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ただ感じるだけでなく、もっと深く考えて向き合うフィリピン(金子聖奈)
今回のフィリピン訪問は、個人としては4回目、BFPとしては2回目。フィリピンを訪れることはそれなりに数を重ねてきたが、フィリピン出発前夜は、不安で全く眠れなかった。去年BFPとしてフィリピンを訪れたときの私と、今の私では、何か変われただろうか。いや、去年あんなに貴重な経験をさせてもらったはずなのに、何にも成長できていない。これでは、去年お世話になった人々にあわせる顔が無い。そう考えていたら、寝付けなかった。
今、帰国してしばらく経ってしまったが、フィリピンでの日々を考えていると、フィリピンで出会った人々や物事が自分の中で大切すぎて、とても苦しくなるし、切なくなる。主観的な書き方になってしまうかもしれないが、振り返ってみようと思う。

(1日目、2日目)
まずバタンガス州リパ市のアレックスさんを訪ね、再会すると、とてもにこやかな笑顔で迎えてくれた。アレックスさんは、私がBFPに関わるよりもずっと前からBFPと交流を続けてくれている人。そして、幼いころ、日本軍によってお父様と従兄を銃剣で刺された上に井戸に投げ込まれ、虐殺されてしまった人。この井戸には今回も訪問できたが、鬱蒼と茂るバナナ林の中にあるので、そんなところに井戸があるのかと俄かには信じがたく、このままではやはり記憶が風化してしまうと思った。慰霊碑建設のプロジェクトが大きな一歩を踏み出せたのは、とても喜ばしかった。
アレックスさんの体調がとても悪そうで、アレックスさんの口座にクライドファンディングで集めた資金を入れてもらったが、そのときの様子を見ているととても辛かった。無理をしないで休んでほしい、と心から思った。私が泣きそうだった。しかし、今年進めなければプロジェクトの実現が遠のいてしまうかもしれないので、またこんどにしよう、とはできなかった。慰霊碑建設のため―つまりは、BFPとアレックスさんが共有している平和への思いを実現するため。だから、私たちが無理をさせている面もあるのに、アレックスさんは、苦しそうにしながらも駒を前に進めてくれた。これはアレックスさんの大きな自発性がなければ実現しなかったことだと思った。アレックスさんの「慰霊碑建設のために」という目的には、おこがましいけれど「BFPのために」という気持ちもきっと含まれているのではないかと思う。体調が悪いなか無理をしてまでその計画を進めてくれたことは、長年BFPがアレックスさんと、ひいてはフィリピンと向き合い続け、信頼関係を築き上げてきた人々の、努力の結果なのではないか、と切に思った。私はまだBFPに関わりはじめて2年ほどしか経っていない。過去にこの関係性を築き上げてきた人々の努力に、そして向き合ってくれたアレックスさんをはじめとするフィリピンの人々に対する気持ちは、感謝したいと言うものなのか、感銘をうけた、とあらわすべきなのか……どんな言葉でも薄っぺらくなってしまう。それほどに心が動いた。これからは私もその一端を担い、貢献することができれば、と強く思った。


(3日目)
バウアンという、住民をすし詰めにし、虐殺したという現場の教会を訪れ、ランディさんと再会した。ランディさんは相変わらずの笑顔で私たちを迎えてくれて、とても嬉しかった。去年と同様、教会の内部や隣接されている学校まで案内してくれて、教会や学校の歴史に、日本という存在が負の形で組み込んでいることを実感し、とても複雑で、悲しい思いになった。
教会での虐殺からただ一人生き残った、コルネリオさん(95)を訪ねることができた。去年は、ここで泣いてしまったな、と回想した。去年はしっかりとした口調ではなくても、ご自身の体験を身振り手振りで話してくれていたが、今年はそれもあまり語れないようだった。それでも、元気そうににこにこ笑っている姿や、「ナオコの友達なのか!そうかそうか!」と喜ぶ様子を見て、嬉しく思った。日本の学生になにを求めますか、と質問したら、「Know what happen before, and take PEACE」と答えてくださった。それだけで十分だった。
ランディさんは、今後はご両親の介護のためにアメリカに行かれるとのことで、BFPを案内できるのはこれで最後になってしまうかもしれない。別れはとても悲しかったが、今後BFPを案内してくれるという方を紹介してくださり、こうやって交流が続いていけば、平和のひとつの形としてよいのではないか、と前向きに考えた。私だってニューフェイスの一人なのだから。先に交流した人々の思いに共鳴して、後に続く人が同じように平和を築こうとしていけば、それが続いていけば、それでよいのではないか、と思った。
ランディさんとの別れを惜しみながら、夕方にバウアンを出発し、マニラへと向かった。

