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「まだ戦争は終わっていない」と感じさせられたツアー(丸川拓己)
「Happy Birthday,Takumi」
初めての海外、初めてのフィリピンで、英語さえおぼつかない私に、ピアノを演奏しながらそう語りかけてくれたAlexさんのことを、私は一生忘れないだろう。


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私が参加したのは、2018年2月6日〜2月11日に行われたフィリピンツアーだ。地理歴史の教員免許を取得するにあたって、色々と見聞を広めてみたいという単純な理由から、第二次世界大戦に関する活動を行っている団体をネット検索して、BFPに連絡を取ったのがきっかけだった。他の参加者の方々のように長く戦争に関する研究や活動をしていたわけではなく、英語もほとんど話せないような私が、このツアーで何を感じ、何を考えたのかを、微力ながら書こうと思う。
私のこのレポートが、これからこのツアーや活動に参加しようか迷っている私と同じような人に伝わるような内容になっていれば幸いである。

私達がまずお会いしたのは、リパという街に住んでいるAlexさんという方であった。Alexさんは、戦争時お父様を戦争で亡くしている。Alexさんのお父様は、日本軍によって市民が利用していた井戸で虐殺されたのだ。お会いする前にその話を直子さんから事前に聞いていたため、私はお会いするのが少し不安だった。
しかし、実際にお会いすると、Alexさんは本当にうれしそうに私達を出迎えてくれた。英語が堪能で、また大変知的な方で、英語が全く話せない私にもわかりやすいように丁寧に当時のことを話していただいた。


「これとってもおいしいんだよ」と勧めてくれたココナッツを固めたお菓子を私がガツガツ食べていると、「たくさんあるからもっと食べなさい」とまるでおじいちゃんのようにニコニコしてくれた。
そんなAlexさんとともに、実際にAlexさんのお父様が日本軍によって虐殺された現場に向かった。そこは民家もほどちかい林の中で、まだ井戸そのものも残っていた。
そこに着いたときの、Alexさんの顔を、私は今でも鮮明に覚えている。言葉ではうまく表現できない、悲しみに満ちた顔だった。


その顔を見たときに、私は実感をもって感じたことがある。
それは「まだ戦争は終わっていない」ということだ。
人は自分事ではない過去は簡単に忘れることが出来るし、そういう生き物だ。いっぽうで、当事者はその過去を一生背負って生きていく。私は日本史も世界史も得意だったし、人よりは過去と向き合うことのできる人間だと思っていた。しかし、いざ当事者の方を目の前にして、私は自分が「戦争はもう終わっていたもの」だといつの間にか前提していたのだということに気づかされたのだ。

もし自分の父親が目の前で連行されて、虐殺されたとしたら?多感な少年時代にそれを経験していたとしたら?
Alexさんはずっと、当事者として、そんな過酷で残酷な記憶を背負って生きてきたのだということが、その悲しみに満ちた顔に表れていた。そのことに気づいたとき、私は何と声をかければよいのか、わからなくなってしまった。そんな悩みを抱えながら、私のツアーは始まったのである。


しかし、そんな私に、Alexさんはもう一度伺った際に誕生日パーティーを行ってくれた。「2月22日で22歳になるんです」と言うと「それはすごいね」とまたにこやかに話しかけてくれるAlexさんの人柄に心から感服するとともに、私はいったい何を返すことが出来るだろうか、と考えるようになった。

翌日には、BrianさんとChitoさんと一緒に、Buan教会という、日本軍が戦時にフィリピンの市民の方々を集めて爆破事件を起こしたくさんの方々を虐殺した現場に向かった。世界史の教師だというBrianさんは、当事どのようなことが起こっていたのかということや、「通行証を渡す」という嘘をついて市民を集めた日本軍の卑劣な行為など、様々なことを説明していただいた。また、Chitoさんには実際にその爆破事件でなくなった方々を埋葬する墓地に案内していただいた。しかし、爆破事件で亡くなった方々のための石碑の周りは草木が生い茂り、荒れ果てた状態となっていた。Chitoさんはとても悲しそうな顔で、「前はもっときれいだったんだが」と言っていた。徐々に記憶が薄れていくことを象徴するかのような石碑は、悲しく佇んでいた。


