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ニューギニア西部ビアク島・武内満多男さん取材報告 

武内満多男(またお)さんは1925年(昭和元年=大正15年)生まれで

現在93歳、お孫さんからご連絡をいただき、
8月19日に石黒さんと東京・練馬区で体験をお聞かせいただきました。

武内さんは大工さんをしていたというだけあって立派な体躯、にこやかな表情で

終始穏やかに話される方で「ジャングルでサバイバル生活をしていた」ことなど

全く想像できない、平和が誰よりも似合う方でした。

5人兄弟の末っ子で、お兄さんたちもそれぞれシベリア一人、中国へ2人、

ハルマヘラ島へ一人行っていたが、幸運にも皆さん無事に戻られたそうです。

 

 

武内さんは大工さんだったので、軍属として船の修理などをしていた

1944年19歳の時に、徴兵され、漁船を改造した輸送船で、ニューギニア西部

のビアク島に向かう途中、四国沖で魚雷にやられ、海軍の航空隊に救助されました。

一旦貨車で横須賀に戻り、今度は1万トンの石炭船(なんと薪を積んでいた)で、

フィリピンのマニラ→ダバオ(ミンダナオ島)経由で、ハルマヘラ島に到着、

その後ようやくビアク島に着いたと言います。

この時期は「もう船もボロボロで、何もない。四国沖やバシー海峡(台湾と

フィリピン沖)などには、アメリカの潜水艦がウヨウヨしていた、危なくて

しようがなかった、船は魚雷を避けるためにジグザグ航行を繰り返していた」

そうで、長く危険極まりない航海に、若い兵士たちはどんな思いでいたかと

心配になりました。

現地では、武内さんは工兵隊だったので、もっぱら兵舎や飛行場を造っていた

そうです。

 

ビアク島は北のアッツ島とならぶ、激戦地として知られています。

しかし武内さんは工兵隊(第202設営隊)だったため、直接の戦闘経験はありません

でした。戦うための武器さえほとんどなかったそうです。中国人やインドネシア人の

クーリーたちが(飛行場づくりのために)たくさん働いていたといいます。

敗戦を知ったのは8月17日、米軍の捕虜になってからも食料は乏しく、1年間も

帰還する船が来なかったので、トウモロコシやタピオカばかりを食べる自給自足の

生活でした。


【石黒さんの感想】

武内さんは当時から、戦争は愚かなことだと認知しており、敗戦の知らせがくると

「これで世界平和がくる」と喜んだそうです。当時から戦争の愚かさをわかって

いる人はたくさんいたと言っており、それでも口に出せない雰囲気、言論の自由が

許されない時代というのは恐ろしいなと思いました。

 

【お孫さんからのメッセージ】
祖父は太平洋戦争からの帰還者で、19歳の時に兵士として戦地に赴き、
東南アジアのジャングルでサバイバル生活をしたのち、終戦時に捕虜となり帰国

しました。
祖父が取時の生活や想いなどとても良く記憶していることに驚かされるとともに、

それほど強烈な体験だったことになんとも言えない気持ちになります。祖父も今は

元気ですが、高齢故、いつ何があるかわかりません。私たち孫だけでなく、もっと

多くの方に祖父の体験や想いを知っていただき、私と同じように今の環境のありがたさや

平和について考えるきっかけとなってもらえたらと思います。

 

■大変貴重な体験をお話しくださった武内さん、またBFPにご連絡くださったご家族の方、

ありがとうございました!

この体験を皆さんに伝えていきたいと強く思いました。(斉藤由美子)

 

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