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元日本兵取材報告:塚田耕治さん
取材チームの大学生、板橋です。
五月二十五日の元日本兵取材の報告をさせていただきます。


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◎塚田耕治さん(86)
取材日:平成二十三年五月二十五日
所属:東部第五十部隊(松本連隊)第一大隊第一中隊〜決65部隊(九十三師団)経理部
場所:長野県安曇野〜千葉県取手
兵科:歩兵/主計兵
当時の本籍地:長野県



○大正十四年七月二十八日生まれ。

・横浜の青木小学校を卒業後、府立一中を受験したが不合格だったので、親戚のつてを使って慶応商工学校に入学。

・学校には配属将校がいて、代々木の練兵場や多摩川の河川敷を使って軍事教練をしていた。
・当時から教練が戦地で役に立つのか疑問に思っていた。

〇昭和十六年十二月八日、大東亜戦争開戦。

・学校に行く途中に開戦を伝えるラジオのニュースを聞き、ショックで思わずしゃがみこんでしまった。

○昭和十八年四月、慶応大学予科入学。

・各クラスは小隊にわけられており、教練の時に小隊長をしていた。
・一個小隊四十五人で、そのうち約十五人が戦争反対で軍事教練をエスケープしていた。小隊長は出席簿をつけることになっていたが、自分も戦争には反対だったので、エスケープ組に欠席をつけなかった。戦後、そのことで感謝された。
・戦争反対組の中には、ただ遊んでいたいから反対するという人もいた。

・学校の近くにはビリヤード屋と喫茶店が一軒ずつくらいしかなく、娯楽が少なかったので下宿先で麻雀ばかりやっていた。
・部活はボート部、卓球部、音楽部などに所属。音楽部といってもハーモニカ担当だった。

・学徒動員で川崎の軍需工場に勤労奉仕にいかされたこともあった。
・女学校の生徒も同じ工場に動員されていて、一緒に話が出来て楽しかった。

・軍人にはなりたくなく、2年の兵役で帰りたかったので軍隊には志願しなかった。そのことを配属将校に報告したらビンタをされた。

○昭和十九年三月、父親が亡くなる。

・父親は死ぬ前に「アメリカとは財力が十倍違う。負け戦に加勢するな」と言った。それを聞いてからそのことが自分の基本的な考え方になった。

○昭和十九年四月、徴兵検査を受ける。

・徴兵検査官が女性で、裸になって調べられたので恥ずかしかった。
・結果は第一乙。

〇昭和十九年八月十二日、一家で長野に疎開。

・入営の時、母親になにか孝行できないかと思い、村の人が百人くらい日の丸を持って集まっている前で「絶対死なないで帰って来るから」と大声で叫んだ。母親は泣いていた。
・特高警察に捕まる恐れもあった当時、こんなことを叫んだことを自慢に思っている。

○昭和十九年八月十六日、長野県松本市の東部第50部隊(松本連隊)に入営。
【※歩兵第204連隊か?】

・長野県安曇野の小学校を兵舎に使って教育を受けていた。
・安曇野は冬はマイナス二十度になるくらい寒かった。
・飯盒は川に洗いに行っていたが、寒い時期には凍って洗えなかった。
・ある朝、起きたら寒さのために兵隊が亡くなっていた。そのため不寝番が責任を問われ二ヶ月の重営倉入りとなった。

・私的制裁も行われていた。本人のためのビンタではなく、下士官が腹いせにビンタをとった。
・安曇野の住民から食糧をもらうことができた。

・一個中隊は機関銃分隊など四個分隊に分けられていた。
・銃剣で突く訓練や、敵前五十メートルまで匍匐前進をして突撃する訓練、機関銃まで弾を運ぶ訓練を行っていた。
・三八式歩兵銃が配備されており、月に一度実弾射撃訓練があった。十発に一発くらいしか標的に当たらないが楽しかった。

・同じ分隊に朝鮮出身の兵隊が一名いてアリランをよく歌っていた。

・百姓出身の兵隊がいて、軍隊が嫌だという。「指をなくせば帰れるよ」と言うと、その兵隊は対戦車攻撃訓練の時に戦車に飛び込み、戦車の下敷きになった。
・結局その兵隊は指どころか右腕をなくしたが、除隊することができた。

・体温計を毛布でこすって温めてから使い、一週間休みになったこともあった。このときは楽をした一週間ではなく、一週間生き延びられたという感じだった。

・二年の兵役で帰りたかったので幹部候補生に志願しなかったが、しぶしぶ経理学校にだけは昭和二十年の九月からいくことにした。

○昭和二十年五月、部隊が千葉県九十九里浜へ移動。

・列車で安曇野から八王子へ。八王子からは歩いて千葉県に移動。

・決65部隊の経理部に転属となる。
・経理は取手の女学校に置かれていた。
【※歩兵第204連隊(決6665)か九十三師団司令部(決6661)の経理部】
・転属してからは農家から食糧を調達する仕事をしていた。
・調達のために公用腕章をもらっていたのでかなり自由に外出できた。
・当時は男性が少なかったのでもてた。

・九十九里浜には隙間がないくらい多くの兵士が配置されていた。
・戦車豪やガソリンを保管する豪を作ったが、戦車がなかった。後から考えると漫画みたいだった。

・五月の東京大空襲の後に渋谷の友人宅に様子を見に行った事があったが、もはやどこに何があるのかさえ分からなくなっていた。


〇昭和二十年八月十五日、終戦。

・玉音放送を聞いたが何を言っているのかよくわからなかった。ただ「ポツダム宣言を受諾」ということだけは聞こえた。その場にいた下士官は「これからがんばるように」と言っていたが、おかしいと思って本部のあった女学校の人や郵便局の人に聞いて日本の敗戦を知った。

〇昭和二十年九月、復員。

・復員してから同級生と会った。一人だけ戦死していたが、みんなと会えて嬉しかった。
 
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