また、この事件の生き残りの方にもお会いした。Cornelioさんは御年97歳というご高齢ながら、私の誕生日ソングを演奏して下さった。一方で、ご自身が日本軍に過酷な目にあわされたにもかかわらず、日本から来た私に気さくに接してくれることに、改めて驚きを感じた。


また、マニラ市街戦の追悼式典にも、BFPメンバーとして参加させていただいた。周りを見渡すと、近隣の大学の学生も多くいて、中国から来た大学生の人とおぼつかない英語で会話したり、式典の参加団体としてBFPが名前を呼ばれたときに直子さんと一緒に前に出たりした。しかし、本来このような形で式典があるのであれば、日本の大使館の人間の一人でもいるだろうと思っていたのだが、日本人はほとんどおらず、また直子さんの話では参加者も去年に比べて格段に減ったとのことだった。ここでも、徐々に記憶が風化しつつあり、特に日本人はこうしたBFPのような団体がなければ、つながりの糸は絶ち切れてしまうだろうと感じた。


他にも、ユニカセという日本人の方が経営するフィリピンの貧しい子どもを雇って社会復帰への手助けを行っているレストランに伺ったり、加藤千登勢さんのお宅に伺っておでんを食べたりしたのだが、主なフィリピンの戦争体験者の方々との交流は以上の通りである。

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それでは、このレポートの締めとして、このツアーで私なりに考えたことをまとめたい。
このツアーを通じて、フィリピンの方々にお会いすると必ず私に聞かれることがあった。それは、
「今、日本は大丈夫か?北朝鮮情勢が怪しくなってきているから、とても心配している」
ということだった。Alexさんも、日本の情勢が危うくなっていることを私にしきりに話してくれた。最初、なぜ遠く離れている日本のことをそこまで心配してくれるのだろうと思っていたが、今回のツアーを通して、考えたことがある。

私がお会いしたすべての方々は、戦争の「痛み」を知っていた。
戦争というものが、大切なものをどれだけ残酷に奪い、加害者も被害者も、関わる全ての人々に一生消えない傷を残すものであるということ。そして、もう二度と戦争を「繰り返してはいけない」こと。
この痛みを抱え、それでも前に進んでいる方々だからこそ、もう一度悲劇を繰り返そうとしている日本の情勢を心配してくれているのだろう。

私は、日本に住んで、学校教育を受けて、いま子どもたちに地理歴史を教えようとしている。私には、これらは聞きなれた、ありふれた言葉だ。「繰り返さない」「戦争反対」は、それ自体が使い古された道具のようになって、ただ漂っている。しかし、私たちは本当に、実感を持ってこの言葉を発しているのだろうか。
フィリピンの方々にお会いして、「戦争がいかに残酷で、繰り返してはならないことか」ということを、改めて実感を持って感じた。それは、今までのような「被害者」としてではなく、私達の祖父母の世代が「加害者」として残酷な行いをしながらなお、現代に生きる私達日本人に当時のことを伝えてくれる方々にお会いできたからこそなのだろう。

第二次世界大戦から73年の月日が流れ、戦争を体験した当事者の方々も年々減ってきている。その時に、私達は本当の意味で「戦争は繰り返してはいけない」と言えるのだろうか。

戦争世代のちょうど孫の世代にあたる私達には、当時の出来事を語り継ぎ、「痛み」を受け継いで未来の子どもたちにつないでいく義務がある。私はこのツアーを通じて改めてそう感じたし、こうした考えを持つ方々にも実際にフィリピンに行って、自分の考え方を問いなおす契機にしていただけたらと心から思う。

最後に、初めての海外、初めてのフィリピンで戸惑う中、気さくに色々な話をしてくださったえりこさん、親子に間違えられたりと色々とお世話になったかずやさん、フィリピンのことを色々教えてくれた智美さん、映画上映の際に色々と説明してくださった由歌子さん、そしてこのツアーに誘ってくださった直子さんと、フィリピンでお世話になったすべての方々に、改めて感謝申し上げます。

