NPO法人ブリッジ・フォー・ピース(BFP)の公式blogです。
ここに記載される会員もしくは参加者の見方や考え方は、必ずしもBFPを代表するものではありません。
個人の自由な想いを尊重して運営しています。
Copyright(C) 2005-2015 Bridge for Peace All rights reserved.

沖縄戦ワークショップを開催しました!
今日は愛知県岡崎市のGlobal Studies Cafeにて、沖縄戦のワークショップを開催しました!

冒頭はBFPらしく、アイスブレーキングから。沖縄戦に関するクイズを8つ。参加者の皆さんに考えて頂き、基礎知識を頭に入れました。


その後、地図を見ながら参加者同士、沖縄戦の経過を確認。


そして、ビデオ・メッセージの上映へ。


BFPのミッションは「過去の戦争を知り、未来のかたちを考えるきっかけをつくる」こと。今回は、先日沖縄へ行って来られた稲垣さんから現地の様子を写真入りで伺いました。


沖縄戦から現代に至る問題まで、様々な視点を参加者に投げかけてくださいました。

ワークショップ終了後も、来店したカフェのお客様も交えて話しは尽きず、夕方まで!

こういう場の重要性を改めて認識する一日となりました。ご参加くださった皆さん、話題を提供してくださった稲垣さん、映像を撮りためてくださった東京メンバーの山地さん、本当にありがとうございました。
| イベントのお知らせ&レポート | 21:58 | comments(0) | - | pookmark |
BFPフィリピン・ツアー2017
2月に実施した、BFPフィリピン・ツアーのレポートです。
今年は、長年夢見ていたプロジェクトが、大きな一歩を踏み出すことが
できました。ぜひ参加者3人のレポートから、それらも感じ取って頂け
たら幸いです。


