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出会いの豊かさのなかで(刀川和也)
 2018年2月6日〜11日、BFPフィリピン・スタディーツアーに参加した後、私は3月2日までフィリピンに滞在していました。インディペンデントのドキュメンタリー映画製作者である私は、これから撮りたいたいと考えているドキュメンタリー映画のフィリピンでの足掛かりをつかみたいと思っていたからです。帰国してしばらく時間が経ちましたが、あらためて「BFPのツアーに参加してよかった!」と心から思っています。何がよかったのかというと、人との出会いです。その貴重なお一人お一人との出会いを書いていくとかなりの字数を使ってしまいそうです。なので、今回のフィリピンツアーを通してもっとも多くの時間を共にし話をさせていただいたチト・エネロッソさんのことを中心にご報告します。

チトさんはバタンガス州バウアンの爆殺事件の犠牲者の遺族です。彼の祖父が第二次世界大戦末期、この事件で旧日本軍によって虐殺されました。BFPが製作した冊子「Unforgettable Voices」を読み、チトさんにとても興味を持っていました。その冊子のなかで、チトさんは以下のように語っています。

 「…侵略者らによって同朋に対してなされた残虐行為を、私たちは赦さなければなりません。忘れるのではありません。それは私たちが、少数派の人々や絶対的な権力に疑問を呈する人々に対して一部の力ある者が無意識のうちに行う、同様の残虐で無慈悲な行為を繰り返さぬよう、学ぶためです。そうすることによって私たちも、異なる意見や批判を戦争することによって沈黙させるのではなく、反対する者たちを殺害するのではなく、偽りを暴露する人々の命を奪うのではなく、彼らに敬意を表することを学ばなければなりません。そうすることによって国としての癒しが実現し、私たちも自らの弱さを謙虚に受け入れ、憎しみと怒りに駆られて同朋に対して犯してしまったかもしれない過ちを進んで改めることができるのです。そうすることによって私たちは最終的に、自己破壊的な憎しみと怨念のサイクルを絶ち切る方法を学ぶことができます。…」

いま日本に生きる私たちにリアリティーをもって迫ってくる言葉に思えました。
溢れるヘイトスピーチ。北朝鮮への脅威や憎悪が煽られるばかりで好戦的な雰囲気が醸成される社会。また、「森友問題」に象徴されるような偽りに満ちた傲慢な政治家の真摯さのかけらもない言葉と政府の市民をみくびった不遜な対応。過去の戦争から学ぼうとするチトさんの言葉が、私たちが生きるいまの社会の問題への警鐘として重く胸に響いてきます。チトさんがどのようにしてこのような考えを持ち得るようになったのかを知りたくなりました。



 死者を記憶し追悼する日である11月1日、チトさんのおかあさんは毎年彼を連れてマニラ近郊にある「フィリピン無名戦士の墓」を訪れ、ロウソクを灯し、お祈りを捧げていたそうです。亡くなったおかあさんの前夫、ギレルモ・ルマインさんの慰霊のためでした。ギレルモさんは戦中、米比軍の情報部員としての任務遂行中に日本軍に捕まり、そのまま行方不明となったままなのです。当時、チトさんのおかあさんは次女を身ごもっていました。「夫が日本軍に捕まった」という情報だけが届き、でも、どうすることもできず、日本軍から逃げ回りなんとか生き延びて出産します。夫の行方もわからないまま、その喪失の念にさいなまれたおかあさんは数週間寝たきりになってしまいます。生まれたばかりの女の子をおかあさんは育てることはできず、次女をお姉さんに託すことにしました。その後、おかあさんが次女を引き取り、一緒に暮らし始めるまで13年間もの時間を要しました。それは、ちょうど、チトさんのおとうさんとおかあさんが再婚するときのことでした。