このレポートが、私と同世代の大学生の方や、同じように戦争に向き合いたいと考えている方々に参考になるようなものになっていれば幸いです。
| フィリピン訪問レポート | 14:21 | comments(0) | - | pookmark |
出会いの豊かさのなかで(刀川和也)
 2018年2月6日〜11日、BFPフィリピン・スタディーツアーに参加した後、私は3月2日までフィリピンに滞在していました。インディペンデントのドキュメンタリー映画製作者である私は、これから撮りたいたいと考えているドキュメンタリー映画のフィリピンでの足掛かりをつかみたいと思っていたからです。帰国してしばらく時間が経ちましたが、あらためて「BFPのツアーに参加してよかった!」と心から思っています。何がよかったのかというと、人との出会いです。その貴重なお一人お一人との出会いを書いていくとかなりの字数を使ってしまいそうです。なので、今回のフィリピンツアーを通してもっとも多くの時間を共にし話をさせていただいたチト・エネロッソさんのことを中心にご報告します。

チトさんはバタンガス州バウアンの爆殺事件の犠牲者の遺族です。彼の祖父が第二次世界大戦末期、この事件で旧日本軍によって虐殺されました。BFPが製作した冊子「Unforgettable Voices」を読み、チトさんにとても興味を持っていました。その冊子のなかで、チトさんは以下のように語っています。

 「…侵略者らによって同朋に対してなされた残虐行為を、私たちは赦さなければなりません。忘れるのではありません。それは私たちが、少数派の人々や絶対的な権力に疑問を呈する人々に対して一部の力ある者が無意識のうちに行う、同様の残虐で無慈悲な行為を繰り返さぬよう、学ぶためです。そうすることによって私たちも、異なる意見や批判を戦争することによって沈黙させるのではなく、反対する者たちを殺害するのではなく、偽りを暴露する人々の命を奪うのではなく、彼らに敬意を表することを学ばなければなりません。そうすることによって国としての癒しが実現し、私たちも自らの弱さを謙虚に受け入れ、憎しみと怒りに駆られて同朋に対して犯してしまったかもしれない過ちを進んで改めることができるのです。そうすることによって私たちは最終的に、自己破壊的な憎しみと怨念のサイクルを絶ち切る方法を学ぶことができます。…」

いま日本に生きる私たちにリアリティーをもって迫ってくる言葉に思えました。
溢れるヘイトスピーチ。北朝鮮への脅威や憎悪が煽られるばかりで好戦的な雰囲気が醸成される社会。また、「森友問題」に象徴されるような偽りに満ちた傲慢な政治家の真摯さのかけらもない言葉と政府の市民をみくびった不遜な対応。過去の戦争から学ぼうとするチトさんの言葉が、私たちが生きるいまの社会の問題への警鐘として重く胸に響いてきます。チトさんがどのようにしてこのような考えを持ち得るようになったのかを知りたくなりました。



 死者を記憶し追悼する日である11月1日、チトさんのおかあさんは毎年彼を連れてマニラ近郊にある「フィリピン無名戦士の墓」を訪れ、ロウソクを灯し、お祈りを捧げていたそうです。亡くなったおかあさんの前夫、ギレルモ・ルマインさんの慰霊のためでした。ギレルモさんは戦中、米比軍の情報部員としての任務遂行中に日本軍に捕まり、そのまま行方不明となったままなのです。当時、チトさんのおかあさんは次女を身ごもっていました。「夫が日本軍に捕まった」という情報だけが届き、でも、どうすることもできず、日本軍から逃げ回りなんとか生き延びて出産します。夫の行方もわからないまま、その喪失の念にさいなまれたおかあさんは数週間寝たきりになってしまいます。生まれたばかりの女の子をおかあさんは育てることはできず、次女をお姉さんに託すことにしました。その後、おかあさんが次女を引き取り、一緒に暮らし始めるまで13年間もの時間を要しました。それは、ちょうど、チトさんのおとうさんとおかあさんが再婚するときのことでした。