(4日目)
ケソンシティにあるミリアム大学で、淺川先生がワークショップ授業を行った。30分のBFPの証言ビデオを見てもらったあと、質疑応答の時間が設けられた。そこで、ほとんどの学生がとても関心を持って質問をしてくれた学生の様子が印象的だったが、やはり関心のない様子で、ずっと眠っている学生も何人か見られた。立場を逆にして考えれば、私たち日本人学生のほうも歴史や戦争に関する授業に関心がない生徒がたくさんいる。実際、そのような授業を履修しているにもかかわらず「そんなの学んでどうするの?経済や経営についてのほうがよっぽど役に立つ」と実際に口に出しながら、授業中は寝たり、内職をしていたりする日本の学生を思い出した。
私が誰かの関心のありかについて意見することはできない。しかし、フィリピンでそういった場面に接したことで、改めて記憶の風化の問題や、日比両方の若い学生の問題意識が問われるのではないか、と思った。

(5日目)
コレヒドール島のツアーに参加した。コレヒドール島には行ってみたいと何度も思っていたので、念願が叶って嬉しかった。要塞のあとや、日本軍の小隊が集団自決した地、日本兵の慰霊の場所、日本軍が玉砕の前に爆破したマリンタトンネルなどを巡った。痛々しい砲弾の跡が、戦争のすさまじさをリアルに感じさせた。ここでの悲劇を考えながら戦跡を目の当たりにしていると、ツアーが進むごとにだんだん気持ちが苦しくなってしまった。
最後のほうに、日本軍の慰霊の碑や観音像などがある場所を訪れた。そこで、一枚の布に、血で中央に日の丸を描き、その周りにからかさ連判状のように名前を書いたものが額に入れられて保存してあった。ツアーガイドさんが、中央の赤く染まった丸を指さし、「血で染められている」と説明したとき、外国人の小さな子どもが「Is this really blood? Funny!」と叫び、ジャンプしながら赤い丸に必死に触ろうとしている無邪気な様子を見て、何故だかわからない、どうにもやる瀬なくなってしまった。ほかのツアー客がその場から離れても、しばらくその場から動けなかった。しまいには、涙が止まらなくなってしまった。
 名前と年齢を記した都道府県ごとの慰霊碑や、震洋の部隊の慰霊碑など、たくさんの碑が建てられていた。彼らの中には、16歳や17歳で亡くなった兵士もいた。それを見るたびに、胸が痛んだ。私は、彼らは戦争がしたくてしたのではない、フィリピン人を虐殺したくてしたのではないということを知っている。しかし、今でもフィリピン人のなかの苦しみは消えていない。また、歴史の語られ方はいつも勝者の目線である。コレヒドール島で亡くなった兵士に注がれる視線は一方的に冷たいこともあるし、私たちもそれに似た不寛容な視線を、自国・他国を問わずに対して向けている。玉砕の前に、一枚の布に血で日の丸を描いた兵士の気持ちは、たぶん、その冷たい視線の対象にあったかもしれない。(先述した子どもがそんな視線を持っていた、と言いたいのではありません!)
私たちは、お互いに分かり合えるようで、まだまだ分かり合えないと実感した。そのときの私の涙は、やるせなさと悲しさだったと思う。


 (5日目)
この日はメモラーレ・マニラの式典に参加した。昨年お会いしたロチャ夫人と再会することができ、嬉しく思った。今回は式典に初参加でありながら、BFPとしてスピーチをすることになり、とても緊張していた。難なくスピーチを終えたあとは、司会者の方をはじめ、フィリピン人、日本人、老若男女を問わず、たくさんの方が声をかけてくれた。4月のバターン行進の慰霊祭にも招待していただいた。大学の授業があるので参加は叶わなかったが、こうしてコミュニティが広がり、人と人とが繋がり、平和が実現していくのかもしれない、と思った。


