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フィリピン・ツアー報告(福林徹)

ルソン島南部バタンガス州バウアンでの住民虐殺事件について

1945年2月28日、ルソン島バタンガス州の町バウアンで、約400人の男性住民が日本軍の命令でカトリック教会に集められた後、近くのバウチスタという有力者の家の地下室に閉じこめられ爆殺されるという事件が起こった。一部の人々は逃げ出したものの、日本兵はさらに銃撃を加え、あるいは銃剣で突き刺して殺害した。その後、日本兵は民家に火をつけて町を焼き払い、教会も手榴弾などで破壊された。



当時、マニラ南方のバタンガス州やラグナ州には「藤兵団」と呼ばれる部隊が配備されていた。「藤兵団」は、秋田の歩兵第17連隊、弘前の歩兵第31連隊の一部(いずれも1944年8月に満州から移駐)、第86飛行場大隊(1944年8月に満州からリパ飛行場に移駐)、第2海上挺身基地隊(「マルレ」と呼ばれるベニヤ板製の特攻艇100隻が、1944年秋にバタンガス湾に配備された)などから成る寄せ集め部隊で、総兵力は約1万2000人、兵団長は歩兵第17連隊長の藤重正従大佐であった。
1945年2月〜3月、米軍がこの地域に進攻して来た時、自暴自棄になった「藤兵団」長の藤重大佐は、ゲリラ掃討を名目に「世界戦史に残る殺戮戦をやれ」という異常な命令を発したと言われ、これにより、ラグナ州のカランバ、ロスバニオス、バイ、サンパブロ、バタンガス州のリパ、タナワン、サンニコラスなど多くの都市で2万5000人にも及ぶ住民が虐殺されたとされるが、バウワンの事件もその中の一つであった。

私は2009年のBFPツアーと今年のBFPツアーで、2回バウアンを訪れたが、その時聞いた住民の証言は、要約すると以下のようなものである。

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●Mr. Montenegro(当時12才)の証言 
〜2009年2月、バウアンの教会にて〜
私の家族は町役場の近くに住んでいた。マニラで衣類をつくって売るビジネスをしていた実業家の父と16才の兄が殺された。父と兄と一緒に教会へ行く途中、私はまだ若すぎるというので追い返された。爆発のあった午前10時頃、驚いて道端の防空壕の中に逃げ込んだ。何が何だかさっぱり分からなかった。夜になって、女や子供が危ないというので町を脱出した。3日後に戻って来たが、父や兄の死体は見つけられなかった。コンクリート造りのバウチスタの家は完全に破壊されて、死体は炭みたいに黒こげになっていた。従兄弟の死体は路上で見つけた。従兄弟は爆破現場から何とか逃げ出したのだが、日本兵に射殺された。

●Mr. Cornerio Maranan(1920年2月2日生まれ)の証言 
 〜2011年2月、バウアンの自宅にて〜
 教会が爆破される前、男性全員が教会に呼ばれた。私も、何も知らずに教会へ行った。午後1時頃、並んで100人ずつ外に出るように言われた。私は何グループ目にいたかは分からないが、全部で400人以上はいたと思う。そこにいた日本兵は多すぎて何人いたかは分からない。
 私たちは丈夫なコンクリートのような家の中に閉じこめられて、ギュウギュウ詰めにされた。上から爆発音が聞こえ、色々な物が崩れ落ちてきた。再び爆発音が聞こえ、家がほぼ崩壊したので、皆逃げようとした。多くの人が銃で撃たれたが、必至で逃げた。逃げる途中、向こうから銃を持った日本兵がたくさん来たので、防空壕に飛び込んだ。日本兵がいなくなると、防空壕から出て逃げた。怖くて、どんなに高い壁でも、とげのついたフェンスでも飛び越えて、あてもなく走った。
当時40人ぐらいが生き残ったが、時が経ち、病気で亡くなった人もいる。
私は爆破事件の結果、耳が聞こえなくなった。2009年に、あなた方が補聴器をプレセントしてくれて本当に嬉しかった。妻は12年前に亡くなり、今は4人の子供が私を養ってくれている。生活が苦しいので年金がほしい。