着実に交流が根付いているのを実感(淺川和也)
ただ感じるだけでなく、もっと深く考えて向き合うフィリピン(金子聖奈)
戦争という「現実」に触れて(大学生S.S)
| フィリピン訪問レポート | 17:26 | comments(0) | - | pookmark |
着実に交流が根付いているのを実感(淺川和也)
 初日は、入国後、手配の車でリパのアレックスさんのお宅をたずねしました。アレックスさんは日本軍による虐殺の遺族で、お父さまが日本兵に殺害され、井戸に投げ込まれたとの証言も映像に所収されています。ブリッジ・フォー・ピース(BFP)の理解者の一人で、長年、交流を続けています。昨年、交通事故をおこし、まだ傷が顔にのこっているとのこと。海外での国際機関で勤務の後、リパに戻り、博物館の顧問もされていました。石田甚太朗さんの記録にもとづいてみずから描いた絵も展示する活動もしてこられました。BFPがおとづれるたびに、パガオの井戸に案内していただています。井戸は2つ、バナナの茂みのなかと民家のきわにあり、案内がなければ、まったくわからない状態になっています。以前より、何らかのモニュメントをつくったらよい、という話をしてきました。ずっとそのままになっていましたが、昨年はバランガイ・キャプテンとも会い、具体化する話がすすみました。そこで、BFPがクラウドファンディングにより、資金を募り、今回、アレックスさんに託すこととなりました。
 アレックスさんは体調のこともあり、やはりこの計画を担うのは難儀と話しておられましたが、若い学生も同行したこともあり、バランガイ・キャプテンを一緒に訪ねて話をすすめることになりました。
 2日目は、バランガイ事務所を訪ねました。バスケットコートと事務所を併設したようになっており、職員も数名いるようでした。相談の結果、バランガイ事務所に祈念碑を、井戸には崩壊を防ぐよう工事をすることになりました。バランガイ・キャプテンの選挙が8月にあるので、そのかねあいもあるようですが、再選をもくろんでおり、いずれにしろ、アグリーメントに署名いただきました。資金については、アレックスさんは、バランガイ・キャプテンとの共同名義で口座を開設することを望んでいましたが、結局、アレックスさんが管理することになり、アレックスさんの口座に入金してきました。アレックスさんは、前日のご自宅での打ち合わせ、バランガイの事務所での折衝、パガオの井戸、銀行と同行いただき、お疲れのようでしたが、実現への第一歩となりました。
 3日目は、バウアンにランディさんを訪ねました。2月末に虐殺があったところです。教会を案内いただきながら虐殺(爆破)事件のこともうかがいました。スペイン時代は修道院であった建物で、アメリカ統治下では学校となり、現在は大学も併設されています。ランディさんは、米国に渡るそうで、ランディさんから、今後は、ここの学校の先生を訪ねるようにと、ご紹介いただきました。その後、祈念碑を見学し、昼食後、マニラに向かいました。
 4日目は、8時にマニラをケソンシティにむけて出発しました。渋滞もなく、8時40分ごろにケソンシティにあるミリアムカレッジの平和教育センターに到着しました。ロレッタ先生は、午前の授業の準備をされていて、ハスミンさんに校内を案内していただきました。夕刻にひらかれている成人コースの模擬店がでており、食べ物やクラフト、ネールアートを学んでいる方々によるテントもありました。図書館の平和関連書籍のコーナーや、ロレッタさんの名前のついたガーデンも見せてもらい、ロレッタ先生の2時間目の講義の教室に向かいました。
 ロレッタさんからは、戦争と和解がテーマとの紹介をいただきました。現在、核兵器禁止条約について学んでおり、原子爆弾のことに触れて欲しいとのことでしたので、ヒロシマ・ナガサキのことについて提示し、美甘さんのことも紹介しました。そして、NHKワールドのBFP紹介、その後、30分の英語字幕付のフィルムを上映しました。学生さんからは、日本とフィリピンの関係について、当事者の遺族の方とどう連帯するかなど問われ、こちらからは、どのようにフィリピンでは歴史を教わっているか教えていただきたいとの質疑もしました。
 午後は、マカティにあるアラヤ・ミュージアムで高木さんと待ち合わせ、チョロスというスペイン菓子をいただきました。高木さんはマニラ在住40年になるとのことで、当初、駐在員むけの情報誌をつくったり、勉強会を続けているとのことでした。フィリピンの伝統織物や現代美術にも造詣が深く、文字通り、日本との架け橋となっておられます。
 そこにフィリピン大学マニラ校のバーナード先生がおいでになったので、高木さんと別れ、バーナードさんにアラヤ・ミュージアムを案内いただきました。ジオラマで歴史をただる展示は、わかりやすいものでした。翌日のコレヒドールへのツアーの船がでるターミナルを確認し(モールオブアジアのバイキングというレストランの隣)、バーナードさんに同行いただき、ロビンソンというショッピングモールにあるバコロド名物のチキン料理をご一緒しました。バーナードさんは日本通で、ロビンソンにあるCoCo壱番屋のカレーを毎日のように食べているとのことでした。日本からのラーメン屋やダイソー、ユニクロも入っていました。
 5日目はコレヒドール島へのツアーでした。船で1時間半ほどで到着。20人ほどづつ、9台のバスにわかれての島を見学しました。アテネオ大学の学生がたくさん参加していました。スペインによる植民地時代からアメリカ統治となり、第一次世界大戦の際には、最新技術の砲台であり、日本軍による一ヶ月にわたる爆撃で陥落したとのこと。砲台や補給敞、兵舎、将校らのための施設などの焼け跡や、コンクリートの骨組みがそのままになっていたり、日本兵が自決した塹壕を巡りました。昼食の後、展示館やトンネルでの歴史劇も見て、最後は、日本兵の慰霊の場所でした。いくつもの慰霊碑や観音像が建立されていました。シンガポールからの医師とその方の知人のフィリピン人医師と言葉を交わす機会もありました。英語でのツアーでしたので、日本からの方は少なく、お一人のみのようでした。
 マニラのターミナルに戻り、バーナードさんのUPマニラ校をたずねました。とくに学生さんとの約束はなかったのですが、タクシードライバーさんへの指示が甘く、看護学部に連れていかれたこともあり、午後6時半過ぎになり、すでに学生さんはおられませんでしたが、バーナード先生と夕食をとりました。
 6日目、メモラーレ・マニラの会場に午前8時半に到着すると、今泉監督がおられ、チトさんに伊吹さんからあずかったDVDを渡したりしているうちに、楽隊の音楽が流れ、開式となりました。リビング・ヒストリー・ソサエティという当時の状況を再現する劇や、若い学生が証言を読み上げる趣向もあり、ホセさんなど次の世代にメモラーレ・マニラの活動を引き継がれていくさまが見てとれました。献花、そしてスピーチとなり、BFPからは、金子聖奈さんがスピーチをしました。都留文科大学の内山さんや、以前、バタンガスにご一緒した毛利さんにもお会いできました。
 10年以上にわたり、BFPが交流をつづけてきていますが、今回は、パガオに祈念碑を建てるためのプロジェクトに着手するための覚え書きを交わすことができ、着実に交流が根づいているのを実感することができました。
| フィリピン訪問レポート | 17:20 | comments(0) | - | pookmark |
ただ感じるだけでなく、もっと深く考えて向き合うフィリピン(金子聖奈)
今回のフィリピン訪問は、個人としては4回目、BFPとしては2回目。フィリピンを訪れることはそれなりに数を重ねてきたが、フィリピン出発前夜は、不安で全く眠れなかった。去年BFPとしてフィリピンを訪れたときの私と、今の私では、何か変われただろうか。いや、去年あんなに貴重な経験をさせてもらったはずなのに、何にも成長できていない。これでは、去年お世話になった人々にあわせる顔が無い。そう考えていたら、寝付けなかった。
今、帰国してしばらく経ってしまったが、フィリピンでの日々を考えていると、フィリピンで出会った人々や物事が自分の中で大切すぎて、とても苦しくなるし、切なくなる。主観的な書き方になってしまうかもしれないが、振り返ってみようと思う。

