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BFPフィリピン・ツアー2016
今年3月に3泊4日で実施した、フィリピン・ツアーのレポートです。
ぜひご覧ください。



フィリピンツアーを終えて(金子聖奈)

これまでのBFPツアー参加者全員に感謝(神直子)
二度と同じことを繰り返さないためには、語り続けていくこと(畑江奈つ希)
| フィリピン訪問レポート | 23:02 | comments(0) | - | pookmark |
フィリピンツアーを終えて(金子聖奈)
帰国して一か月経ってもなお、あの4日間の記憶は色濃く残ったままだ。
私にとって2度目のフィリピンだったが、1度目の新鮮さもそのままで、しかし1度目よりも心に余裕ができて、フィリピンという国と、人と、しっかり向き合えたような気がする。Bridge for Peaceのメンバーとしてフィリピンに行ったのは初めてで、BFPのレポートではあるが個人的な話になってしまうが、ご理解いただけたらと思う。

そもそも今回私がBridge for Peaceのフィリピンツアーに行きたいと思ったきっかけは、1度目に渡比し、ホームステイをしていたときの、ホストマザーの言葉による。私のホストマザーと8人姉弟の一番上の21歳のホストシスターはとてもまじめな方で、夜になり妹や弟たちが寝静まった後毎晩、日本のことをたくさん私に質問した。
東日本大震災のこと、今の日本の政治のこと、私の故郷のこと、日本の宗教のこと。そして、太平洋戦争のこと。
私は恥ずかしいことに、まずそもそ、日本がフィリピンを占領していたということすらそのときピンと来なかったのだ。そして、ホストマザーは「私の祖父は日本軍に連れていかれた。祖母は母や兄弟を連れて逃げた。山をひたすら登った。祖父は帰ってこなかった。これが、私たちの家族に伝えられている話だ。」と語った。私は何も言うことができず、ただただ悔しく、悲しく、申し訳なかった。我々日本人の学生を自給自足の生活のなかに無償で受け入れてくださっていたホストファミリー、ならびにフィリピンの方々に本当に失礼だったと今改めて感じる。

帰国後Bridge for Peaceという団体と、その活動を知り、飛びつかずにはいられなかった。そして今回、神直子さんにツアーに誘っていただき、今度は以前のような「異文化交流」というなんとも日本側のエゴでしかないような目的ではなく、「太平洋戦争におけるフィリピンと日本の関係を、直接体験を通して学び、何かに生かせるようにしたい」という思いで、Bridge for Peaceのメンバーとしてフィリピンに行くことを決めた。

そんなふうに勇んでフィリピンに行ったものの、フィリピンにいる間はずっと、「悔しい」という気持ちでいっぱいだった。目の前に問題はたくさんある。それを、今目の前にいる人が語ってくれている。それなのに、解決に向けてすぐに着手できない自分の青さも、それらの目の前に転がってるたくさんの問題や知や歴史を、自分の頭ではまず全部吸収しきれない未熟さも、団体の一員として来させてもらっているのに、BFPという団体に何1つ貢献できておらず、何のためにここにいるんだ!という自分への怒りも、戦争で生き残った人は、どんどんこの世を去ってしまっていて、直接触れる機会がどんどん少なくなっているというのに、もっと早くこの場に来れなかったということも、
ホストマザーに聞くまでは戦争を語ったフィリピンの方々に関心すらなかったことも、それがどれだけ貴重なお話かも分からなかったことも、ひとつひとつそれぞれに、とても悔しくて、「できない」「知らない」ということの恐ろしさを身をもって感じた。

日本軍から逃れたコルネリオさんにお話を聞いていたときは、神さんが「3年前はもっと体も丈夫だった」とこぼしたとき、「こうして語る人がいなくなってしまったあとは、どうやって記憶を受け継げばいいのだろう?誰が、フィリピンの人々の思いを日本で訴え続けられるだろう?なぜもっと早く来れなかったのだろう?」と、悔しさとも焦りともつかない思いでいっぱいになり、涙が堪えられなかった。
私がそこまで「知らない」ということに対して焦り、知ろうとするのは、「知らない恐ろしさ」を知っていて、それに直面していたからだと思う。
知らないから、ホストファミリーに失礼なことをした。嫌な思いをさせた。知らないから、日本で何もせずにのうのうと暮らしていた。何も知らないで、「異文化交流!」なんて声高に言っていたことが恐ろしい。知らないから、知っていればできることもできなかった。知っていればできることがあるのに、気づけなかった。

私はBFPの会員になったのも最近で、貢献できていることはまだ何一つなく、知っていることも少ない。BFPのためになにか貢献できたかと聞かれたら、全くできていない。むしろこのツアーを通して、学ばせてもらったことばかりだ。今回は、BFPが長年付き合いを続けているアレックスさんのお父様も被害に遭われた虐殺のあった井戸に「慰霊碑を建てる」というプロジェクトが具体的に動き出した。その瞬間に立ち会えたことに恐縮するとともに嬉しい気持である。プロジェクトの始動を目の当たりにして、記憶を直接に語れる人はいつかはいなくなってしまうけれど、こうして着実に努力を続ければ、記憶を繋げていくことはできるのだということも、すっと胸に落ちてきた。そのプロジェクトを進める話をしていたときの神さん、その地域のトップの方、そしてアレックスさんの笑顔は忘れられない。今までBFPでやってこられた神さんをはじめとする皆さんには、本当に頭が下がる。