●Ms. Remedios Valinton(1926年11月16日生まれ)と妹のMs. Beatlice Valinton(1936年5月10日生まれ)の証言
〜2011年2月、バウアンの自宅にて〜
 私(Ms. Remedios)は当時18才で、父母と兄弟9人の家族だった。
 1945年2月、日本軍が18才以上の男性は全員教会に集まれと命じた。女性や子供はバウアンの中央小学校に行くように言われた。
 男性たちは教会の正面のBautistaの大きな家に入れられた。私の父は1944年に亡くなっていたので、私の家族では1人の弟(Marcelino)だけが教会へ行った。彼は18才になっていなかった(16才)が、父親の服を着ていたので、大人と見られたのだ。
 バウアンの町の家はほとんど全部焼かれた。私たちは中央小学校のグランドにいたが、運河や木に沿って走って逃げた。日本兵が道路沿いに大勢いた。当時空襲があったので、たくさん防空壕がつくられており、そこへ逃げ込んだ。
 爆破事件の翌日、現場へ行った。弟を捜したが見つからなかった。本当に悲しく、どうしてよいか分からなかった。
日本軍は、なぜ、こんなことをしたのだろう。当時、私たちは学校へ行く前に、毎朝、日本語の勉強をする時間があった。日本語を教えてくれた日本兵はとても親切だったのだが・・・・。
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 一方、日本の国会図書館憲政資料室には、バウアンの事件を裁いた米軍の戦犯裁判の記録がマイクロフィルムで保存されている(原本は米国国立公文書館所蔵)。この資料は「GHQ国際検察局資料」の中に含まれており、請求記号は「IPS-39」、マイクロフィルムのRoll番号は「31」である。
この、1945年11月に行われた米軍の戦犯裁判での、フィリピン人の被害者の証言を翻訳して紹介する。