(1日目、2日目)
まずバタンガス州リパ市のアレックスさんを訪ね、再会すると、とてもにこやかな笑顔で迎えてくれた。アレックスさんは、私がBFPに関わるよりもずっと前からBFPと交流を続けてくれている人。そして、幼いころ、日本軍によってお父様と従兄を銃剣で刺された上に井戸に投げ込まれ、虐殺されてしまった人。この井戸には今回も訪問できたが、鬱蒼と茂るバナナ林の中にあるので、そんなところに井戸があるのかと俄かには信じがたく、このままではやはり記憶が風化してしまうと思った。慰霊碑建設のプロジェクトが大きな一歩を踏み出せたのは、とても喜ばしかった。
アレックスさんの体調がとても悪そうで、アレックスさんの口座にクライドファンディングで集めた資金を入れてもらったが、そのときの様子を見ているととても辛かった。無理をしないで休んでほしい、と心から思った。私が泣きそうだった。しかし、今年進めなければプロジェクトの実現が遠のいてしまうかもしれないので、またこんどにしよう、とはできなかった。慰霊碑建設のため―つまりは、BFPとアレックスさんが共有している平和への思いを実現するため。だから、私たちが無理をさせている面もあるのに、アレックスさんは、苦しそうにしながらも駒を前に進めてくれた。これはアレックスさんの大きな自発性がなければ実現しなかったことだと思った。アレックスさんの「慰霊碑建設のために」という目的には、おこがましいけれど「BFPのために」という気持ちもきっと含まれているのではないかと思う。体調が悪いなか無理をしてまでその計画を進めてくれたことは、長年BFPがアレックスさんと、ひいてはフィリピンと向き合い続け、信頼関係を築き上げてきた人々の、努力の結果なのではないか、と切に思った。私はまだBFPに関わりはじめて2年ほどしか経っていない。過去にこの関係性を築き上げてきた人々の努力に、そして向き合ってくれたアレックスさんをはじめとするフィリピンの人々に対する気持ちは、感謝したいと言うものなのか、感銘をうけた、とあらわすべきなのか……どんな言葉でも薄っぺらくなってしまう。それほどに心が動いた。これからは私もその一端を担い、貢献することができれば、と強く思った。