 毎年、おかあさんは「フィリピン無名戦士の墓」にチトさんと一緒に訪れながらギレルモさんのことをチトさんに口にすることは一切なかったといいます。チトさんがギレルモさんのことを知ったのは、お姉さんを育てていたおばさんが教えてくれたからでした。
 ギレルモさんの死の真相は闇の中ではありますが、チトさんは二人の犠牲者の遺族なのです。前夫を日本軍に拘留され殺された(であろう)おかあさん、そして、バウアンの爆殺事件で父親を殺されたチトさんのおとうさん。この両親のもとにチトさんは生まれ育ったのです。ふたりは優しく、常に愛をもって接してくれたとチトさんはいいます。だけど、チトさんが子どもの頃、最愛の両親はけして良好な関係ではなかったそうです。なぜ、ふたりは関係を良好に保つことができなかったのか。けして癒されることのない傷を背負い続けていたおかあさんとおとうさんの心の内を考えざるを得なかったとチトさんはいいます。このことが、チトさんが過去の戦争に向き合い、平和のための運動を始めていく原点になっているのです。



 チトさんに「フィリピン無名戦士の墓」に連れていってもらいました。チトさんのおかあさんの心のなかにずっとあったもの、忘れることも癒されることもなく背負い続けていたものをチトさんと一緒に想像してみたかったのです。チトさんはおかあさんが亡くなるまで持ち続けたギレルモさんへの深い愛を感じると言っていました。その分、チトさんのおとうさんは複雑な感情を抱かざるを得なかったのかもしれません。ふたりが胸に秘めた痛みをみつめ理解しようとしているチトさんもまた沈痛な面持ちになっていました。戦争の傷あとは73年近くたったいまも消え去ることなく引き継がれているのです。



バタンガス州、バウアンでの虐殺によって殺された人たちが眠る共同埋葬場所は広い墓地のなかの片隅に埋もれるようにありました。そこには、チトトさんとともに3度訪れました。1度目はBFPのツアーのときです。目に飛び込んできたのは悲しい光景でした。十字架のまわりに墓碑としてのプレートが埋め込まれた小さな敷地、その下には数百、もしくは数千もの犠牲者が眠る共同埋葬場所は、まわりに新たに建立されたお墓に詰め寄られ、土砂が覆いかぶさり、プレートが土に埋まってしまっているものもありました。バウアンの人たちでさえもその場所がどんな場所なのか知らないのかもしれません。



2度目に訪れたとき、チトさんは私費を投じて埋葬場所を清掃し、補修することにしました。虐殺があった2月28日までに間に合うように補修作業者に依頼されました。
3度目はバウアン爆殺事件の記念日の2月28日。犠牲者遺族のひとり、ヘルミロ・モンテネグロさんをともなってチトさんと一緒に埋葬場所を訪れました。ヘルミロさんはBFPのビデオ映像のなかで「戦後、トラックで移送される捕虜となった日本軍兵士に向かって石を投げた」と証言されていたミラグロスさんの弟さんです。共同埋葬場所は土砂を取り除き、まわりをコンクリートで固められていました。それまで土砂に埋もれて隠れていた墓碑プレートも数枚見つかり、そのなかに5歳と3歳時に殺された二人の女の子の墓碑も含まれていました。ヘルミロさんは「おそらく銃剣で刺殺されたんだろう」と悲愴な面持ちでつぶやいておられました。



 私が立っていた場所、その下には個別の名前を持ち、家族がいて、虐殺されるまでそれぞれの人生を生きていた夥しい人たちが眠っています。その現実を実感をともなって想像することは簡単なことではありませんでした。73年に及ぶ時間のせいなのかもしれません。ヘルミロさんは墓碑に書かれた名前をお一人お一人口にしながら、その人たちの生前の姿を懐かしみ、その理不尽な死を悼んでおられるようでした。私はヘルミロさんの眼差しの先にあるものを想像しようと努力することしかできませんでした。可能なかぎり、ひとり一人の人生を想像してみようとすること。理不尽な死を強要された人たちのことを。そして、いま私のまわりに生きている人にも同じように思いを巡らすことができるのか。そうすることが、チトさんが冊子のなかで述べられていたことと繋がってくるような気がします。過去から学ぶということは、いまは亡き人の人生に想いを馳せ、そして、いま私のまわりに生きている人たちの人生にまで心を届かせようと努力するということかもしれないと…。



