の捕虜(1949年4月〜1954年)


鉄道病院や臨分の病院などで働きました。元衛生兵の技術を買われたためです。全く中国語が話せなかったのに、たった一人で中国人ばかりの病院の五官科(目、耳、鼻、舌、皮膚)に配属され、仕事しなければならず、四苦八苦しました。
1950
年に朝鮮動乱が勃発すると病院中の人たちが、「朝鮮戦争反対!」と言ってデモに繰り出したので、自分も参加したけれど、今では考えられないと笑います。


1951
年からは、河北省永年の捕虜収容所や西陵の農場で綿摘みや麻の刈入れ作業などをしながら、思想学習をさせられました。 



1954
年(昭和29年)9月30日、長い抑留生活を終えて第8次興安丸で、日本の舞鶴に帰国。姉と伯父が迎えに来てくれて、いわきに戻った。中国帰りということで、警官が1週間位の間、隣の家まで来ていた。大津さんたちは、軍の命令で中国に残留させられたのに、「現地除隊」扱いになっていて、「逃亡兵」として、軍籍を抹消されていたことを後から知った。



2001
に、奥村和一さん(映画「蟻の兵隊」のモデル)と大津さんを含む12人の元兵士とひとりの遺族が、国を提訴、軍人恩給の支給を求めたが、全面敗訴。 その後上告。



2005
9月に最高裁で上告棄却(最高裁は一度も審理を開かなかった) 


1954
年に山西省残留問題が国会で追及された時に、当時のi澄田司令官と山岡参謀長が「兵士たちは志願して勝手に残った」と嘘の答弁をし、問題は決着済みとされたていたため)



手先の器用な大津さんは、戦後、歯科技工士の国家資格をとって働きながら、日中友好と平和のために地道に活動してきました。いつもやさしく穏やかな風貌の大津さんですが、「山西省」と聞くと今でもいたたまれない気持ちになるようです。

| 取材-中国戦 | 11:23 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
コメント
hoshinoさん、すっかり返信が遅くなってしまい申し訳ありません。

<難しい問題でも専門家や政治家に任せず自ら直視して、素直な気持ちで話をすることは、その解決への近道>という言葉、心強いです。

直接お会いしてお話できる機会を心待ちにしています!
| 神 直子 | 2011/03/01 6:09 PM |
素直な気持ちで難しい内容の報告をご苦労様.そのおかげで、当時同じ日本人相手にも隣国人にも向けられた理不尽な暴力がよく分かると同時に、問題の核心を考えさせてくれます.
というのも、これって昔にあった悪い事件だけど今はもう無いのだろうか? 学校ではいじめが多い.職場では上司に逆らえず残業続き.悲観してする自殺は経済大国としては抜きん出て多い.そんな山積みの社会問題に対して、政府は何か有効な解決策を持っているのだろうか、作り出しているのだろうか? 悪いことを、昔だからだとか、一部の人の問題だからと、斬り捨てられない難しさ、怖さは、程度や問題の現れ方に違いはあっても、本質は今でも変わっていないような印象があります.
BFPのように、難しい問題でも専門家や政治家に任せず自ら直視して、素直な気持ちで話をすることは、その解決への近道でしょうね.もちろん困難な挑戦であることに変わりはないけれど、唯一の道じゃないかな? その意味でもご苦労様、これからの活躍を期待し、陰ながら応援します.
| fumi hoshino | 2011/01/25 10:39 AM |
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