アレックスさんは、10代でしかも童顔な私のことをしきりに「Baby! Baby!」と言って可愛がってくださった。一緒に食事をしたり、雑談をしたりと、交流の時間はとても楽しかった。アレックスさんはどんな思いだったのだろう。私は英語も上手ではないから、「この子とは当たり障りない会話で」と気を遣わせてしまっていたのかもしれない。そう考えるとまた悔しくなる。しかし、今回のフィリピンツアーを通して、自分がいかに「知らない」か、「できない」かということを突き付けられたと同時に、「知れば知るほどもっと知りたい」「何かできることを早く見つけたい」という強い思いが芽生えた。悔しさは必ずいつか、達成感に変えたいと思った。もちろん達成感を感じてしまったらそこで終わってしまいそうだから最後の最後までとっておいて、しばらくはこの「悔しさ」を原動力にしていきたい。

次の8月から9月にかけて、またフィリピンに行く。再び、あのホストファミリーのもとでホームステイ。歴史や実情を知った今年は、去年よりももっと奥深いところで交流が持てたらいいなと思っている。そして、同様に日本でも、私のようにほとんど何も知らない若者が溢れている中に、風穴を開けられるような活動をして、貴重な証言を絶やすことなく受け継いで行けたらと感じている。それは選挙権を持って日本の政治に関われるようになった私たちの年代に、大きな意味があると思う。BFPに恩返しの意味も込めて、協力・貢献できることを全力で行いたい。

最後に、フィリピンツアーに誘ってくださったBFP代表の神直子さんをはじめ、岩崎敦子さん、畑江奈つ希さんには、感謝の言葉が尽きない。フィリピンという国や、出会った人々に学ぶことがたくさんある一方で、皆様からもたくさんのことを学んだ。尊敬できる皆様と一緒に旅ができて幸せ者である。本当にありがとうございました。これからも今回の経験をずっと忘れることなく、まだまだある知らないことを知れるよう、そして学んだことは形にできるよう、努力していきたい。
| フィリピン訪問レポート | 22:58 | comments(0) | - | pookmark |
これまでのBFPツアー参加者全員に感謝(神直子)
2016年3月、3年ぶりにフィリピンへ行きました。
とはいえ、その間も私以外のBFP会員さん達が毎年足を運んでくださっていました。

3年ぶりのフィリピンで感じたもの。
それは、現地協力者の方々の「まなざしの変化」です。具体的にいうと、それはBFPへの信頼とでも言いましょうか、これまでで一番関係性が深まっていると感じたのです。それなぜだろうかと、考えてみました。

やはり、継続して訪問してきたことが大きいのではないでしょうか。
そういう意味で、これまでBFPツアーに参加してくださったお一人おひとりに感謝です。特に、私が妊娠出産で渡航できなかった時期に支えてくださった浅川理事、畑江理事には心から感謝しています。これまでで総勢30名以上の方々が、BFPツアーに参加してくださいました。最初は日本人の国民性がわからず、「今、あの人はどういう気持ちなのか」と戦争体験者の方が聞いてくることもありました。それでも、フィリピンの方々は、毎年毎年やってくる日本人と触れ合い、印象が変わったり、心が通ったと感じてくださったり、そして友情を育んでくださったりしてきたのではないかなと思います。

BFPを始めた頃、大学の恩師から次のような言葉をかけられました。
「たとえ一人でも、戦争体験者の心に変化をもたらすことができたら、それはすごいこと」

その時は、その言葉の重みがわかっていませんでした。
そう、凄まじい体験をした方の心に変化をもたらすことは本当に難しいことなのです。そのことが、今は少しわかるような気がしています。

出会ってから8年が経つ戦争体験者の方がいます。
目の前でお父様を連行され、井戸に生き埋めにされた遺族のアレックスさんです。戦後、仕事などで海外へ行く機会が多かったと言いますが、
「たとえ乗り継ぎで日本を訪れる事があったとしても、空港の外には一歩も出なかった」と話していました。
BFPでも日本へご招待を申し出たことがありましたが、実現は叶いませんでした。

しかし、今回の訪問時に、アレックスさん自ら、
「日本に行くなら、どの時期がいい?特に学生と話すのに最適なのはいつ頃?」と聞いてこられたのです。
たとえ、今回も実現しなかったとしても、このような気持ちになってくださったというのは、まさにこれまで交流してくださったBFPツアーの参加者の皆様のお陰と思っています。

また、数年前に他界された戦争体験者のお宅を訪問したときのことです。
BFPが贈った写真立てが、居間の目立つ場所に飾ってあったのです。それは、アレックスさんのお宅でも同様でした。ほんのささやかな贈り物でしたが、形にして伝えることもいかに大切なことであるかを痛感しました。
*右が他界したロレートさん。左から二番目がBFPが贈呈した写真立て


このように、BFPの取り組みは小さなものではありますが、引き続き交流を続けることで、元日本兵が犯してしまった過ちが消え去ることはないにしても、少しでも、その心のトゲを抜くことができたらと思っています。BFPを始めた当初、ビデオ・メッセージによる交流が何をもたらすかわからず、手探りで活動していました。それが、少しずつ実を結び始めているのを感じられたツアーとなりました。今回ご一緒してくださった皆様、本当にありがとうございました。

来年は、アレックスのお父様が眠る井戸に慰霊碑を建てるプロジェクトにも、BFPが関わることができそうです。
また良いご報告ができるよう、頑張りたいと思います!
| フィリピン訪問レポート | 22:44 | comments(0) | - | pookmark |
二度と同じことを繰り返さないためには、語り続けていくこと(畑江奈つ希)
今年は2年ぶりのフィリピン訪問でした。
いつもよりも短い日数での滞在でしたが、今回は大きくプロジェクトがひとつ進み始めたこと、そして久しぶりの友人、戦争体験者の方々との再会で、とても充実した4日間をすごすことができました。