リパ市パガオの井戸で起きた虐殺事件の犠牲者の遺族、アレックス・マラリットさんのことを思い出します。BFPが資金を集め、パガオの行政とともに作ろうとしている慰霊碑のためにアレックスさんが力を尽くされていることを知りました。絵を描くことに長けたアレックスさんはどんな慰霊碑がいいのかと、そのデザインまでご自分で考えておられました。住民の方々にもさまざまな考えがあってその通りにとはいかないようですが、BFP、パガオの行政、そして、アレックスさんが仲介者となって実現に向けて模索されている姿には感銘を受けました。BFPが時間をかけながら丁寧に紡いできたフィリピンの人たちとの関係があるからこそのことだと思うのです。小さなともし火であったとしても、そこに未来を感じました。私もこの慰霊碑の完成を見届けたいと思いました。



胸が痛むようなことが多いツアーのなかで、心和むこともありました。アレックスさんは、ナオコさんが初めてフィリピンに連れてきたトシくんにスポーツカーのおもちゃのプレゼントを用意されていました。まるで、トシくんのおじいちゃんのようでした。



誕生日が間近だったツアー参加者のタクミくんにアレックスさんはピアノ演奏のプレゼント。誕生日ケーキも用意されて、まるで誕生日パーティーです。


アレックスさんとユカコさんと私の3人で、アレックスさんのご自宅のまわりを散歩したことも忘れがたいです。お互いをいたわりながら、まわりの自然を感じながら一緒に歩くお二人の姿があまりに素敵で、私は思わずカメラを回してしまいました。「これがBFPなんだなあ」とひとりうなづいていました。ブリッジ・フォー・ピース…平和への架け橋、このお二人の姿に勝手にBFPの神髄を見ていました。


 忘れてはいけないのが、チトセさんとマイクさんご夫妻のこと。チトセさんのおいしい手料理とワインをいただきました。いい気分になってワインを飲みすぎ、私はかなり酔っぱらってしまいました。でも、そのおかげでリラックスできたのか、マイクさんの生い立ちなんかも聞くことができました。日本で差別に苦労されたマイクさんのお話、もっとゆっくりと聞きたかったです。お二人が毎週日曜日に出店されているサンデーマーケットにも2回、お邪魔させていただきました。次はぜひ、泊りがけでゆっくりとお話がしたいと思っています。
 
一緒にツアーに参加した方々のことも強く心に残っています。トモミさんとはツアー後、一緒にモンテンルパのニュービリビッド刑務所を訪問しました。トモミさんのIDカードのおかげで敷地の中まで入って写真を撮ることができてラッキーでした。タクミくんとエリコさんとは「教育」について、朝食の時間にお話をすることができました。タクミくんは「教育ってなんだ?」って哲学や思想からも問おうとしていて、その真摯な姿にとてもうれしい気持ちになりました。エリコさんとは地元で展開されているコミュニティーカフェについてもっと話がしたかったです。ユカコさんとは二日間ではありましたが、とても濃厚な時間をともにしました。戦争捕虜の話は知らないことばかりで、とても興味深かったです。これからもいろんなことでお話を聞かせてほしいと思っています。
食事をさせていただいたユニカセ・レストランの中村八千代さんもとても素敵な方でした。さまざまな問題を抱えながらも、いま、スタッフとともにレストランのある建物に家族のように一緒に暮らしながらレストランを経営されています。ほんとに、ユニカセ、ユニーク、ここにしかない形なのです。それがとっても素晴らしくて、ツアー後、私は3回もお邪魔させていただきました。

もっともっと今回のツアーを通して出会えた人たちがいます。ここには書けなかった人たちにも感謝しています。そして、こんな豊かな人たちとの出会いをプレゼントしていただいたBFPに心より感謝の気持ちを伝えたいです。ありがとうございました!

| フィリピン訪問レポート | 13:45 | comments(0) | - | pookmark |
活動を繋いでくださる会員の皆様への感謝
14回目となる、BFPフィリピン・ツアーを開催しました!

