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取材報告 中隊長であったKさん
 愛知県の山間部の冨尾(とんびゅう)にお住まいの元日本兵Kさんのお宅を訪問してお話をお伺いしました。

 モノの本によりますと、とんびゅうの語源は別天地とのこと。確かに、山奥に開ける集落は、湧き水も美味しく、コメどころでもあります。昔の旅人には別天地に思えたのかもしれません。集落全体で31世帯。学齢児童や生徒は皆無で、高齢者が住民の大半です。行政の手を入れなければ、廃村になるのは目に見えている山村です。

 そんな村に住むKさんは戦後、隣村から養子に入られました。奥様にも先立たれ、今は長男とのふたり暮らしです。

 1919(大正8)年のお生まれで誕生日が私と同じという奇遇。それだけで話が弾みます。
 
 農学校を出られた後、志願をして昭和13年に豊橋に本部があった歩兵第18連帯に入られ
 ました。陸軍教導学校に入学し8ヶ月間訓練を受けました。陸軍教導学校は、下士官の養成学校でした。
 
 入隊する日は、村中の人たちが村の神社に集まり、入隊を祝ってくれ、戦時中に上げられるようになった花火こそ上がらなかったものの、村中の人が集まり、万歳バンザイの中を送り出されたそうです。
 
 教導学校の訓練は厳しかったものの、しごきの様な扱いはされなかったとのことで、Kさんは同校を卒業すると、名古屋に本部のある第6連隊に転属、第7中隊に配属されました。
 
 昭和15年、南京に本部があった「支那派遣軍第11軍」に配属となり、野戦18連隊に配属となりました。

 Kさんには当時、将来を約束する許婚(いいなずけ)がいました。彼女の兄が他界したことと、Kさんが7人きょうだいの5番目で“穀潰し(ごくつぶしーコメを無駄食いするという意味)”であったことから整えられた縁談でした。戦争が終わるか、一段落したら挙式の予定でした。
 
 会うこともほとんどなく、手紙のやり取りもあまりないまま、中国戦線に向かうことになりました。日本を発つ時は、許婚者が母親とともに連隊にまで会いに来たが、言葉をほとんど交わすことはなかったと言います。

 「今の人みたいに、キスしたりとか、そんなことはせなんだ」と具体的に愛情表現を聞いた訳ではありませんが、その時の状況を話してくれました。お気持ちを聞いても淡々としたものでした。当時は恐らく多くの人が同じ様な考え方をしていたのでしょう。

 現地に到着するなり、その頃は、国民党軍との間で激しい戦闘が行なわれており、戦闘を
 経験することとなりました。

 初めて経験する戦闘も戦友や部下の死も、Kさんは心に深く受け止めることなく過ごしてきたようで、「怖いとか、死を意識するとか、そんなことは思わんかった」と、93歳になっても鋭く光る眼を取材するカメラに向けました。
 
 部下や戦友の死についても「戦闘をやりゃあ、兵隊が死ぬのは当たり前。特別な感情が湧くわけではなかった」とあくまでも“将校の顔”を崩しません。

 恐らくKさんは筋金入りの兵士だったのでしょう。少佐にまで昇進し、約500人の部下を持つ中隊長にまで出世しました。123人の部下を失ったというから、かなりの激戦を経験されているはずです。

 負傷されたようなので、その時の状況を聞きだそうとしましたが、何か心に引っかかるものがあるのか、口にされませんでした。過酷な場面・状況についても多くを語ろうとはしません。

 話の流れから捕まえた敵をどうしたかという話になると、Kさんの口調に変化が現れました。「捕虜収容所?そんなもんはありませんでした」と仰るので、捕虜をどうしたのかと聞くと、途端に「捕虜をどうしたかって?そりゃあ……私は知る立場にありませんでした」とうろたえた表情を見せます。

 しばらくして気持ちを取り直したKさんは、「確か、教育をして見方にしたと聞いております」と言われましたが、何か言い繕った感は否めません。そして、それを話したときは、私に目を合わせることはありませんでした。
 
 終始、感情を押し殺した話しぶりのKさんでしたが、一度だけ感情が顔に表れた時がありました。南京の手前で敗戦の報を受け、命令で連隊旗を燃やしたことを話された時です。

 「悔しくて涙が出ました」とおっしゃられました。その時の虚ろな眼は、印象的でした。

 敗戦と同時に連隊本部や司令本部では大量の証拠隠しが行なわれたと聞きます。連隊長であったKさんもそこに関わったかと思い、「連隊旗の他にも極秘文書とかを燃やされたのですか」と聞くと、「それは本部の連中がやったことで自分たちは関わっていません」と言われた。

 インタヴューを終えると、政治の話がお好きなようで、来る10月21日の岡崎市長・市議・県議(補選)を選ぶトリプル選挙の見通しや、日中問題のことを私に聞かれました。
 
 家の外に出ると、支持する政党の候補者のポスターがあちこちに張られ、家の前の空地には、ご自分の叙勲を記念したり、「中隊訓」を書いた石碑が幾つも建てられていました。
 
| 取材-中国戦 | 20:35 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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