(3日目)
バウアンという、住民をすし詰めにし、虐殺したという現場の教会を訪れ、ランディさんと再会した。ランディさんは相変わらずの笑顔で私たちを迎えてくれて、とても嬉しかった。去年と同様、教会の内部や隣接されている学校まで案内してくれて、教会や学校の歴史に、日本という存在が負の形で組み込んでいることを実感し、とても複雑で、悲しい思いになった。
教会での虐殺からただ一人生き残った、コルネリオさん(95)を訪ねることができた。去年は、ここで泣いてしまったな、と回想した。去年はしっかりとした口調ではなくても、ご自身の体験を身振り手振りで話してくれていたが、今年はそれもあまり語れないようだった。それでも、元気そうににこにこ笑っている姿や、「ナオコの友達なのか!そうかそうか!」と喜ぶ様子を見て、嬉しく思った。日本の学生になにを求めますか、と質問したら、「Know what happen before, and take PEACE」と答えてくださった。それだけで十分だった。
ランディさんは、今後はご両親の介護のためにアメリカに行かれるとのことで、BFPを案内できるのはこれで最後になってしまうかもしれない。別れはとても悲しかったが、今後BFPを案内してくれるという方を紹介してくださり、こうやって交流が続いていけば、平和のひとつの形としてよいのではないか、と前向きに考えた。私だってニューフェイスの一人なのだから。先に交流した人々の思いに共鳴して、後に続く人が同じように平和を築こうとしていけば、それが続いていけば、それでよいのではないか、と思った。
ランディさんとの別れを惜しみながら、夕方にバウアンを出発し、マニラへと向かった。

(4日目)
ケソンシティにあるミリアム大学で、淺川先生がワークショップ授業を行った。30分のBFPの証言ビデオを見てもらったあと、質疑応答の時間が設けられた。そこで、ほとんどの学生がとても関心を持って質問をしてくれた学生の様子が印象的だったが、やはり関心のない様子で、ずっと眠っている学生も何人か見られた。立場を逆にして考えれば、私たち日本人学生のほうも歴史や戦争に関する授業に関心がない生徒がたくさんいる。実際、そのような授業を履修しているにもかかわらず「そんなの学んでどうするの?経済や経営についてのほうがよっぽど役に立つ」と実際に口に出しながら、授業中は寝たり、内職をしていたりする日本の学生を思い出した。
私が誰かの関心のありかについて意見することはできない。しかし、フィリピンでそういった場面に接したことで、改めて記憶の風化の問題や、日比両方の若い学生の問題意識が問われるのではないか、と思った。