気づけば、私がBFPを始めたきっかけとなった青山学院大学の雨宮剛先生によるフィリピン体験学習に参加したのも、その第14回目でした。感慨深いです。

さらに、今年は初めて4歳になる息子を同伴しました。戦争体験者の皆様が喜んでくださり、ツアー参加者の皆様もあたたかく迎え入れてくださって本当に有り難く思いました。ツアー参加者の皆様、本当にありがとうございました。


今回、改めて湧き上がってきたのは「BFPツアーにこれまで参加し、繋いできてくださった方々への感謝」です。息子の妊娠・出産でフィリピンに行けなかった年もあった訳ですが、その間繋いでくださった会員の皆様の存在があります。

式典では初めて
「毎年、出席してくれているブリッジ・フォー・ピース」という紹介があり、受け入れて頂いているのを実感する事ができました。


マニラ市街戦の追悼式典には今回のツアー参加者に加え、他のBFP会員さん複数が合流してくれました。それをみたフィリピン人からは「BFPファミリーだね」とコメントがありましたし、ある戦争体験者が、「これまでのBFPツアー参加者全員集うツアーが出来たらいいね」と目を細めて話す姿が印象的でした。気づけば、これまでのツアー参加者総数は40名になりました。

他にも様々な出逢いに恵まれたり、虐殺事件を生き延びた97歳になるコルネリオさんとの再会も果たす事が出来ましたが、その一方、帰国直後に大変お世話になった97歳になる元日本兵・池田幸一さんの訃報が入りました。

残された時間は限られています。
繋いできたご縁を、恩師が私に託してくださったように、私たちの世代からまた次の世代にバトンタッチしてもらえるように、引き続き頑張っていきたいと思います。
| フィリピン訪問レポート | 12:48 | comments(0) | - | pookmark |
多くの学び、発見、出会いがあった何にも代えがたい経験(天沼えり子)
1.はじめに
 フィリピンには以前より興味があり、一度“生の”フィリピンに触れてみたいと考えていた。というのも2011年から数年間フィリピンの若もの支援に関わっていたので彼らの母国については断片的に話を聞いていたからだ。ただその時はフィリピンでの日本軍による加害の歴史に目を向けることはなかった。中国、韓国については様々な本を読んでおり多少活動にも参加してきたのに、なぜかフィリピンについては知識も興味も欠落していたことを認めざるを得ない。
 今回はBPFのツアーに参加でき本当に貴重な経験をさせていただいた。短い滞在にもかかわらず多くの学び、発見、出会いがあった。書きたいことは多々あるが今回は「加害の歴史に向き合う」というテーマに絞って記述することとする。

2. 加害の歴史に向き合う
恥ずかしながらこれまでフィリピンでの日本軍による加害事件については大雑把な知識しかなく具体的なことはほとんど知らなかった。1945年2月3日から3月3日はマニラ市街戦で市民約10万人が犠牲になり(但し米軍の砲爆撃による死者も多数)同時期にマニラ市内およびバタンガス州でいくつもの住民虐殺があった。今回はその中で二つの現場を訪れた。
一つはリパ市パンガオ集落で70人ほどの男性が銃剣で刺され二つの井戸に投げ込まれたという虐殺事件現場である。そのうちの一つは案内がなければ全く気づかない林の中にあった。もう一つの井戸は民家の敷地内にありどちらもコンクリートで蓋をされ虐殺の痕跡は全くないが私たちはそれぞれの現場で焼香し黙とうをささげた。20メートルもの深さがある井戸にまだ生きているのに投げ込まれた人たちもいたようだ。おぞましい光景が頭に浮かびその場を逃げ出したい気持ちにかられた。加害者は私の父、祖父世代の日本兵なのだ。