念願かなっての、フィリピン再訪。
空港に降り立った瞬間に全身で感じるフィリピンの空気が、とても懐かしく暖かい気持ちにさせてくれました。
自然が豊かでごはんもおいしく、何より人々が本当に暖かい。そんな大好きなフィリピンを思うとき、同時に心に浮かんでくるのは、これまでに触れてきた過去の数々の悲惨な出来事。

過去を知り、未来のカタチを具体的に考えていくために、
これから、この地をもっともっとたくさんの人と訪れることができたら、と思います。

今回は、以前証言を語ってくださったコルネリオさん、レメジョスさん、そしてアレックスさんに再会することができました。

そして、昨年亡くなったロレートさんのお宅にも、訪問させていただきました。
最後にロレートさんにお会いしたのは2年前。訪ねた時にはいつもご自身の体験を語ってくださいました。
自分の体に巻きつけたロープで、日本兵によって井戸に投げ落とされた犠牲者のうち4名を引き揚げ、救ったロレートさん。毎回お会いしていたのにあの場にいらっしゃらなかったことが現実のように思えず不思議な感覚でした。やはり時間は進んでいるのだということを実感した瞬間でした。



リパ市のパガオという地域に、合計約70名の方が虐殺された現場である2つの井戸があり、毎回訪問しています。
日本兵は井戸に集めた男性たちを縄で数珠繋ぎにしたあと、銃剣で次々に刺し、そのまま井戸に放り投げていきました。そしてその上からミシンやモーターなどを上から上から投げ落としたのです。

毎回お世話になっているアレックスさんのお父様も、この井戸での虐殺の犠牲者です。ここを訪れるときはいつも、あまりに凄惨なこの事実を、自分の精一杯の想像力を駆使して受け止めたい、理解したいという気持ちと、それに耐えきれない葛藤とで本当に苦しい気持ちになります。そして何より、深い悲しみにつつまれ、険しい表情になるアレックスさんを目の前に、何も言えずただただ涙があふれてきてしまいます。

今回、ここを訪問したのは4回目。
毎度、悲しく、悔しく、苦しい気持ちに支配され、二度と同じことを起こすまいと心に決めるのですが、今回は少し違った気持ちでした。

私は毎回ここにきて、想いを馳せ、ただただ過去の事実を受け止めようと必死になるけれど、そんなことを続けてきて5年・・果たして自分が心に深く刻み込んできたことを、私は充分に行動にうつし、何かをすこしずつでも変えていけているのだろうか、自分への疑問がわきました。
ここにきて、毎年泣いているだけでは、何も変わらないのに。変わらないどころか、日本は今、戦争を合法的にできる国になろうという動きがあっている。情けなさでいっぱいになってしまいました。

私は7年前にBFPに出会ってから、過去の事実をきちんと知りたい、知った事実を広く伝えていきたいと思い、平和な社会を実現していくために自分には何ができるのかを考えながら生きてきました。
そして、その社会の実現を「教育」というかたちで叶えようと、やっと決めることができました。

自分たち、自分の子や孫、そしてその次の世代でも、もう二度と同じことを繰り返さないためには、語り継ぎ続けていく、ということに尽きると思います。リアリティをもって伝えていくこと、自分事に引き寄せて考えることのできる環境をつくること、これこそが知ったものとして私にできること。
BFPのビデオメッセージを教育現場で上映できる機会を、これから増やしていけたらと思います。

今回のフィリピン訪問では、虐殺現場である井戸に、碑をたてるというプロジェクトが大きく動き始めました。これまで継続して現地の方々と交流を続けてこられた神さん、そしてツアーに参加されてこられたたくさんの方々の思いの積み重ねでこうして物事が大きく動いていくのだということを実感し、嬉しく思います。
知らされることがなければきっと誰も足を止めないだろうというような場所にある、この現場に、この碑をつくることで、より多くの人に当時の事実を知ってもらうきっかけになればと、心から思います。