(5日目)
コレヒドール島のツアーに参加した。コレヒドール島には行ってみたいと何度も思っていたので、念願が叶って嬉しかった。要塞のあとや、日本軍の小隊が集団自決した地、日本兵の慰霊の場所、日本軍が玉砕の前に爆破したマリンタトンネルなどを巡った。痛々しい砲弾の跡が、戦争のすさまじさをリアルに感じさせた。ここでの悲劇を考えながら戦跡を目の当たりにしていると、ツアーが進むごとにだんだん気持ちが苦しくなってしまった。
最後のほうに、日本軍の慰霊の碑や観音像などがある場所を訪れた。そこで、一枚の布に、血で中央に日の丸を描き、その周りにからかさ連判状のように名前を書いたものが額に入れられて保存してあった。ツアーガイドさんが、中央の赤く染まった丸を指さし、「血で染められている」と説明したとき、外国人の小さな子どもが「Is this really blood? Funny!」と叫び、ジャンプしながら赤い丸に必死に触ろうとしている無邪気な様子を見て、何故だかわからない、どうにもやる瀬なくなってしまった。ほかのツアー客がその場から離れても、しばらくその場から動けなかった。しまいには、涙が止まらなくなってしまった。
 名前と年齢を記した都道府県ごとの慰霊碑や、震洋の部隊の慰霊碑など、たくさんの碑が建てられていた。彼らの中には、16歳や17歳で亡くなった兵士もいた。それを見るたびに、胸が痛んだ。私は、彼らは戦争がしたくてしたのではない、フィリピン人を虐殺したくてしたのではないということを知っている。しかし、今でもフィリピン人のなかの苦しみは消えていない。また、歴史の語られ方はいつも勝者の目線である。コレヒドール島で亡くなった兵士に注がれる視線は一方的に冷たいこともあるし、私たちもそれに似た不寛容な視線を、自国・他国を問わずに対して向けている。玉砕の前に、一枚の布に血で日の丸を描いた兵士の気持ちは、たぶん、その冷たい視線の対象にあったかもしれない。(先述した子どもがそんな視線を持っていた、と言いたいのではありません!)
私たちは、お互いに分かり合えるようで、まだまだ分かり合えないと実感した。そのときの私の涙は、やるせなさと悲しさだったと思う。


 (5日目)
この日はメモラーレ・マニラの式典に参加した。昨年お会いしたロチャ夫人と再会することができ、嬉しく思った。今回は式典に初参加でありながら、BFPとしてスピーチをすることになり、とても緊張していた。難なくスピーチを終えたあとは、司会者の方をはじめ、フィリピン人、日本人、老若男女を問わず、たくさんの方が声をかけてくれた。4月のバターン行進の慰霊祭にも招待していただいた。大学の授業があるので参加は叶わなかったが、こうしてコミュニティが広がり、人と人とが繋がり、平和が実現していくのかもしれない、と思った。


その後、淺川さんと杉原さんは帰国の途につき、私は一人バギオに向かった。そこから、さらにジープニーで4時間、カパンガン州ポキン村に訪れた。そこは、周辺にサリサリストア1件しかないような村である。ここに住む志村朝夫さんには懇意にしていただいており、数日そこで過ごした。そこで、とても貴重なものを見せてもらった。一昨年、川で発見されたという、日本兵の九九式狙撃銃だ(同時に頭蓋骨も見つかったそうだ)。錆びついていてもちろん弾は入っていない。おそらく、この周辺で飢餓によって死んだ日本兵の遺品だろうと見ている。その銃に触れた時の感覚は、今でも忘れられない。拾った村人に、どうか大切に保管してもらえるよう頼んだ。
この村やバギオでは、「あの屋根の下で日本兵の頭蓋骨が3つ見つかった」とか、「自分のおじいさんはゲリラと誤認されて殺された」とか、いろいろな悲しい話を聞いた。私は、偶然に狙撃銃に実際に触れるチャンスがあったことや、そういった出会いなどを考えると、よくわからないけれど「何かに導かれている」と大真面目に考えてしまった。
BFPで出会った人や、訪れた地域だけではない。フィリピンには、それぞれの地域にまだ「戦争」が爪痕を深く残していると実感した。視野を狭めることなく、自分がやっていることに100点をつけず、まだ知らない思いや知らない事実があることを自覚しなければならないと思った。


また、最後にもう一つ。
私は、アレックスさんのことが本当に大好きだと思った。彼の優しさや、思慮深さに本当に感動していた。そして、苦しそうなアレックスさんを見て、不謹慎だけれども、あえて正直に書きたい。彼もいつかは死んでしまうのだ、とハッとした。そしてその時、私は深く悲しむだろう、と思った。大泣きするかもしれない、と。
けれど、私がアレックスさんと出会ったのは、アレックスさんが幼いころ悲惨な経験をしたからだ。悲しく苦しい経験を、私たちと同じ日本人がさせたからだ。アレックスさんがもしそんな辛い経験などせずに済んだなら、私は大好きなアレックスさんには出会わなかった。皮肉なことだ。私たちの出会いは、アレックスさんの経験なしには語れない。ではどうしたらいいの?この問いに対する自分なりの答えは、まだ出ていない。