この虐殺事件で父親と叔父二人が犠牲になった遺族のアレックス・マラリットさんにお会いしお話を聞くことができた。アレックスさんは1935年生まれで82歳。お父さん、叔父さんたちが連れ去られようとしたとき小さい妹が父親の足にすがって泣いたことが強い印象として記憶に残りその情景を描いた絵がある。彼は作家石田甚太郎の著書に刺激を受け何枚も虐殺場面の絵を描いており直接見せていただいた。当時9歳で直接現場を見ているわけではないが遺族としての無念な思いと二度とこんなことをさせないという強いメッセージが伝わり深い感動を覚えた。
重い空気が流れたあとは美味しいリパ産のバラココーヒーとフィリピンのお菓子で心温まるもてなしを受けた。今回アレックスさんのお宅には短いツアーの中で3回もお邪魔し大変お世話になった。


もう一か所訪れた虐殺現場はバウアンにある教会である。2月28日にこの教会に通行証を発行するという名目で400人近い男性が集められ、その後すぐ近くの日本軍が接収した有力者の邸宅に移動させられた。建物にはあらかじめ黄色爆薬が仕掛けられており建物ごと日本軍が爆破し328名が亡くなっている。その時かろうじて現場から逃れ一命をとりとめた生存者の一人、コルネリオ・マラナンさんに会うことができた。当時25歳。現在97歳で4世代の家族に囲まれ幸せに暮らしておられる様子に勝手ではあるが日本人として多少救われる思いがした。
マンドリンに似た楽器を演奏してくださったり一緒に歌ったりここでも幸せでやさしい時間が流れていった。多大な被害を受けた方たちからこのようなもてなしを受けフィリピン人の懐の深さにつくづく感じ入った。


3.メモラーレ・マニラ1945
2月10日は朝8時半よりイントラムロスで市民団体「メモラーレ・マニラ1945」主催によるマニラ市街戦の犠牲者追悼式典が開催された。日本から政府関係者の参加があるのかと思っていたらとんでもなく、日本大使館に招待状を出しても返事もないと聞き愕然した。一方BFPのような小さい民間の団体が毎年追悼式に参加し、挨拶の中で必ず日本人として謝罪の言葉を述べる姿勢は大きな意義があると確信する。今回も代表の神直子さんのスピーチは共感を呼び地元の新聞にも掲載されたそうだ。


おわりに
今回のツアーで日本軍がフィリピンにもたらした加害の大きさが想像をはるかに超えることを実感した。知識不足を補うため帰国後BFPが積み重ねてきたこれまでの記録や石田甚太郎著『ワラン・ヒヤ』と『殺した 殺された』を読み、フィリピンで何が起きたのかある程度実態を把握できた。今もっとも心に引っかかっていることは石田が取材した元日本兵の多くが住民虐殺を「上からの命令だから仕方なかった」と自己弁護していることだ。
ドイツと違って過去の清算をきちんとしてこなかった日本。現政権の動きをみていると再び「戦争のできる国」に戻ろうとしているのではないかという危機感が募る。今後どういう方向に舵を切るのか決めるのは国民である。先の戦争前と違い声を上げることはできる。過去に学び一人ひとりが自分の頭で考えることで日本を誤った方向に向かわせないようできるはずである。

フィリピンスタディツアーから帰って早くも3週間がたってしまいました。たった5日間でしたが多くの学び、発見、出会いがあり何にも代えがたい経験ができました。BFPがこれまで地道に活動を続けてきたからこそと感謝しています。
| フィリピン訪問レポート | 10:34 | comments(0) | - | pookmark |
企業様の若手研修でワークショップ
先日、ある企業様の若手研修にお招き頂きました。「平和」について考える年一回の機会ということで、平和に関する映画を観たり、空襲体験者に話を聞いたり、2日間の充実したプログラムが組まれていました。

BFPは「過去の戦争を知り、未来のかたちを考えるきっかけをつくる」という事がミッションですので、<未来に向けて自分に何ができるか>というテーマ設定をさせて頂きました。

グループに分かれ、30年後の未来を想像して頂いたり、何ができるか具体的な案を個人ワークおよびグループで話し合いながら進めて頂きました。
| - | 13:34 | comments(0) | - | pookmark |
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