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通信隊員として中国で終戦を迎えた三代川清さん(91)への取材

1月26日、千葉県習志野市在住の三代川清さん(91)にお話を伺ってきました。


三代川さんは昭和186月、召集されました。当時21歳。鋳造の仕事に4年間従事していた元気な若者でしたが、身体測定で、「体格、力の面で他より劣り、軍人としては使えない」(三代川さん)第三乙種という結果が出ていました。そのため、召集の知らせには驚いたといいます。

 

入営のため、相模原にあった中野電信隊に向かいました。中野電信隊は、全5中隊、1000人を超える規模で、最初に試験がありました。電線の敷設工事などを行う「有線」と、いわゆる無線の通信を行う「無線」の二種に分かれており、その所属を決めるためです。無線の技術をすでに身につけている人は無線、それ以外の人は有線に落ち着き、三代川さんも有線に配属されました。

 

3カ月の訓練が終わってもすぐに戦地に赴くことはありませんでしたが、9カ月後の193月、いよいよ外地に出発することになりました。行き先は知らされていませんでした。福岡県・門司港を出て、朝鮮半島の釜山を経由し、約1カ月かけて現在の武漢市などがある華中地方に到着しました。日本軍が制圧した地域だったため、身の危険を感じることは特にありませんでした。

 

配属されたのは、本部から離れた分遣隊。本隊と別の町との間に敷かれた有線の中継地点でした。兵長以下5人ほどの小さな所帯で、"職場"兼生活の場は、中国の民家に間借りした一部屋(6畳ほど)でした。この家には、若夫婦と息子(当時17歳)、おじいさん(同65歳)の4人が暮らしていて、彼らとはたまに一緒に食卓を囲むなど家族的な付き合いをしました。

 

208月、この地で終戦を迎えました。電信隊という性質上、戦況の変化はそれ以前から耳に入っていました。ですから、電話で終戦を知らされた時、「とうとう負けたのか」と落胆することはあっても、驚きはしませんでした。三代川さんがいた場所は、民間人が普通に暮らす地域だったので、食料もあり、大きな混乱はありませんでしたが、それまで和気あいあいと交流していた中国人家族が、「手のひらをかえしたように」(三代川さん)急によそよそしくなったのが印象的だったといいます。

 

2カ月間、その家で待機した後、本隊に合流。兵舎に寝泊りをしていましたが、中国軍から食料などの便宜をはかってもらうため、部隊は交代で労働にも従事するようになり、三代川さんも危険な荷役作業などをこなしました。ただ、食事がぞうすいだけとなるなど栄養状態の悪化で、病気になる人も続出。腕時計などの私物を街で換金し、そのお金で街の飲食店で食事をするなど、何とか飢えをしのいでいました。

 

帰国できたのは21年6月。上海から船に乗り、鹿児島港に上陸しました。帰国を実感したのは、翌日に鹿児島の銭湯に体を沈めた時だったそうです。

 

三代川さんは、「最前線ではなかったから身の危険はなかった。逆に内地の人のほうが大変だったと思う」と戦中の経験を振り返りました。しかし、中国の人たちとの交流が、中国を制圧した日本軍兵士、あるいは負けた日本軍兵士としてだったために、複雑な思いを心に残しているようでした。「中国の人たちに今、伝えたいことは」という質問には明確な答えは得られませんでしたが、「戦争は絶対にやったらいけない」と力強く繰り返す様子が印象に残りました。

| 取材-中国戦 | 08:29 | - | - | pookmark |
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