私は、BFPがアレックスさんを始め、フィリピンの人々とどのように向き合い続けてきたのか知る必要があると思い、フィリピン訪問に関する過去の公式ブログすべてに目を通した。そこで、パガオの慰霊碑建設や、メモラーレ・マニラへの参列、そしてBFPが関わりを持ったフィリピンの方々との関係が、どのような経緯で始まったのか、どのような努力によって進んできたのか理解することができた。たくさんの人が、それぞれの切なる想いを持ってフィリピンツアーに臨んでいたことを痛感し、感謝の気持ちが尽きない。

ほかにも、今回のフィリピンではやっとお酒が飲めた!(この前の12月に20歳になったので…)昼間の活動を終え、フィリピンでサンミゲルを飲みながら淺川さんや杉原さんといろいろお話するのは、とても楽しかった。それに、ランディさんと共にしたランチも楽しかったし、UPマニラのバーナード先生が連れて行ってくださったお店のパンシットは、本当に美味しかった。それらも、とても良い思い出である。

そして、ツアーを組んでくださった直子さん、フィリピンでたくさんのことを教えてくださった淺川さん、一緒に学びを共有してくれた杉原さん、スピーチ原稿を校閲してくださった伊吹さん、スピーチの一部をタガログ語に翻訳してくださった潤間さん、関わってくれたすべての皆様、本当にありがとうございました。そしてフィリピンで出会った大好きな人たちにも、Maraming Salamat sa inyong lahat!
| フィリピン訪問レポート | 17:17 | comments(0) | - | pookmark |
戦争という「現実」に触れて(大学生S.S)
BFPの活動に参加しようと思ったきっかけは、3年前の夏休み、第二次世界大戦下におけるフィリピンを扱った大学での講義に参加したことだ。その講義を担当していらっしゃったのが神直子さんだった。講義を通して、フィリピンで日本軍による虐殺が幾つも起こっていたということを初めて知り、強い衝撃を受けた。講義を受けてから、フィリピンという国そのものにも強く興味を持ち、いつかフィリピンに行きたいと強く思うようになってきた。フィリピンの歴史を知った以上は、実際に行って確かめなければならないという責任のようなものも感じていたような気がする。

BFPには以前から入ってみたいとは思っていた。しかし、気の弱い私はなかなか決断ができなかった。大学も3年目になり、まだ何もできていない自分に焦りを感じるようになった。「何でもいい、何かしよう」と思い、長い間検討を続けてきたBFPへの活動参加を決定し、フィリピンツアーへの参加へと至ったのだった。実際にフィリピンに行って、フィリピンで起こった戦争の現実にたくさん触れてきた。フィリピンの美味しい食べ物や優しい人々と触れたりもし、歴史的な部分以外にも様々なフィリピンを感じ取ることができたが、ここでは主に歴史の部分について述べていくこととする。

大学1年の頃、レポートで第二次世界大戦下におけるフィリピンの様子について書いたが、その際当事者へのインタビューをまとめた本を参考にした。その中に、日本軍によって銃剣で殺害された上に井戸に遺体を棄てられてしまった人たちがいたことが書かれていた。1日目には実際に日本軍による被害を受けた方のご子息と会い、お話を伺った。その方の口から当時の出来事を直接聞いたことで、本の文章が実体を持って私の目の前に現れたような、そんな感覚を覚えた。本の中の出来事などではなく、本当に現実に起こったことだったのだと改めて感じた。