今回も多忙の中多くの時間を共に過ごしてくださったしてくださったRandyさん、Alexさんはじめ、再会してくださった方々、最終日夜にはご自宅に泊めてくださり大変お世話になりました、加藤千登勢さあん・マイクさん、そして一緒に今回のツアーを過ごすことのできた神さん、岩崎さん、金子さん、本当にありがとうございました。
| フィリピン訪問レポート | 22:03 | comments(0) | - | pookmark |
2015フィリピンツアー
これまでブリッジ・フォー・ピースは、何度もバタンガスを訪れ、証言を英日でまとめた冊子もオンラインで公開されています。
 ブリッジ・フォー・ピースによるフィリピンへの訪問は、マニラ市街戦を追悼するメモラーレ・マニラにあわせて2月になされてきました。
 今回は、これまでおこなってきた英語教師とフィリピンを訪ねる経験と、
   ブリッジ・フォー・ピースの合同で企画したもので、参加者は、英語教師4名と大学生、それとNGOの所属する者とわたくしとで7名でした。これまでのようにバウアンではランディさん、リパではアレックスさんに世話になりました。マニラにおられるデリックさん、バーナードさんとも連絡は入れていました。
 ケソン・シティのミリアム大学では、平和教育研究所とのご縁でブリッジ・フォー・ピースのビデオ上映およびワークショップをさせていただき、リラ・フィリピノという団体も訪ねました。また、参加者の知人の紹介で100才になるバターンでの元フィリピン兵の方のお宅を訪ねることもできました。
 Bauan(バウアン)教会でランディさんと午前10時に待ち合わせ、教会堂および事務所・司祭館を案内いただき、祈念碑を訪ねました。教会では偶然、神父の方といきあって、教会事務所・司祭館の改築工事で、人骨がでてきたお話もうかがいました。プラザの祈念碑のある一角の照明施設は、あたらしくなっていました。
 昼食後、ランディさんにご案内いただき、オルネリオさん、そしてレメディオスさんの家を訪ねました。ランディさんが、2月28日には式典があるので、ぜひ来て欲しいと何度もおっしゃっていたのが印象にのこっています。
 アレックスさんは、腰痛があるようでしたが、お元気でした。17年間使っているホンダの車は、ブレーキがきかず、エンジンブレーキとハンドブレーキでやりすごしているとの話には驚かされました。午前9時に博物館を訪ね、博物館の展示を見てまわった後、あらかじめお願いしていたスケッチ(石田甚太郎さんの本に触発されてアレックスさんが書いたもの)を見せていただき、別室で交流をしました。託されていた神さんの著書を贈呈させていただくと、とても喜んでおられました。
 パガオの井戸にはご一緒されませんでしたが、昼過ぎに博物館に戻ると、そこからまた午後2時半くらいまで、同行いただきました。パガオの井戸には、博物館の若いオビさんに案内していただきました。ロレートさんのところの娘さんをたずねたのですが、今回も不在でした。近所のロレートさんの孫とおぼしき方とオビさんとで、茂みにわけいり、まずアレックスさんのお父さまの眠る井戸で灯明をともし、黙祷をしました。また道路を隔てた民家にある別の井戸のところでも灯明をともし、黙祷をいたしました。
 帰路、「比日文化協会」三木睦彦さんによる平和の塔へも連れていってもらいました。今回は、事前には平和の塔に寄ることは要請していなかったのですが、お話のなかで、寄ってみましょうか、ということになったわけです。他でもそうですが、現地でどのように受けとられているのかが気になるところでしょう。リパには、旧日本海軍飛行場があり、壕が発見されたとのお話をうかがったことがあります。戦跡も多いのではと推測されます。
 8月7日午前、ケソンシティにあるミリアム大学でワークショップをおこないました。ミリアム大学ではワークショップをさせていただくよう、平和教育研究所所長のハスミンさんと連絡をとっていました。
 ハスミンさんには2014年の2月に訪れた際、ブリッジ・フォー・ピースのビデオをごらいただいた経緯があります。ハスミンさんは不在でしたが、平和教育研究所のミヤマさんにより、元所長のロレッタさんが受け持たれている国際関係学部の平和入門の授業(2回目)で、ブリッジ・フォー・ピースのビデオを学生さんに見ていただき、感想を書いた後、グループで意見交換をし、全体で共有をするようにすすめました。
 フィリピンにおいて日本人が日本兵の証言ビデオを上映するということは、どういう意味なのか、当時、誰も戦争に反対できなかったということで、免罪符のようにならないか、問われるところでしょう。本来はフィリピン人の教育者にゆだねるべきところでしょうが、交流をすすめたいものです。
 授業後、応接室で、ケータリングでご馳走をいただきました。その際、ミヤマさんが、ミンダナオの和平問題を熱く語っておられたのが印象的でした。
 午後は、リラ・フィリピーナによるロラズハウスも訪ねました。
 ロラズハウスはマニラのロラたちの交流する場所としての役割も果たしているとのことです。
   事務局長ほか2名の当事者の方からお話をうかがいました。8月14日には日本大使館前でのデモも予定しているが、ロラは6名ほどしか参加できなくなっきているとのこと。施設も老朽化し、日本からの募金もなされているとのことです。地方の被害者と支援団体を訪ねたことがあるのですが、田舎で暮らすロラより、町では孤立して暮らすことになり、労苦が深刻なように見受けられました。当事者が高齢化するなかで、将来につなげる運動を継続していく決意も語られました。
 8月8日午前9時に、知りあいを介して紹介いただいたバターンでの生存者のアキノさんを訪ねました。耳が不自由のようでしたが、理科の教師というお孫さんに紙に大きな字を書いていただきながら、当時の様子をお話いただきました。
 8月9日は、デリックさんとメガモールで落ち合い、国立博物館を見学しました。昼食をし、イントラムロスの記念碑、サンチャゴ要塞を歩きました。ホテルに着くと、バーナードさんがおられ、ラッキーさんを紹介されました。ラッキーさんから Manila 1945 という写真集を神さんに寄贈するよう託されました。
 翌日、ソリダリダッドという書店に寄り、空港に向かい、帰途につきました。
 当事者の方が、同じ話をくりかえして話すことには、負担にならないかという懸念を問われました。団体では、運動の一環として証言者が話しをするわけですが、、一般の方の場合はどうか。ブリッジ・フォー・ピースは、個人的なつながりをたいせつにしてきていて、オルネリオさんは、日本からお客がきてうれしい、と喜んでいるように見受けられました。レメデォオスさんは教師としてのメッセージを伝えたいようで、それらを受けとめなければならないように思います。ランディさんからは、式典に参加してほしいということもあり、そうした期待に答えることも必要だと思いました。
 アレックスさんから協力者にたいして感謝状をだしたらどうか、という提案をいただいています。平和のためにと、とても前向きな印象でした。(淺川 和也)