 毎年、おかあさんは「フィリピン無名戦士の墓」にチトさんと一緒に訪れながらギレルモさんのことをチトさんに口にすることは一切なかったといいます。チトさんがギレルモさんのことを知ったのは、お姉さんを育てていたおばさんが教えてくれたからでした。
 ギレルモさんの死の真相は闇の中ではありますが、チトさんは二人の犠牲者の遺族なのです。前夫を日本軍に拘留され殺された(であろう)おかあさん、そして、バウアンの爆殺事件で父親を殺されたチトさんのおとうさん。この両親のもとにチトさんは生まれ育ったのです。ふたりは優しく、常に愛をもって接してくれたとチトさんはいいます。だけど、チトさんが子どもの頃、最愛の両親はけして良好な関係ではなかったそうです。なぜ、ふたりは関係を良好に保つことができなかったのか。けして癒されることのない傷を背負い続けていたおかあさんとおとうさんの心の内を考えざるを得なかったとチトさんはいいます。このことが、チトさんが過去の戦争に向き合い、平和のための運動を始めていく原点になっているのです。



 チトさんに「フィリピン無名戦士の墓」に連れていってもらいました。チトさんのおかあさんの心のなかにずっとあったもの、忘れることも癒されることもなく背負い続けていたものをチトさんと一緒に想像してみたかったのです。チトさんはおかあさんが亡くなるまで持ち続けたギレルモさんへの深い愛を感じると言っていました。その分、チトさんのおとうさんは複雑な感情を抱かざるを得なかったのかもしれません。ふたりが胸に秘めた痛みをみつめ理解しようとしているチトさんもまた沈痛な面持ちになっていました。戦争の傷あとは73年近くたったいまも消え去ることなく引き継がれているのです。



バタンガス州、バウアンでの虐殺によって殺された人たちが眠る共同埋葬場所は広い墓地のなかの片隅に埋もれるようにありました。そこには、チトトさんとともに3度訪れました。1度目はBFPのツアーのときです。目に飛び込んできたのは悲しい光景でした。十字架のまわりに墓碑としてのプレートが埋め込まれた小さな敷地、その下には数百、もしくは数千もの犠牲者が眠る共同埋葬場所は、まわりに新たに建立されたお墓に詰め寄られ、土砂が覆いかぶさり、プレートが土に埋まってしまっているものもありました。バウアンの人たちでさえもその場所がどんな場所なのか知らないのかもしれません。



2度目に訪れたとき、チトさんは私費を投じて埋葬場所を清掃し、補修することにしました。虐殺があった2月28日までに間に合うように補修作業者に依頼されました。
3度目はバウアン爆殺事件の記念日の2月28日。犠牲者遺族のひとり、ヘルミロ・モンテネグロさんをともなってチトさんと一緒に埋葬場所を訪れました。ヘルミロさんはBFPのビデオ映像のなかで「戦後、トラックで移送される捕虜となった日本軍兵士に向かって石を投げた」と証言されていたミラグロスさんの弟さんです。共同埋葬場所は土砂を取り除き、まわりをコンクリートで固められていました。それまで土砂に埋もれて隠れていた墓碑プレートも数枚見つかり、そのなかに5歳と3歳時に殺された二人の女の子の墓碑も含まれていました。ヘルミロさんは「おそらく銃剣で刺殺されたんだろう」と悲愴な面持ちでつぶやいておられました。



 私が立っていた場所、その下には個別の名前を持ち、家族がいて、虐殺されるまでそれぞれの人生を生きていた夥しい人たちが眠っています。その現実を実感をともなって想像することは簡単なことではありませんでした。73年に及ぶ時間のせいなのかもしれません。ヘルミロさんは墓碑に書かれた名前をお一人お一人口にしながら、その人たちの生前の姿を懐かしみ、その理不尽な死を悼んでおられるようでした。私はヘルミロさんの眼差しの先にあるものを想像しようと努力することしかできませんでした。可能なかぎり、ひとり一人の人生を想像してみようとすること。理不尽な死を強要された人たちのことを。そして、いま私のまわりに生きている人にも同じように思いを巡らすことができるのか。そうすることが、チトさんが冊子のなかで述べられていたことと繋がってくるような気がします。過去から学ぶということは、いまは亡き人の人生に想いを馳せ、そして、いま私のまわりに生きている人たちの人生にまで心を届かせようと努力するということかもしれないと…。