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●Mr. Gemeniano M. Brual(バウアン在住、21才)の法廷証言
1945年2月28日金曜日の午前8時頃、町の触れ役が、「教会で集会があるから老若男女全て集まれ」と叫んでいた。私が自宅の玄関口に座っていると、(日本軍の)カイライ市長が私を見かけて、「教会へ行け」と言った。私が「教会で何をするのか」と尋ねると、彼は「集会をする分けではないが、日本の大佐クラスの人が来るらしいので出迎えるのだ」というようなことを言った。それで、私と兄弟たちは教会へ行った。
教会には老若男女全てが集まっており、女性と子供たちは教会内部の右側にいた。その後、日本兵は女性と子供たちをどこかへ移動させ、男性は全員教会の中にとどまった。間もなく、日本兵は長椅子に8人ずつ座るように言った。長椅子は41あり、全部の座席が詰まっていたので、合計328人いたと思う。
さらに、その後5分ほどして、一団の男性が入って来たので、全部で400人ぐらいいたのではないかと推測される。その後、日本兵たちは私たちに1列に並ぶように命じるとともに、身体検査を行った。彼らは私たちが「ミッキー・マウスのお金」と呼んでいる日本の軍票やフィリピンのお金、新しい衣服や帽子を没収した。
身体検査の後、私たちはとても空腹だったが、銃剣で武装した日本兵が警戒しているので、教会の外へは出られなかった。その後、私たちは100人ずつの4隊に分けられて、外へ出るように命じられた。私は最初のグループに属していた。私たちは、教会から90メートルほど離れた所にある、町で一番金持ちの実業家であるSenerino Bautistaの家の地下室に連れて行かれた。Bautistaはミンドロ島へ疎開していて、家は空き家になっていた。地下室は、私の身長158センチの倍の3メートルぐらいの高さだったと思う。地下室の中はとても暗かった。銃剣で武装した日本軍の警備兵たちが外の道路にいるのが見えた。やがて、他のグループも地下室へ連れて来られ、我々はイワシのようにギュウギュウ詰めにされ、日本兵が入口に鍵をかけた。午後1時頃であった。昼食時を過ぎていたので、とても空腹だった。地下室の真上で日本兵の足音が聞こえ、その数秒後に日本軍の隊長が何かを命令し、兵士がバタバタと走り回る音がした。それに続いて爆発が起こり、私は気を失った。
意識を回復した時、私は人間の肉や破片に覆われ、体は傷だらけになっていた。耳、頭、右胸、尻を負傷し、右足に深い切り傷があった。何が当たったのかは分からない。私は血だらけで、半裸の状態になっていることに気がついた。その時、日本兵が手榴弾を投げるのが見え、肉片が飛んで来た。逃げ出した人々に対しては、日本兵は銃撃を加えた。そして日本兵は家の中に入って来て、倒れている人たちを銃剣で刺した。私は死んだふりをして、日本兵が去った後、起き上がった。すると、日本兵が石油の入った缶を持って来るのが見えたので、隣家へ逃げ込んだ。日本兵は死体に石油をかけた。まだ生きている人もいたが、彼らには逃げる力はもうなかった。日本兵が石油に火をつけ、煙が立ちこめ、炎が上がった。母親、妻、子供たちの名前を呼んで泣き叫ぶ声がした。そのようにして全部焼き払われた。
家の外でも人が殺された。私は逃げ出した時、家の外で殺されている人を見た。彼らは銃撃されたか銃剣で刺殺されたのだ。私はたまたま防空壕の一つに逃げ込んだが、そこにも血まみれの死体があった。
教会に集められた400人のうち35人ほどは、たまたま町へやって来ていた人か避難民だったと思う。私の見積もりでは、50〜60人が生き延び、350人が死んだと思う。400人の中には4人の司祭がいたが、3人は殺され、1人が生き延びた。
日本兵は、教会とBautistaの家を監視していた者が25〜30人ほどいたが、それ以外に町全体を監視していた日本兵がいたので、全部で何人になるかは分からない。日本兵を指揮していた将校は、「ハギノ」とか「ハグノ」とかいう大尉だった。
Bautistaの家の地下室には、前面に2つのドアがあったが、ドアには鍵がかけられ、窓は閉じられた。爆発が起こり、私が意識を取り戻した時、ドアは壊れていて、私はわずかな隙間からすり抜けて逃げ出した。家の前面の道路には日本兵がいて見つかるので、家の背後から逃げ出した。爆発の後、2人の日本兵が入って来て、銃剣で負傷者を突き刺していた。私は木の板や人間の肉に埋もれていて、人の体でできた防空壕に入っているような格好になっていたので、銃剣や手榴弾から逃れられたのだ。1人の日本兵が武器を持たず、石油の入った缶を持ってやって来たので、私は逃げ出した。
教会に集められた時、日本兵に協力しているフィリピン人はいなかったと思う。カイライ市長は人々を教会に集合させるのを手伝うなど、日本軍に協力していたが、マカピリのメンバーではなかったと思う。その後、カイライ市長がどうなったかはよく分からない。
町にはゲリラはいなかった。