戦争の傷跡はフィリピンのいたるところに残されていた。2日目には多数のフィリピン人が殺害され、遺体が棄てられた井戸を見に行った。バナナの木が生い茂る場所にひっそりとその井戸はあった。井戸はコンクリートで固められてしまっており、井戸としての面影があまり見られない状態ではあったが、コンクリートの下に日本軍によって殺された多数の人々がいることを考えると、とても胸苦しい気分になった。3日目に行った教会も虐殺事件があった場所で、近くには亡くなった人の名前を刻んだ石碑と銅像が立っていた。4日目にフィリピン大学の先生と一緒に回ったAYARA MUSEUM
にはフィリピンの歴史をジオラマで再現した展示があったが、日本軍の占領とその時起こった出来事に関する展示でかなりのスペースを割いており、日本軍による占領とそこで起こった事件がフィリピンの歴史の中でいかに重たいものであったかを感じ取ることができた。

5日目はコレヒドール島での戦跡めぐりのツアーに参加した。無数の銃弾のあとが残る建物や大砲が、戦闘の激しさを物語っていた。戦争は確かに現実にあったのだということを、建物を見ているうちにも気付かされた。

ツアーの後半、日本とフィリピンとの友好と平和を願って建てられた観音像や、一人ひとりの名前を刻んだ石碑が並んでいる場所があったが、それらを見て身につまされるような思いがした。無意識のうちに、自分の親族の墓のことを思い出したのだと思う。私の親族の中にも、第二次世界大戦中に若くして亡くなった人がいるらしい。墓に刻まれた親族の名前に連なって、その人が所属していた軍隊の名前も一緒に刻まれていたことを記憶している。墓参りに行くと、戦争と今を生きる自分はしっかりと繋がっているのだと感じる。

最終日の6日目に参加させていただいたメモラーレ・マニラでの式典では、フィリピンで起きた戦争の歴史が劇で再現されたり、学生による朗読が行われたりした。
特に日本人の劇団も参加していた劇はとても印象に残っている。


フィリピンでの戦争の傷跡に触れるたび、「私には何ができるだろう?」と自問していた。悲惨な歴史と現実を受け止めることは勿論重要なことである。
しかし、知ったのならば何か行動に起こさなければならない。フィリピンで起こったことについては「知らない」という人が圧倒的に多い。私の家族も友人も、ツアーでの話をするととても驚いた顔をする。日本の教科書には、第二次世界大戦下のフィリピンで起こったことについては数行程度しか書かれていない。私は、「何も知らない」ということが一番まずいことなのではないかと(漠然とだが)考えている。誰にも知られないまま埋もれてしまうことは防がないといけないと思う。私は、まだ何も知らない人に対し、戦争と自分とのつながりについて考えるきっかけを与えられるようになりたいと考えている。

私は幼い頃から絵や物語を創作することが好きだ。ツアーから帰った後、自分ができるこことは何かを考えているうちに、絵や創作の物語で何かできないかという考えに至った。戦争文学やマンガなど、戦争をテーマにした創作物は多くある。所詮は創作に過ぎない(物語として創作するうちに虚構が混じってしまう)という批判はある。しかし、戦争について何も知らない人、何も考えたことがない人に対し、考えるきっかけを与えるツールにはなりうると私は考えている。創作や絵が好きといっても、本格的に勉強したわけではなく、あくまで趣味ではあるが、今回のフィリピンツアーで触れたことについて、絵を使って形に残せたらよいなと考えている。いつかは友人などにも見せて、フィリピンで起こったことについて考えてもらうきっかけを与えてみたい。
| フィリピン訪問レポート | 14:58 | comments(0) | - | pookmark |
CALENDAR
S M T W T F S
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  
<< August 2017 >>
LINKS
RECOMMEND
私たちが戦後の責任を受けとめる30の視点
私たちが戦後の責任を受けとめる30の視点 (JUGEMレビュー »)

BFPとしても2章書かせて頂いています。ご覧頂けると嬉しいです。
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
PROFILE