NPO法人ブリッジ・フォー・ピース(BFP)の公式blogです。
ここに記載される会員もしくは参加者の見方や考え方は、必ずしもBFPを代表するものではありません。
個人の自由な想いを尊重して運営しています。
Copyright(C) 2005-2015 Bridge for Peace All rights reserved.

<< フィリピン・ツアー報告/2013年2月15日〜2月20日 | main | イラク開戦から10年〜戦争の作られ方〜講演会を開催しました! >>
元衛生兵 

   今日、中国戦線で衛生兵であったTさんを取材した。

 Tさんは1923(大正12)年生まれ。幼くして父と母を次々に亡くして叔父の家に預けられた。高等小学校を出てすぐに叔父の農業の手伝いをするようになったが、青年学校への通学を義務とされ、そこで軍事教育を受けた。 

 1943年6月に徴兵検査を受け、半年後には召集されて中国へと渡った。所属は「登11644部隊(本部は南京)」で、蕪湖(ぶこ)で歩兵訓練を受けた後、南京に移って衛生兵としての訓練を受けた。

 蕪湖では、訓練のつらさにひとり寝床で涙することもあったが、南京に移ってからは訓練の内容が特殊であったこともあり、そういうことはなかったとのこと。

 所属した防疫給水部の役割は「飲料水確保」と「伝染病予防」に大きく分けられるが、Tさんの所属したのはどちらでもなく、「培地」を主にやっていたと言われた。

 培地とは、ペスト菌などの細菌を培養して研究に使ったり、「敵方」にばら撒くための細菌を培養すること。「培地とは何ですか」と知らない振りをしてお伺いすると、ポロリと役割を口にしてしまわれた。ただ、自分の役割は違うと念を押されたが、目が泳いでいたように感じた。

 ご家族が同席していなければ、告白しやすいように誘い水を向けることも可能だったが、娘さんが「父から戦争の話はきちんと聞いていなかった」と言われていたので、今回は遠慮した。元日本兵の多くは告白できずに心の傷を抱えたまま老後をむかえているだけに(私が危惧している状況ならば)Tさんの「心の澱」は吐き出させてさしあげたかった。

 所属する部隊の駐屯地から銃砲弾の音は聞こえたが、実際に戦闘に巻き込まれることは一度もなかったそうだ。

 終戦間近になって上海で下士官教育を受けていたが、訓練期間の満了を迎える前に「8月15日」が来た。玉音放送は、その内容をすべて把握したわけではなかったものの敗戦した事実は理解できた。ほっとして、「これで日本に帰れる」と戦友と共に喜びを分かち合った。

 武装解除を受けた後は約10ヶ月間、中国側の防疫面の協力をさせられた。そして、1946年6月に船で九州博多に戻った。奇しくも日本を出た時と同じ港だった。

| 取材-中国戦 | 23:48 | - | - | pookmark |
CALENDAR
S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
<< June 2018 >>
LINKS
RECOMMEND
私たちが戦後の責任を受けとめる30の視点
私たちが戦後の責任を受けとめる30の視点 (JUGEMレビュー »)

BFPとしても2章書かせて頂いています。ご覧頂けると嬉しいです。
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
PROFILE