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12/23 斎藤元雄さん取材報告 パプアニューギニア 苦闘の日々
 練馬区にお住まいの斎藤元雄さんの体験をお聞きしました。

斎藤さんは、1918年(大正7年)生まれで、現在は 93才ですが、90代とは思えないほどお元気でした。お宅には、趣味で描かれた大きな絵がたくさん飾ってありました(健康の秘訣かもしれません)。
制空権、制海権も失ったニューギニア(日本の本州の3−4倍の広さ)で、無謀な作戦を
何度も強いて、大きな犠牲を出したこと。鉄砲玉一発も打つことなく、ほとんどが飢え死にの悲惨さ。無能な参謀たちの机上の空論を激しく批判されていたのが、印象的でした。
+++
1939(昭和14)年9月に現役で宇都宮第59連隊に入隊。
体が小さかったため(155cm)衛生兵として1カ月の初年兵訓練、その後2カ月の
衛生兵訓練を受けて、宇都宮陸軍病院のレントゲン科に配属。

1941(昭和16)年8月に満州へ、2カ月後に広州の広東へ。孫文が作った中山大学が
宿舎だった。12月には日本軍が広州の飛行場から一方的にものすごい爆撃を加えた
「香港戦」に衛生兵として参加(初めての戦闘、歩兵部隊の後方支援)

1942(昭和17)年11月、南太平洋のパラオ(遠方への船の中継地だった)を経由
して要塞の島ラバウルへ。陸軍の飛行場で防空壕を掘れと言われたが、サンゴ礁の
島なので固くて深くは掘れなかった。

1943(昭和18)年11月、2隻でラバウルからニューギニアへ向かう途中、米軍の爆撃
を受け船(ネーブリ丸)は沈没。ライフジャケットを付けて、真っ暗な中を手さぐりで甲板に出た。50m位の高さから真っ暗な海に飛び込んだ。10~13時間泳いだ後に、救助されてパラオに。1カ月滞在、飛行場造りをした。

1944(昭和19)年 2月、ニューギニアに向けて2隻で出発した2回目も、潜水艦からの
魚雷攻撃を受けて1隻は轟沈(50m四方が火の海になった)され、斎藤さんの乗った船も退艦命令が出て、30分後に沈んだ。怖いので船倉に入らず甲板で寝ていたので、逃げることができた、翌日の昼過ぎまで泳いで救助。

3度目はガソリンの缶を一杯に積んだ上に米俵を並べた船だったので、今度はダメか
覚悟したが、ジグザグ航海でようやくニューギニアのウエワク(師団司令部があった)へ上陸。ウエワクの海岸線は、艦砲射撃でやられて木が一本もなく、物資を積んであった所も真っ黒に焦げていた。
ウエワクの警備を命令されていたが、既に食糧はなく、どうやって生きていくか、自活するかが問題だった。 兵隊たちは栄養不足でどんどん衰弱していった。斎藤さんたちは、土人(現地人)から教わって、サゴヤシの木を砕いて晒してデンプンを取り出したり、動くものは何でも食べた。バッタも羽をむしって、火にあぶって口に放り込んだ。青臭かったがそんなことはかまっていられなかった。ジャングルの中を行軍、毎日バタバタと人が死んだ。明日は自分と思うと、倒れても助けたりできなかった。
真偽のほどは知らないが「土人が一人いなくなったとか、兵隊が一人消えた」というような噂もあった。

1945(昭和20)年8月 師団司令部から、最後のご奉公ということで玉砕命令が出た。準備中の2日目に昼は何時も飛んでいる飛行機が飛んで来ないのに気付き、飛行機が落としていったビラで敗戦を知る。終戦確認は8月21日、ようやく一縷の希望が見えた。
オーストラリア軍の捕虜として近くのムッシ島で約5カ月間収容。
ニューギニアの師団司令部には初め17-8万人いたのに、ムッシ島に収容された者は
約15000人だけになっていた。斎藤さんは、皆が嫌がるオーストラリア将校の当番兵
として朝晩使役したが、対等な扱いだった。帰国する時に「靴がほしい」と言ったら、「いいよ、持っていけ」と軍靴をもらった(ジャングルの中の行軍で、靴がズタズタになり、靴がなかったので)

1946(昭和.21)年1月31日に最後の引き上げ船氷川丸で帰国、浦賀に上陸。
斎藤さんのいた中隊250人中残ったのは13人だった。21歳で入隊してから7年間、音沙汰なしだったので、家族はあきらめていたらしい。

若い人たちへのメッセージ:
「戦争だけは絶対にしてはいけない」ということを強く言いたい。
参謀たちは現地を知らないで、無謀な作戦を押しつけてきた。そのせいで
何千名もの兵士が、無駄に死んでいった(ダンピール海峡で約2000名、4000mの
サラワケット山脈越えで犠牲者2200名等)ニューギニアのジャングル内で死んだ兵士の大部分はそのまま。未だに帰還できないでいる。

+++
*斎藤さんは、何度か紙一重のところで幸運にも助かって生きて帰ってくることができた。「薬はほとんどなかったが、それでも衛生兵ということで大事にしてもらえた」と話されていました。また現地の人のことは、「土人」といういい方をしていました。
*また「慰安所」については、パラオやラバウルにはたくさんあったが、
ニューギニアでは、全く見なかったとのことでした。

取材チーム 斉藤由美子
| 取材-南洋諸島 | 23:54 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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