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元日本兵取材報告
 *取材チームの斉藤由美子による報告です。

 

元日本兵取材報告ー槇原幸成さん


1926年1月23日生まれ、85歳
島根県出雲市出身、4人兄弟の長男

ハルピンで満鉄に勤務
今でいうハローワークで満鉄を紹介され、ハルピンの満鉄で3年勤務。初めは技術部、その後配給係、1200人の職員中 200人位ロシア人がいたので、ロシア語を少し覚えた。そのことが後に役だった。

19455月に召集命令
前日に職場の上司から召集命令を聞いた。令状はなく、「誰にも言うな」と職場の上司から指示を受け、日本国内にいる家族にも知らせることができなかった。

1945522日、牡丹江の関東軍重砲兵連隊に入隊。 55人が一緒に入隊した。古年兵がたくさんいて、とにかく軍隊は無茶苦茶なところだった。男やもめだけで、夢も希望もない。国境の寂しい町のハーモニカ長屋みたいなところだった。古年兵は「突撃一番(コンドームの名前)」 を配られて、慰安所に行くことだけが楽しみ。自分は慰安所など知らなかったが、古い兵隊たちはそんな話ばかりしていた。


1945
89日ロシアの侵攻で重傷

88日の晩、上官侮辱罪(剣道初段で強かった槇原さんが、刺突訓練を本気でやったため、上官に勝ってしまったため)で「夜警にまわれ!」と言われ、3人で兵舎の見回りをさせられた。
89日の早朝、ソ連軍が攻めてきたが、営門の倉庫で寝ていたために命拾いした。

その後ロシア軍戦車の総攻撃で、連隊長はじめ皆が玉砕、壮絶な戦闘だった。槇原さんは左脇の下を負傷したが、3-4人の死体の下敷きになっていて、3日目に気づいたら生きていた。ズボンのベルトのところに血が帯のようにたまっていた。今もその時の戦車砲の破片が、体内に残っている。その後もいくつかの偶然の幸運が重なって、生き延びることができた。

 

220キロの死の行軍
9
2日に牡丹江で、ソ連軍により武装解除。
子ども連れの開拓団のおばさんたちが7-8人やってきて、「朝鮮へ逃げるにはどっちへ行ったらいいか?」と聞かれた。この時に初めて終戦を知った。その後この開拓団のおばさんたちがどうなったかは知らないが、「子どもを連れて行くのは無理だ、子どもを殺せ」などとひどいことを言ったことを後悔している。残留孤児のニュースが出た時に、たまらない思いがあり、新聞に投書をし、掲載された。
捕虜たちは、たいてい貨車でシベリアまで運ばれたのに、自分たちは牡丹江の駅から、綏芬河(すいふんが)の近くのグリデコボ村までの約220キロ(これは大体、箱根駅伝往復の距離)を850人から1000人の捕虜が1週間、歩かされた。まさに死の行軍で200人位が途中で死んだ。

グリデコボ村の仮収容所での越冬
グリデコボ村の仮収容所で翌年の春まで、越冬をした。大きな馬小屋に6-700人が入れられていた。9月下旬の夜は零下20度にもなり、寒かった。食事は12回、うづら豆の茹でたものが少し入ったスープだけで空腹でたまらなかった。死人が出ると皆が、その衣類をはぎ取り、裸の死体だけが倉庫に積み上げられていた。汚いフンドシもマフラー代わりにした。槇原さんは死体運搬の仕事をさせられた。誰も手伝ってくれず、裸の死体を倉庫まで運んだ。零下30度の中、凍えた死体、バラけた死体を一人で運搬した。地獄とはこうした風景か、これらの事実は昨日のことのように記憶しています。余りに悲惨でヒドイものだけに忘れられません。倉庫が一杯になると、死体をソ連軍のトーチカへトラックに乗せて運びました。でこぼこ道で、トラックが揺れる度に死体がこぼれ落ち、野犬が群がってきて食べた。悲惨な仕事だったが、感覚がマヒしてしまい、かわいそうとかいう感情は湧いてくる余裕がなかった。インテリや上品な人たちが先に死んでいった。重労働をしていた人たち、労働者や農民などが生き残った。シベリアで「九死に一生」を得たのは、入隊前にハルピン鉄道工場で、駅伝の選手をしたり、剣道も初段で体力、気力が人一倍充実していたから。人間喰うものがなく、着るものもなく、対寒手段の素は、体格体力と思う。シベリアでの捕虜生活は、ある意味で試練場だった。

3
年間のウオロシロフ第2収容所での生活
その後3年間は、ウオロシロフ第2収容所(現在はウスリースク駅・シベリア鉄道・グリデコボ支線)
近くで過ごした。
ロシア語ができたので、二等兵なのに、生活部長として皆のまとめ役を命じられた。
バザールに行ったり、新京楽団員だった人がいたので、楽団を作ったりもした。越冬時に一人で死体処理作業をしたことで、ロシア軍からは重宝にされ、功労者扱いだった。
槇原さんは、特別に収容所の外に買い物などに行くこともできた。現地のロシア人は皆いい人たちで、良くしてもらった。また、婦人服を作る人(捕虜の中に「仕立て屋」などがいた)を紹介したのが好評で喜ばれた。

1949年(昭和24年)77日舞鶴に帰国

舞鶴で米兵から、「ソ連の飛行場はどこにあるか?ソ連の戦車を見たか?」などと訊かれたが、そんなことは知らない。
戦後は山口県宇部市で35年近く労働組合や平和運動に取り組んできた。現在もあちこちに大学、高校、講座等で「語り部」の活動を続けている。せめてもう一度シベリアに行ってみたいと思い、平成12(2000)に新潟からハバロフスク経由で再訪。ウオロシロフには行くことができた。ウラジオストクから車で約1.5時間ほどで57年前と地形も変わらず、収容所の枠と食堂の跡だけが残っていた。グリデコボ村は柵があって入ることは許されなかったが、草原から歯を3本と肋骨を内緒で拾いポケットに入れて持ち帰った。千鳥が淵戦没者墓苑の大きな木の下に箱に入れて「二等兵戦後処理」と書いて埋めた。

若い人たちへのメッセージ
戦争だけはやってほしくない。どんな小さな兆しでも、許してはいけない。

今もその兆しがあるのではないか。

若い人が風化しつつあるあの戦争の惨事を後世に語り継ぎ、正しく歴史として残して頂く作業には、心から尊敬します。

被害国へのメッセージ
戦争はよその国を盗るーいじめることだ。
(今のようなうっ屈した時代の)はけ口を戦争に求めてはいけない。自主独立で、みんなで生きることを考えないといけない。経済界、特に軍需産業はもうかるから、そのたくらみが心配だ。
+++

槇原さんは、手書きの大きなシベリアの地図や写真など、過酷な抑留生活を説明した「シベリアキット」を用意していて、貴重な抑留証明書などをきれいに保存しています。
槇原さんは戦争体験の他、「ビルマの竪琴」や「キャタピラー」などの戦争の映画の話をして下さり、特に「キャタピラーはすごい映画だね〜」と話されていました。

| 取材-シベリア抑留 | 22:45 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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