Sさんは、7人きょうだいの末っ子として、1934(昭和9)年4月11日に生まれました。45年、和歌山市内の雄国民学校に5年生として通っていたSさんは、空襲に備えて学校で防火訓練をしていましたが、「訓練ではバケツに水汲んでやっていましたが、そんなもの実際できたものじゃありません」と空襲の凄まじさを振り返りました。
空襲警報は9日深夜に発令され、Sさんは家族そろって紀の川に避難しました。「家の近くの防空壕なんか役に立ちませんよ。焼夷弾が落ちたら焼き殺されます。私たちは紀の川(の防空壕)に逃げたから助かった。でも、和歌山城の堀に逃げた人達は全滅だった。堀の水が暑くなったり、城壁が壊れたりしたからでしょうね」。これが生死の分かれ目だったといいます。
「紀の川の防空壕には夜明けまでいました。(壕の)中には40から50人くらい入っていたと思います。大人はお経を唱え、子どもは泣いていました。壕の中にはトイレがなく、その匂いと騒がしさは地獄のようでした」
翌朝、Sさんたち子どもたちは市内を散策しに出かけました。「和歌山城の周りには死体がゴロゴロしていました。気持ち悪く、怖かった。なんて表現すればいいかわかりません」「死体はすみ人形のように完全に真っ黒で、触ればすぐにボロボロと崩れそうでした。手足のない死体もいっぱいありました」
空襲から3、4日後、Sさんたち家族は母方の親類を頼って、愛媛県の大三島に疎開しました。終戦はそこで迎えました。「戦争に負けてよかったと思いました。これでもう逃げなくて済む、爆弾が落んでも済むと思いました。」
Sさんが、空襲時に肌身離さず抱えていたものがあります。三省堂の国語辞典です。「戦災前から自分のものとして残っているのはこれだけです」。Sさんはそれを家宝にしています。
それほど知的意欲があるSさんは、戦後の新聞を切り抜いたり、平和関連の文献を揃えたりしています。「中学2年と小学5年の孫がいますが、この子らを絶対に戦争に行かせないための資料です」
お孫さんを戦争に行かせたくないというSさんは、今の政治に強い怒りを抱いています。
「極端に右傾化している今の状態はけしからん。これは止めなければいけない。戦争というのは人を殺すもの。この基本的なことを問い直さないといけない。戦争になったら何にも得るものなんてない。(安倍政権が進める)集団的自衛権容認に対して、若い人はもっと怒らないといけない」
現在、Sさんは自宅で家庭菜園をしており、トマトやきゅうりといった夏野菜でいっぱいでした。「空襲があった後の記憶は、空腹です。食べるものが何もない」「家には妻と私の2人だけですが、大型冷蔵庫が2台もあるんです。菜園も冷蔵庫も、戦後のように食物に困りたくないという本能的なものでしょうかね」
*写真は、空襲時にSさんが抱えて逃げた三省堂の『広辞林』と和歌山市の地図
篠塚辰徳