その後、淺川さんと杉原さんは帰国の途につき、私は一人バギオに向かった。そこから、さらにジープニーで4時間、カパンガン州ポキン村に訪れた。そこは、周辺にサリサリストア1件しかないような村である。ここに住む志村朝夫さんには懇意にしていただいており、数日そこで過ごした。そこで、とても貴重なものを見せてもらった。一昨年、川で発見されたという、日本兵の九九式狙撃銃だ(同時に頭蓋骨も見つかったそうだ)。錆びついていてもちろん弾は入っていない。おそらく、この周辺で飢餓によって死んだ日本兵の遺品だろうと見ている。その銃に触れた時の感覚は、今でも忘れられない。拾った村人に、どうか大切に保管してもらえるよう頼んだ。
この村やバギオでは、「あの屋根の下で日本兵の頭蓋骨が3つ見つかった」とか、「自分のおじいさんはゲリラと誤認されて殺された」とか、いろいろな悲しい話を聞いた。私は、偶然に狙撃銃に実際に触れるチャンスがあったことや、そういった出会いなどを考えると、よくわからないけれど「何かに導かれている」と大真面目に考えてしまった。
BFPで出会った人や、訪れた地域だけではない。フィリピンには、それぞれの地域にまだ「戦争」が爪痕を深く残していると実感した。視野を狭めることなく、自分がやっていることに100点をつけず、まだ知らない思いや知らない事実があることを自覚しなければならないと思った。


また、最後にもう一つ。
私は、アレックスさんのことが本当に大好きだと思った。彼の優しさや、思慮深さに本当に感動していた。そして、苦しそうなアレックスさんを見て、不謹慎だけれども、あえて正直に書きたい。彼もいつかは死んでしまうのだ、とハッとした。そしてその時、私は深く悲しむだろう、と思った。大泣きするかもしれない、と。
けれど、私がアレックスさんと出会ったのは、アレックスさんが幼いころ悲惨な経験をしたからだ。悲しく苦しい経験を、私たちと同じ日本人がさせたからだ。アレックスさんがもしそんな辛い経験などせずに済んだなら、私は大好きなアレックスさんには出会わなかった。皮肉なことだ。私たちの出会いは、アレックスさんの経験なしには語れない。ではどうしたらいいの?この問いに対する自分なりの答えは、まだ出ていない。

私は、BFPがアレックスさんを始め、フィリピンの人々とどのように向き合い続けてきたのか知る必要があると思い、フィリピン訪問に関する過去の公式ブログすべてに目を通した。そこで、パガオの慰霊碑建設や、メモラーレ・マニラへの参列、そしてBFPが関わりを持ったフィリピンの方々との関係が、どのような経緯で始まったのか、どのような努力によって進んできたのか理解することができた。たくさんの人が、それぞれの切なる想いを持ってフィリピンツアーに臨んでいたことを痛感し、感謝の気持ちが尽きない。

ほかにも、今回のフィリピンではやっとお酒が飲めた!(この前の12月に20歳になったので…)昼間の活動を終え、フィリピンでサンミゲルを飲みながら淺川さんや杉原さんといろいろお話するのは、とても楽しかった。それに、ランディさんと共にしたランチも楽しかったし、UPマニラのバーナード先生が連れて行ってくださったお店のパンシットは、本当に美味しかった。それらも、とても良い思い出である。

そして、ツアーを組んでくださった直子さん、フィリピンでたくさんのことを教えてくださった淺川さん、一緒に学びを共有してくれた杉原さん、スピーチ原稿を校閲してくださった伊吹さん、スピーチの一部をタガログ語に翻訳してくださった潤間さん、関わってくれたすべての皆様、本当にありがとうございました。そしてフィリピンで出会った大好きな人たちにも、Maraming Salamat sa inyong lahat!
| フィリピン訪問レポート | 17:17 | comments(0) | - | pookmark |
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