●医師Mr. Francisco Manigbas(バウアン在住)の法廷証言
1945年2月28日午前9時30分頃、我々は教会へ行った。教会にいる時、日本兵が女性と子供は帰ってもよいと言い、外へ出された。男性は起立して、武器、軍票、その他の持ち物検査を受けた。日本兵は人々の時計や軍票を取りあげた。それから、長椅子に8人ずつ座るように命じた。1人の日本兵(将校かどうかは不明)がカイライ市長に長椅子がいくつあるか尋ねた。市長は41と答えた。彼らは数を数えて全部で328人だと言った。
午後1時頃、日本兵が家へ帰れと言い、100人ずつのグループに分かれて行進した。私は第2グループにいた。ところが驚いたことに、家へ帰るのではなく、Bautista氏の家の地下室に入った。家の入口には日本兵が監視していた。全員が入ると、階上で日本兵が往き来している足音が聞こえ、怒鳴り声がした。その後、爆発が起こり、さらに、もう一度爆発があった。2回目の爆発の後、私は仰向けに倒れていたが、辛うじて起きあがり、外へ逃げ出した。幸い、日本兵には出会わなかったので、生き延びることができた。外へ逃げ出した時、家の内部は床が壊れて、火災が発生しているのを見た。家の中には大勢の人が床の上に倒れていた。
事件の後、私はその家から3キロほど離れた場所にいたが、後に3月28日頃、その家の場所へ戻った。アメリカの大佐から死体を埋めるように言われた。250遺体ぐらいを埋葬したと思う。
私が知っている死者の中にはフィリピン人の司祭が3人いた。彼らの名前はMonsignor Ciliro Castillo、Padre Estanislao、Padre Segundo Isipinである。一般市民としては、Gregorio Contreras、Mr. Castillo、Anselmo Cordero、Sotero Marquez、Pablo Panopio、Severino Brualらがいた。
町にはゲリラはおらず、私もゲリラとの関わりはなかった。
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この事件について、戦後の米軍による戦犯裁判では、藤兵団歩兵第17連隊市村大隊の副官荻野舜平少尉が絞首刑、福岡千代吉少尉が懲役25年、小林一郎准尉が終身刑、最上善一郎曹長が終身刑となっている。ただし、巣鴨法務委員会編『戦犯裁判の実相』(槇書房 1986年復刻)によると、実際の実行責任者は、大隊長代理の武本中尉と小銃中隊長の高橋中尉であったが、彼らは戦死してしまっていたので、上記の人々に責任がかぶせられたとする。
また、その後のフィリピン政府による戦犯裁判で、歩兵第17連隊大隊長の市村勲少佐と副官の尾張三郎中尉が追起訴され、死刑判決を受けたが、後に、2人とも終身刑に減刑され、1953年に釈放された。
日本軍がこのような事件を起こした説明として、『戦犯裁判の実相』は、以下のように記述している。
「この討伐の直接の動機は、当時バウアン街にゲリラ部隊の黒幕若しくは隊長と見なされていたジャズ・パロ以下6名の現地人を兵団長の命令で軟禁していたのであるが、第1回討伐(福林注:2月16日のタール街の討伐)後、身の危険を感じてか逃亡さしてしまった。これが兵団長を激怒させるところとなり、討伐を即日実施して街を焼き払えとの討伐命令が発令された。依りて、大隊は大隊命令に依って、武本中尉を隊長とする討伐隊を編成し、2月29日(福林注:28日の誤り)実施したのである。
この日、バタンガス湾に米艦船侵入し、対岸を砲撃し始めたので、大隊長より討伐隊に速やかに討伐を実施し、陣地に帰還せよとの命令が伝えられた。
当初、隊長武本中尉は、街の住民全部を教会に集め、後、比人間諜をして、ゲリラを選び出させ、その者を処刑する方針でいたが、このように情況の逼迫に依って異常な決心をなさしめるに至った。即ち、大凡怪しい者だけを大急ぎで選び出させ、教会の傍の倉庫に入れ、二階より爆薬を仕掛けて之を爆破せしめたが、爆心点の者だけが斃れ、殆どは逃亡してしまった。」

現在、バウアンの町には事件の舞台となったカトリック教会が現存しており、道をはさんだ向かい側の一画には、戦時中「USAFE」として戦って戦死した町の人々の慰霊碑と、爆破事件で虐殺された人々の慰霊碑が建立されている。爆破事件の犠牲者の名前は約270人が刻まれているが、実際にはもっと多いはずである。これは、必ずしも全員の名前が判明していないことによるものであろう。
事件の証言をしてくださったCornerio Marananさんと、Valinton姉妹については、今回のツアーでご自宅を訪問した訳だが、どちらも現在は幸福に暮らしておられる様子で、多少なりとも救われる思いがした。バウアンの町には、もはや、事件のことを知らない人も多いと思うが、さらに捜せば、もっと多くの証言者は見つかるはずである。戦争中、このような残虐行為が行われたという事実が、現地でしっかりと記録され、語り継がれることを願うとともに、日本人こそが、そのような事実をもっともっと知らなければならないのだということを痛感するのである。

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