| フィリピン訪問レポート | 13:41 | - | - | pookmark |
フィリピン訪問報告(淺川和也:BFP理事)
 I. はじめに
ブリッジ・フォー・ピース(BFP)は、現地の方とていねいに絆をつくってきている。当事者の声をどう聞くか。これまでの記録もあるが、その場に身を置き、生の姿を受けとめたい。そうできたのか、不十分であったとの思いもある。今年は70周年ということで、特別な意味もあった。わたくしを含めて6名が、メモラーレ・マニラ(マニラ市街戦慰霊祭)に参加をし、バタンガスを訪ねた。わたくにとっては2度目のメモラーレ・マニラへの参加とバタンガス訪問であった。参加者のふりかえりを、わたくしの回想に折り込んだ形で報告をする。さまざまな経験をもつ参加者や現地の方がたに恵まれ、実りある経験をいただいた。

II. メモラーレ・マニラ((MEMORARE-Manila 1945)
 メモラーレ・マニラについては、BFP理事の中野聡さんの書かれたものに詳しい。
http://www.ne.jp/asahi/stnakano/welcome/apwar/50years.html
 慰霊祭の後でお会いした高木さんによれば、メモラーレ・マニラの関係者は、2007年に放送された「証言記録 マニラ市街戦 〜死者12万 焦土への一ヶ月〜」にも登場されているとのこと。
http://www.nhk-ep.com/products/detail/h17835AA
 メモラーレ・マニラは、イントラムロスというスペイン時代の城壁内にあるマニラ聖堂やサン・アグスチン教会の近くに20年前につくられた記念碑の前でおこなわれた。ちょっとした広場になっているが、普段は、観光客は通りすぎる場所でもある。
 仰々しい日本での式典とはことなる印象で、わたくしたち6名もどこにいたらよいかもわからず、なんとなく会場に入った。
 軍楽隊の演奏による国歌斉唱があり、軍人に引率されて献花をおこなった。軍人がおもてにでるというのには、異和感を感じた。くり返し戦争でのことを若い世代に伝えていくことが重要だと、述べられたのは印象的だった。顔ぶれを見ると、ラーレ・マニラの関係者が高齢化している様子がわかる。次世代への継承ということがくり返されるのもうなずける。
 ジョン・ホセ・ロチャ代表は「日本による補償を」と訴え、エドガー・クローンさんによる日本軍による虐殺現場を列記した記念碑の除幕もなされた。駐比米大使やメキシコ各国大使のほか、ラモス元大統領が出席していた。以前、日本大使が、一度、参列したことはあったと聞くが、日本政府関係者の参加がないのはなぜだろうか。
 1月下旬にミンダナオで起こった特殊警察部隊49名が亡くなるという事件のこともあり、ラモス元大統領を目当てに報道陣が取り囲んでいた。戦争は選択肢とすべきではないとの演説に、軍の音楽隊による次第で式典がなされるのは矛盾のようだが、武力によって反政府勢力を制圧がなされる、という現実はあるのだろう。
 スペインからの独立そしてアメリカ支配、日本侵略、独裁への民主化というフィリピンの歴史があるなかで、日本とは今後どのような関係をきずいていくのが問われる。現地にいる高木さんが経験されたように、親しくなってやっと、戦争の話がでてくる。その時、こうした歴史を心得ていなければならない、とおっしゃっていたのが印象にのこった。
 http://primer.ph/cms/archives/column/2008/10/24174048.html
 フィリピンに学ぶ会をされている高木さんと会食させていただいた。時間があれば、イントラムロスのカーサ・マニラ博物館を見ると、スペイン時代のフィリピンがよくわかるとのことだったが、リパでの予定もあり、移動の途についた。バレンタインデーの土曜日ということで、マニラは大渋滞であり、3時間ほどかかった。リパにて、デリックさんに戦跡を案内いただくという予定であったが、デリックさんはマニラにいるとのこともあり、その予定はキャンセルして、SM(シュー・マーケット)モールにて関係者への土産を購入する時間にあてた。

III. バウアン教会(記念碑)およびコルネリオさんおよびレメジョイスさん訪問
 バウアン教会にランディさんを訪ねた。日曜日かつ、バレンタインデーということもあり、たいへんな渋滞で時間がかかった。バウアン教会にて、ランディさんとおちあい、教会のミサ(朝5時から1時間おきにあり、午後は葬式があるとのこと)や洗礼式を眺めたのち、副司祭を訪ねて懇談した。司祭は、時間がたって日本との関係も変わり、戦争のことは過去のものになったと語った。フィリピンの若い人たちは、一般に、戦争のことにはあまり関心がないというのは事実であろう。2月29日には慰霊のミサがあるとのことだが、聖職者がどのような話しをするのか、興味ぶかい。
 1945年2月28日未明、バウアン教会に400人ほどの男たちが集められた。爆弾をしかけられた屋敷に押し込められ、爆破で328名がなくなった事件があった。この事件を記念した碑が20年ほど前に教会の前につくられた。昨年、ホテルの建設にともなって移転が余儀なくされ、交番もある公園のようなところに移設された。ランディさんは犠牲者の子どもさんであり、きちんと移設作業がなされるよう、見守っていたとも語っていた。記念碑には、中央に抗日ゲリラの人たち、右手に民間人犠牲者、左手にスペイン時代からの歴代市長の名前が刻まれていた。
 ランディさんは午後は、家族とのことがあるので、時間がとれないということだったが、結局、午後4時ころまで、おつきあいいただいて、コルネリオさん、そしてレメジョイスさんのお宅へ案内いただいた。
 コルネリオさんは、バウアンでの爆破事件で生き延びた40, 50名のうちの唯一の生存者で94才になる。息子さん家族とお住まいだった。耳も遠くなり、息子さんから耳元で、わたくしたちのことを伝えていただいた。BFPの『忘れないでほしい、私たちの「声」』の冊子を見せると、うれしそうだった。ただ、当時のことも言葉にするのは難しいようで、ただ、しきりにデジカメで撮った写真を見たがったり、無邪気な様子が救いであった。
 レメジョイスさんは89才で当時19才だったとのこと。日本兵は当初から残虐であったわけではなかった。何がそうさせたのか。日本軍による住民統治は、戦局によって激変した。このような事態に住民はどうだったのか。普通の生活がここにもあった。フィリピンでは「過去のことは許したい、けれど忘れはしない」とよく言われるが、実際はどうなのか、単純なことではないであろう。
 当事者の方が高齢となるなかで、どのような形で交流をしたらよいのか、こちらがわのかまえが必要に思えた。
 リパに戻ると、アレックスさんからメッセージがあった。午後2時ころ、わたくしたちを訪ねられたとのこと。再度、連絡を入れてお待ちし、夕刻、会食をした。

