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戦争体験取材報告 仙台空襲
 取材日:812日 取材場所:仙台


 「仙台の街が空襲の火の手で真っ赤に染まり、死体がゴロゴロと転がっていました」。仙台の戦災復興記念館で、194579日から10日かけて起きた仙台空襲を語り継ぐボランティアスタッフをなさっているKさん(81歳)に、空襲の悲惨さをお聞きしました。


 1933(昭和8)年330日、大阪阿倍野で10人きょうだいの7人目として生まれ、小学2年で名古屋に引っ越しました。


 小学6年まで名古屋千種の小学校に通ったKさんは、「小学生の頃は、少年航空兵に入り、15歳で特攻隊に入ると思っていた。純粋な少年だった。死に体する恐怖はなかった」と当時の気持ちを明かしました。


 戦況が悪化した昭和205月頃、仙台青葉区の西公園近くに疎開。父親の会社の社宅で暮らしました。


 米軍機による仙台空襲は79日夜から10日未明にかけてでした。


 79日夜9時ごろ、警戒警報が鳴るも30分後には解除されたといいます。


 ですが、710日未明、「ザーン」という焼夷弾の音で、寝ていたKさんは飛び起きました。


 すぐに疎開先の家から50メートルの防空壕に入り、2時間ほど続いた空襲が終わるのをじっと待ちました。


 警戒警報が解除され、燃える家に近づこうとしたが、近寄れませんでした。疎開先は高台だったため、真っ赤に燃える仙台の街が見えたそうです。


 この空襲で約1500人の住民が亡くなられました。


 空襲から2、3日後、トラックやリアカーで山積みにされて運ばれる遺体を見ました。遺体は、手足が焼け落ちて、胴体だけになっていたといいます。


 近くにあった火葬場は、16基ほど。遺体すべてを火葬場で焼くわけにはいかず、遺体は川辺で焼かれたといいます。


 Kさんは、「その時に数多くの死体を見すぎて、死体に慣れてしまいました。その後、家族の死体を見ても何とも思わなくなっていた」と衝撃への慣れの怖さを語りました。


 Kさんは、空襲の語り部として、地元の小中学生に戦争のことを話す際、「あたたかいこころ」を持った人間にならないといけない、と話すそうです。


 「あたたかい」の「あ」は「あいて(相手)」の「あ」です。相手のことを考えられないと、残るのは「たたかい」だけ。なぜ戦争が起きるのかといえば、この相手を思いやる気持ちがなくなってしまうからです、と子どもたちに話すと、みなさん頷いてくれるといいます。


篠塚辰徳

| 元日本兵インタビュー&交流 | 16:30 | comments(0) | - | pookmark |
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