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元日本兵取材報告 中国戦線
取材場所:岡山県倉敷市茶屋町
取材日:830 

足手まといのために殺された初年兵、早く殺してくれと叫ぶ捕虜の姿、民間人を強姦した末に殺した古参兵など、壮絶な戦争中の記憶を持つ90歳のTさんに、当時の生々しいエピソードを伺いました。

訓練を終えた第3中隊の記念写真を見るTさん

*入隊していた第3中隊の集合写真を見るTさん

●航空兵への憧れ

 1923(大正12)年1230日、岡山県茶屋町で生まれたTさんは、4人きょうだいの長男として育ちました。国民学校をと高等学校を経て、国鉄に入社しました。


 「国のため、天皇のために敵陣に突っ込んで死ねる。そう洗脳されていました」。国鉄での勤務から3年が経ち、Tさんは岡山県内の陸軍師団長に手紙を書きました。「小指を切り、血文字で航空兵になりたい」との願いを伝えました。しかし、航空兵には年齢制限があったため、東京の航空機製造会社での部品造りを紹介されました。


 1944(昭和19)年11月、当時20歳のTさんの元に召集令状が届きました。その後、岡山10連隊塁第1477部隊独立歩兵第246大隊第3中隊への入隊が決まりました。直前のTさんは、日本の平和をイメージした絵を描き残して出兵しました。そこには、赤ん坊を抱っこした父親と、笑顔で2人に駆け寄る母親の姿がありました。

 入隊前にTさんが書いた「平和」と題した絵

*写真:入隊前にTさんが書いた「平和」と題した絵

●過酷な訓練で自殺

 Tさんは、1945年の正月ごろ、中国の山西省高平(コウヘイ)で1カ月の訓練を受けました。記憶に残っているのは、Tさんは機関銃を使った3連転射です。「5発だと2発多いと言われて2回殴られる。2発だと1発少ない、と1回なぐられる」。上官からの殴る蹴るといった暴力に耐え切れず、トイレで首吊り自殺をした同年兵もいました。「遺書なんか残せません。そんな余裕もなかった」

 

●味方に殺される初年兵

 行軍中には、体調不良や栄養失調などで、歩けない初年兵もいました。そのような兵士は、Tさんたち初年兵がロープで胴体を縛り、引っ張って行軍を続けました。しかし、引っ張って歩くのも困難になると、「捕虜になったら情報が漏れる」「足手まといだ」として古参兵の手によって銃殺されたといいます。「人間扱いではなかった」とTさんは憤ります。

 

●「殺してくれ」と叫ぶ捕虜

 中国軍との戦いでは、「捕虜を何人も捕まえて折檻した」といいます。「逆さにして木に吊るして、水責めをするんです。殴ったり蹴ったりもしました」


 「最後には、初年兵に『殺すものはいないか』と上官が聞いていました。私の同年兵が、捕虜の胸を目掛けて銃剣を突き刺しました。でも胸にはよう入らんのです。捕虜となった中国兵は、『カイスラー、カイスラー(殺してくれ)』と叫んでいました。ですが、肩に刺さった銃剣はなかなか抜けません」


 「見かねた上官が捕虜の首を切って殺しました。抵抗しない者、しかも何の恨みもない人間を相手に殺すのは難しいですよ」

出兵前の家族写真。前方左から2人目がTさん

*写真:出兵前の記念撮影。前方左から2人目がTさん

●「命令に従うほかなし」

 Tさんの戦争体験の中でも、今でも心に残っている印象的な場面があります。同期の初年兵2人と古参兵と一緒に部落を襲撃しに行ったときのことです。


 部落に行くと、地元の風習で足が大きくならないようにする纏足(てんそく)の女性や、おばあさんを介護するために残った若い女性が部落に残っていました。


 襲った家の中で、若い女性を見つけた古参兵は、Tさんたち初年兵3人に「女を真っ裸にしろ」と命じました。近くにいた娘の母とみられるおばあさんが「私にしてくれ」と頼み込みましたが、「何を言われても上官には反抗できない」と、Tさんたちは裸にした若い女性と古参兵を民家に残し、外に出ました。


 しばらくすると「ギャー」という唸り声が聞こえました。娘を強姦した古参兵は、銃剣で刺殺したのでした。部屋から出てきた古参兵は、「そのばあさんも殺せ」とTさんたちに命令しました。「黙って従うほかはなかった」といいます。


 Tさんたちは、娘と母を民家の中に残し、油をまいて火をつけました。燃える民家の中からは、瀕死のおばあさんが這って出てきました。上官はTさんたちに再び火の中に投げ込むように言いました。1回、2回と燃える家から這い出てくるおばあさんをTさんらは「火の中に放り込みました」。3回目はありませんでした。


 「上官の命令には何があっても服従すべし、というのが日本軍の軍規としてあった。何を言われても反抗できません。命令に従うほかはないのです」

 

●復員

 戦地で虫垂炎(盲腸)にかかったTさんは、1945(昭和20)年2月に暗号兵としての教育を路安(ロアン)で受け、第3中隊に復帰しました。それから半年後、終戦の知らせが高平に移動したTさんたちに届きました。


病状が悪化していたTさんは、盲腸の手術を楡次(ユジ)の陸軍野戦病院で受けました。その後、天清(テンシン)の陸軍病院に搬送され、病状が回復した19463月末に高砂丸で復員しました。 


 「戦争だけは絶対やるもんじゃない。勝っても負けても、国民はいろんな悲惨な目に遭って困る」「戦争中は(上官の)言われるがままで、自分の意思はなかった」。Tさんは戦争中の当時を振り返って、このようにまとめました。


「(日本軍は)毎日、討伐と称して窃盗や強姦と部落に行ったら好き勝手なことをしていました」。今は強制連行の従軍慰安婦が問題になっていますが、「日本軍は書類を全部燃やしていて、証拠はありません。ですが、やっているはずです。当時の日本軍の権力といえばすごかった。想像ですが、強制連行は明らかなことです」



篠塚辰徳

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