IV. 博物館訪問・アレックスさんらとの交流
 アレックスさんは、午前中から午後にかけて、親類の方とご用事があるとのことだったが、やりくりをしていただいて、博物館でおちあった。展示を見学をしながら、お話をうかがったり、偶然、博物館を見学に来ていた大学生もさそって懇談した。
 アレックスさんは、かつて博物館に勤めておられたとのこと。また、石田甚太郎(『バタンガスの空の下で』:The Remains of War )さんの作品に触発されて、アレックスさんが描いたスケッチが見学した。例年、2月3月に特別に展示しているとのことであった。
 昨年同様、現在の博物館の責任者と、その人の大伯母にあたる方もおいでになり、戦争で未亡人になった人が多かっことや、戦後の窮乏生活をうかがった。博物館でのアレックスさんのスケッチの特別展示の際にノートやカードを置いておいて、参観者が何か書き残すようにしたらどうかとも具申したい。
 博物館訪問の後、井戸から4人を救出したロレートさん宅を訪ねた。昨年、訪ねた時、言葉も不自由で心配していたが、11月に亡くなったとのこと。となりに住む親類にあたる方に2つの井戸を案内していただいた。それぞれの井戸で、灯明をともし、祈りをささげた(風がつよくロウソクが消えがちだったので、工夫が必要だと感じた)。
 1つめはロレートさんが4人を助けたという井戸だった。ロレートさん宅の戸口にも井戸があったが、そこではなく、アレックスさんのお父さんが殺された井戸と道をはさんだ家の街区の薮のなかにあった。今年は民家の側からまわりこんで訪ねた。
 いずれの井戸もコンクリートで覆われていた。見上げると青い空が広がる。過去と現在が交錯した感じだった。バランガイ・キャプテンが居合わせて、被害者の名前をあきらかにしたいという話を聞いたりもした。過去の記憶がうすれていくなかで、このような努力に期待したい。2つの井戸とも、何もしるされずあった。いづれ碑をたてる手伝いをしたい旨を伝えた。
 「一列に並ぶように命ぜられて殺された」との話に、ホロコースト生存者の話にあるナチスの収容所でのことをや、現在でのパレスチナ問題やさまざまな紛争での共通点を思い、かつての日本軍の蛮行を思うと、現在の世界のこととつながっているとの感想があった。
 悲しみや憎しみは、だんだんと消えていたったというのは事実であろう、このような交流をとおして、次世代への継承、ともに将来のために何ができるか、さぐりたい。

V. UPマニラ校でのワークショップ交流
 当初、サンペロハンのドミナドォアさんを訪ねる予定であったが、往路の時間を考慮して、みおくることにした。2日目に会えなかったデリックさんに連絡をとり、マニラにて11時ころにお会いしたいと申し入れた。デリックさんとの昼食の後、博物館になっている旧財務省の建物を見てから、ソリダリダッドという書店に寄り、UPマニラ校でのワークショップをおこない、突然、学部長らへの表敬訪問をすることになった。
 UPマニラ校の付近は一方通行もあり、渋滞もしていて、心配したが、バーナードさんの所属する研究室を訪ね、教室に案内された。あらかじめ、戦時中の新聞にあたって、エッセイを書くという課題がだされていたようで、わたくしたちへと渡された。プロジェクターはあったが、投影ができず、ノートパソコンをのぞき込むというようなやり方だったので、英語字幕を頼りに、元日本兵の証言については、かいつまんで口をはさんだ。バーナードさんによる導入の後、ビデオを見てから、5つのグループにわかれて10分間ほどの短時間であったが学生の皆さんと交流をすることができた。
 ビデオのなかで、軍国主義のなかで日本兵が好んで殺戮をしたのではない、との証言に、日本兵は鬼ではなかったということがわかったとの学生さんの反応があった。戦争の残酷さは、何がそうさせるのか、根本は何か、天皇制の問題も問われなければならない。また、現在での世界各地の紛争や、フィリピンであればミンダナオでのこととのつながりも話題とる。ビデオの感想ではなく「戦争のことを家族から聞いているか」「学校で教わったことはあるか」ということからはじめたグループもあった。若い世代は、これからのことに関心があり、過去の過ちをくりかえさないようにするには今後どうしたらよいか、ということに焦点をあてたらよいという意見もあった。また、日本の同年代の人はどうか、このビデオを見てどう思うか、知りたいという問いかけもあった。
 学校で歴史を教えることもだいじなことだが、時代をこえて、人びとがどう受けとめていくのか、できごとは風化しても、社会のなかに語りつがれていくことがあるようにも思う。「山下財宝」の伝聞や、大学であった日本兵の切腹「事件」などがある。
 日本からの訪問者に対して、すぐには、話せないのかもしれない。フィリピン社会では、年配者に対して、距離をおく心情があり、同年代での交流のなかで、率直な話ができるなので、今後も学生さんどうしの交流ができたらよい。
| フィリピン訪問レポート | 22:26 | - | - | pookmark |
70年という時間の意味を考える(宮脇聡史:大阪大学 外国語学部フィリピン語専攻 教員)
  今回のスタディツアーに参加した主な理由は、マニラ市街戦70年の式典に立ち会うことでした。それは、BFPの活動の積み重ねの中で出てきたことでもありますが、今回のツアーが引き続き被害者の訪問を主な目的としていたことを考えると、やや独特の目的の立て方であったかもしれません。しかし、時間の経過の中でどのように歴史を共有し、継承するかというのもまたBFPの活動の趣旨の一つでもありますし、またフィリピン・南部ルソンのバタンガス州での戦争体験者や記念碑等の訪問、交流においても、この私の目的は十二分に意味を持っていたように思います。 