リパ市パガオの井戸で起きた虐殺事件の犠牲者の遺族、アレックス・マラリットさんのことを思い出します。BFPが資金を集め、パガオの行政とともに作ろうとしている慰霊碑のためにアレックスさんが力を尽くされていることを知りました。絵を描くことに長けたアレックスさんはどんな慰霊碑がいいのかと、そのデザインまでご自分で考えておられました。住民の方々にもさまざまな考えがあってその通りにとはいかないようですが、BFP、パガオの行政、そして、アレックスさんが仲介者となって実現に向けて模索されている姿には感銘を受けました。BFPが時間をかけながら丁寧に紡いできたフィリピンの人たちとの関係があるからこそのことだと思うのです。小さなともし火であったとしても、そこに未来を感じました。私もこの慰霊碑の完成を見届けたいと思いました。



胸が痛むようなことが多いツアーのなかで、心和むこともありました。アレックスさんは、ナオコさんが初めてフィリピンに連れてきたトシくんにスポーツカーのおもちゃのプレゼントを用意されていました。まるで、トシくんのおじいちゃんのようでした。



誕生日が間近だったツアー参加者のタクミくんにアレックスさんはピアノ演奏のプレゼント。誕生日ケーキも用意されて、まるで誕生日パーティーです。


アレックスさんとユカコさんと私の3人で、アレックスさんのご自宅のまわりを散歩したことも忘れがたいです。お互いをいたわりながら、まわりの自然を感じながら一緒に歩くお二人の姿があまりに素敵で、私は思わずカメラを回してしまいました。「これがBFPなんだなあ」とひとりうなづいていました。ブリッジ・フォー・ピース…平和への架け橋、このお二人の姿に勝手にBFPの神髄を見ていました。


 忘れてはいけないのが、チトセさんとマイクさんご夫妻のこと。チトセさんのおいしい手料理とワインをいただきました。いい気分になってワインを飲みすぎ、私はかなり酔っぱらってしまいました。でも、そのおかげでリラックスできたのか、マイクさんの生い立ちなんかも聞くことができました。日本で差別に苦労されたマイクさんのお話、もっとゆっくりと聞きたかったです。お二人が毎週日曜日に出店されているサンデーマーケットにも2回、お邪魔させていただきました。次はぜひ、泊りがけでゆっくりとお話がしたいと思っています。
 
一緒にツアーに参加した方々のことも強く心に残っています。トモミさんとはツアー後、一緒にモンテンルパのニュービリビッド刑務所を訪問しました。トモミさんのIDカードのおかげで敷地の中まで入って写真を撮ることができてラッキーでした。タクミくんとエリコさんとは「教育」について、朝食の時間にお話をすることができました。タクミくんは「教育ってなんだ?」って哲学や思想からも問おうとしていて、その真摯な姿にとてもうれしい気持ちになりました。エリコさんとは地元で展開されているコミュニティーカフェについてもっと話がしたかったです。ユカコさんとは二日間ではありましたが、とても濃厚な時間をともにしました。戦争捕虜の話は知らないことばかりで、とても興味深かったです。これからもいろんなことでお話を聞かせてほしいと思っています。
食事をさせていただいたユニカセ・レストランの中村八千代さんもとても素敵な方でした。さまざまな問題を抱えながらも、いま、スタッフとともにレストランのある建物に家族のように一緒に暮らしながらレストランを経営されています。ほんとに、ユニカセ、ユニーク、ここにしかない形なのです。それがとっても素晴らしくて、ツアー後、私は3回もお邪魔させていただきました。

もっともっと今回のツアーを通して出会えた人たちがいます。ここには書けなかった人たちにも感謝しています。そして、こんな豊かな人たちとの出会いをプレゼントしていただいたBFPに心より感謝の気持ちを伝えたいです。ありがとうございました!

| フィリピン訪問レポート | 13:45 | comments(0) | - | pookmark |
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