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3/18取材報告【学徒動員で呉に行った女学生 Sさん】
〜親元を離れ学徒動員で呉に行った女学生〜

 

 318日、千葉県松戸市在住のSさん(女性、82歳)の取材に行ってきました。Sさんは、太平洋戦争中に、通っていた女学校から学徒動員で広島県・呉の海軍工廠に派遣された経験を持っています。

 

Sさんは、戦争のことは家族にもあまり話していません。女学校の友人からも、当時のことを話題にするのはやめてほしいと強く言われているそうです。地域で戦争体験を話す機会があったとき、会場の一人から「なぜ今戦争なの」と批判的な口調で問われ、気持ちが沈んだこともあったそうです。自身にとっても、つらい体験を思い出して口にするのは精神的に大きな負担になると思いますが、それでもなお、語ろうとされている姿を目の当たりにして、戦争体験を伝えておきたいという意志の強さを深く感じました。

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 Sさんは昭和4年、島根県・松江の印刷業を営む家に生まれました。小学校3年生の頃に日中戦争が始まるなど情勢の変化は続いていましたが、子どもだったSさんにとって、不穏な空気はほとんど感じられなかったといいます。

 

 そうした暮らしに変化が訪れたのは、女学校1年生の冬。昭和1612月の真珠湾攻撃を境に、学校生活に戦争の影響が出てきました。「教練」の授業が始まり、英語の授業は廃止、女学生にとって楽しみの授業だった創作ダンスもなぎなたの訓練に変わりました。また、兵隊にとられた男性の労力を穴埋めするために丸一日、授業を潰して、農作業などの勤労奉仕に出かけることが増えました。

 

 はっきりとした年は覚えていないそうですが、5月ごろ、記憶が間違っていなければ教員も含め女学校の100人ばかりで、松江から呉へ行くことになりました。「死ぬなら家族と一緒に死にたい。呉になど行きたくない」。Sさんは心の中でそう願いました。女学校の学徒動員者は夜、山陰から山陽に向かう列車に乗りました。無蓋車です。Sさんは、家族と別れた悲しみに耐えようと、ひざを抱えてうつむいていたのですが、ふと顔を上げると月が出ていました。その光景を眺めながら、Sさんは、「頑張ろう」と決心しました。Sさんは、このときの様子を語った後、「一緒にいた友人皆がつらさに耐えていたと思いますが、誰一人取り乱すことはなかった。また十代も半ばの女の子ですよ。あのときの私、皆を、ほめてやりたい」と涙を流しました。

 

 呉では、高台にある寮に入り、海軍工廠の仕事に従事しました。「海軍が必要とする兵器、武器あるいは船を、刻一刻と変わる戦況に対応するように作る」こと、そしてそれらを修理することが、海軍工廠の機能でした。Sさんは、工場が連なる広大な敷地に、連絡事項を流す放送の担当となりました。

 

呉は松江と異なり、海軍の要所だったため、毎日のように焼夷弾の攻撃を受けました。あまりにも頻繁な攻撃に、広島市への原子爆弾投下も、気づかないほどだったといいます。Sさんは戦艦大和も目撃しています。ある日、高台にいて、眼下の瀬戸内海を見ると、戦艦大和が出航するところでした。敵国から気づかれるとの理由で、「目を向けるな」と上官から注意されましたが、関係者が手が千切れんばかりに「帽フレ」をしていた光景が目に入ったといいます。

 

 815日、工場で皆集まってラジオを聴くことになりました。「雑音が多くて、よく聞き取れない」というのがSさんの印象でした。いつもはひょうきんなある工員さんが、「日本は負けたんで!」と厳しい表情で叫んだとき、ようやく事情が少し飲み込めました。先生が回ってきて、日本は降伏したと知らせてくれました。すまないような気持ちと、家に帰れるという気持ちが入り混じったといいます。

 

 数日して家に戻りました。Sさんは玄関で母親から体を洗われました。広島の原爆を心配してのことだったとSさんは言います。呉にいたことから被爆の可能性があったようですが、女学校の生徒のうち、その申請をしたのは当時半数に留まったそうで、親たちに差別への心配があったことがうかがえます。現にSさんの父親も、Sさんに対して「呉にいたことは誰にも言うな」と口止めをしたそうです。

 

 「現代の人に伝えたいことは」と問われ、Sさんは「戦争はやってはいけない」と語気を強めて言いました。「娘から『戦争に反対だったら、当時もそう言えばよかったんじゃないの』と言われたことがありますが、そんなことできる状況ですか」と苦渋の表情で訴えました。ただ、「もし、今また戦争が起こったら、そのときははっきりと『戦争反対』と言いたい」ときっぱりと話しました。

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