 私がこのような理由、目的を立てたのは、自身の現在おかれている立場ともかかわることでしょう。フィリピン語専攻の教員として、学生たちが留学等で現地滞在を重ね、特に同世代同士の交流を進めていく中で、日比双方の青年たちにとってはかなり遠い過去となってしまった、そして同時に語り継がれ方が双方で相当に異なる、かつて日本とフィリピンが濃密に「交流」することになった、アジア太平洋戦争下での占領統治の歴史は一体どのような意味を持つと考えるべきか。留学経験者がこの点に関する日本への反発をほとんど経験することなく、また事前に学んで望んだ場合にもどうも先方との反応のずれを経験してしまうといった、私自身も経験してきた問題について、今一度しっかり考えることが、日比関係だけでなく、フィリピン語専攻において不可欠な、フィリピン・フィリピン人・フィリピン社会の理解を深めるためにも重要ではないかと思ったのです。 

 また、私自身は戦後50年の時期に、それなりにアジア諸国の中で起こった議論を背景に大学生活を送ってきました。私の理解や姿勢はその時期に養われてきたのですが、しかしそこから20年を経て、大きく前提が変わっているように思えます。20年前、アジア諸国の民主化と共に強まった、アジア諸国間での、国家間を超えて草の根レベルまでを含んだ戦争をめぐる記憶の問題の高揚と交流の契機は、一方に歴史を語り、交流し、あるいは異なる立場同士で対峙する際の対話と対立の形を作り、今ではアジアを語る際に、過去の歴史についての語りに一定の厚みが生まれていることを踏まえずにはすまないだけの成果を生んでいます。他方でこの20年で和解が進まずにかえって緊張を生、体験者たちの多くが世を去り、記憶の風化が避け難く進行しています。さらに、今回の滞在の中で新たに考えさせられたのは、70年というのはかなり長い年月であり、実はその間、つまり戦後というものに関する実感もまた風化しており、現代を生きる私たちにとっては、先ずはそちらに十分な手当てが出来ないまま、70年以上前のことをいきなり強調することにはかえって問題がある、ということです。 

 今回で会えた方々、その語り、まだ記念式典、そこに私たちが居合わせているという状況は、まさに現代的な状況であって、それは即70年前をありのままに眼前に浮かび上がらせるというよりは、現在からじりじりとさかのぼった向こうに70年前がある、その重さも含めて初めて、目前で過去を語る方々とちゃんとむきあっていることになる、ということです。歴史の生き証人とお会いする、ということは、その歴史と触れるということだけでなく、その後を生き抜いてきた方々の年輪を共有することでもある、そのことが特に重要なこととして心に残りました。 

 BFPが日比双方の加害、被害体験を聞き取り続けてきたことは、歴史を刻むという面だけでなく、死を前になお生きながらえている、この方々の人生の終盤における総括や平安の回復に関わっている、という面もまた大きいのではないかと思います。それは「もう遅い、遅すぎる」と言われやすい今だからできることでもあるでしょう。 

 私は、特にフィリピン大学マニラ校での学生たちとのワークショップを経て、主にフィリピンの現在を学生たちと共に学び、研究する立場として、そのような「現在」の形成に深く絡んできた甚大な過去の事象と関わる意味取り組み続けることになるだろう、と改めて思いました。日本という国とフィリピンという国が初めて大規模に(実に不幸な側面が多かったにしても)交流することになり、その後日本側の悲惨な暴力と挫折と、他方でフィリピン側の激烈な憤怒と悲嘆と共に深刻な断絶に至った、両国関係に消されることのない形で歴史に刻まれたアジア太平洋戦争下の占領は、どちらの国でも、自分たちの国の物語を、あるいは閉じた形で、しかも両国ともアメリカの意向に沿う形で紡ぎ、それを自明としたまま今に至っている面が強いように思えます。時間が経過し、ある程度落ち着いて対話が可能なように見えても、また戦後50年以来のより開かれた相互交流や多国籍の研究やドキュメンタリー作成などの進展の中でも、現在の自分たちを語る国民の物語を固く握り続ける私たちの国民的な歴史共同体の維持の態度の中では、こちら側にもあちら側にも重大な壁が残り続けている。それは恐らく、こちらとあちらと両方が共通の歴史を紡ごうとする、そういう仲間意識を地道に形成することでしか乗り越えられないのではないかと思います。 

 他方でそれぞれの国の中でも、世代、地域、それぞれのイデオロギーなどによる多様な見方が、フィリピン側でも、そしてツアーに参加したひとりひとりの中にも感じられました。そうした多様性や不一致を避けず、どう理解を深めるかをぶつけ合っていくという意味でも、とても考えさせられる、実り多い体験となりました。BFPが次世代をも視野に入れ、交流の場を地道に作り続け、このようなスタディツアーのような機会を設け続けていることはとても大事なことだと思います。

| フィリピン訪問レポート | 22:13 | - | - | pookmark |
世界は一つ、平和な世界(匿名)
 2010年からフィリピンへ来る前に、すでにフィリピンに住んでいるお友達に

「フィリピンは反日感情あるかな?」と尋ねたことがありました。

それは80年代エンターティナービザで来日していたフィリピン人女性に対して売春行為を行っていたことが問題となっていたこと、

もちろん過去の戦争においての日本軍が行ったこと、それらが頭に浮かびました。


現地で生活をしていると若いフィリピン人に「日本が大好き」「日本に行きたい」

ワールドカップでは日本のユニフォームを着て日本を応援してくれていたフィリピン人もいて、

私がフィリピンに来る前に思っていたことは一体何だったのだろうと思うくらい、戦争などなかったのかと思ってしまう。

そうしてフィリピンを占領し、そこで戦争があったと知ってはいても、どのようなことがあったのか、私は正直ほぼ知らなかった。


今回は戦後70周年ということでフィリピン国内でも色々と行事を行っている。

アヤラ美術館ではマニラ戦が始まった2月から1ヶ月毎週土曜日に約4時間のレクチャーを行っていた。

そんな中、ブリッジ・フォー・ピースのフィリピンツアーを知り現地より参加いたしました。

神さんがこの団体を作るきっかけとなった「日本人が何をしに来たのだ」と言われたこと。

しかし行く先の皆様に信じられない程の温かい歓迎をうけて、あたらめてブリッジ・フォー・ピースの活動を思い知らされました。


確かに日本も東京空襲、広島、長崎に原爆を落とされました、同様に大きな犠牲がありました。

しかし、だからといって他国へ行ったことを忘れてはいけない、歴史を書きなおしてはいけない。

フィリピン人の多くは時間の経過が心の傷を癒してくれた、しかし決してあったことは忘れないと。

お話を聞きながら同時にそれを行わなくてはならない兵士のことも考えた。 戦争に勝ち組はいない。

お互い憎しみだけが生まれ、涙を流し、心に深い傷跡を残すだけだと。

自身、イスラエルにも滞在していた経緯があるため、イスラエルとパレスチナ問が同時に頭の中によぎりました。


フィリピン大学では、ブリッジ・フォー・ピース作成のビデオ、元日本兵はその時、どのような気持ちで戦っていたのか。

上映終了後、小グループに別れ10分ほどの質疑。その際、ある女学生が「私は戦争を起こした日本と日本人が嫌いだった、でも兵士の証言を聞いてとてもオープンマインドになった」と。

このように元日本兵の言葉を聞くのも初めてだと言っていた。 ただ若い世代は「戦争は過去のこと、これからを考えたい」と、そうして従軍慰安婦のコメントも多く見受けられました。

フィリピンは格差、貧困も問題、更にミンダナオ問題もあり先の大戦のことを、こと若いフィリピン人、こと都会に住む若者は忘れがちでもあるのかもしれないとも現地にいて感じています。

メモラレ・マニラ(マニラ市街戦)の式典が行われる1週間ほど前にミンダナオで軍と反政府軍が衝突した事件が起きてしまい死者が出てしまった。

フィリピン国内に住む一人として先の大戦の歴史から、犠牲者の、元兵士の声を聞くことはこのフィリピンのミンダナオ問題の和平にも関係してくると思っています。

世界は一つ、平和な世界。 私も今回のツアーをきっかけに会社いいる若いフィリピン人と色々話していこうと思います。




| フィリピン訪問レポート | 22:00 | - | - | pookmark |
BFPフィリピン・ツアー2015
2月に実施した、フィリピンツアーのレポートです。
ぜひお読みください。今回はNHKの同行取材に加え、新聞記者お二人も同行され、ツアーで訪問した戦争体験者の方々の声が記事になりました。フィリピンで起きた事が広く伝えられ、BFPとしても継続して実施してきたことがまた一つ実を結んだような気がしました。

フィリピン訪問報告
(淺川和也:BFP理事)
70年という時間の意味を考える
(宮脇聡史:大阪大学 外国語学部フィリピン語専攻 教員)
世界は一つ、平和な世界
(匿名)
| フィリピン訪問レポート | 16:33 | - | - | pookmark |
フィリピン・ツアー2014
半年越しのご報告となってしまいましたが、今年2月に行ったフィリピンツアーをレポートにまとめましたので、
ご報告させていただければと思います。

今年は浅川理事と畑江の2人での実施でした。
「歴史を繰り返さないように学び続けたい」(浅川 和也)
「繋がり続けること」(畑江 奈つ希)

更新が大変遅くなりましたことをお詫び申し上げます。

是非、ご一読ください。
| フィリピン訪問レポート | 00:34 | comments(0) | - | pookmark |
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BFPとしても2章書かせて頂いています。ご覧頂けると嬉しいです。
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