NPO法人ブリッジ・フォー・ピース(BFP)の公式blogです。
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立命館大学と龍谷大学での授業
継続して毎年BFPにワークショップ授業を依頼してくださる学校があります。
9月の甲南中学校もそうでしたし、今月お邪魔した立命館大学と龍谷大学もそうです。



立命館大では2コマ合計180分、平和学入門のクラスで。

龍谷大学では、国際福祉を学ぶ学生さん達でした。

短い時間ではありますが、何か心に残るものが少しでもあれば、といつも精一杯お話させて頂いています。

このような機会を頂くことができ、本当に有難い事とご依頼くださる先生方への感謝の念は尽きません。

お気持ちに応えられるよう、戦争体験者の方々の代弁が少しでもできるよう、益々頑張っていきたいと思っています。
| BFP日々の出来事 | 21:25 | comments(0) | - | pookmark |
9/25 沖松信夫さんの戦争体験を聴くワークショップ @専修大学
真夏日に逆戻りしたような日曜日の昼下がり、専修大学神田キャンパスで
沖松信夫さん(91歳)の戦争体験をお聴きしました。

沖松さんは1925年、広島県呉市に生まれ、小学校へ入った年に日中戦争が始まり、
中学へ入学した年には盧溝橋事件、アジア太平洋戦争が始まった1941年に、
陸軍予科士官学校へ入学。戦争の時代とともに生きてきた世代です。
小学校の教育は徹底した皇国史観教育で、軍人になって、国のため、天皇のために
死ぬことが日本人として最高の生き方、死に方と教えられていました。

沖松さんは1945年 8 月15日に沖縄に集結するアメリカ艦隊への
体当たり出撃を命じられていました。当時20歳。ショックで眠れな
かったといいます。動く戦艦に突入して爆弾を落とすのは大変難しく
何度も突入訓練を繰り返しました。
前日の14日に突然中止命令が出て命拾いしましたが、あと1日戦争が長引いたら
なかった命でした。人の命を兵器にした非人道的作戦への怒りを込め、
体験を話し続けています。




【石黒さんの感想】

久しぶりのワークショップ参加、本日は沖松さんのお話を聞くことができました。
20人もの方が足を運んでくださり、全員で沖松さんの話に聞き入っていました。
特攻に行く予定だった前日の心境を聞き、やはり最後に思うのは天皇ではなく母のこと。
日常を過ごせるのが一番幸せだとのことでした。戦争で亡くなった全ての人に家族がいて、
母がいたと思うと、どれだけ多くの人を不幸にしたのだろうと胸が痛みました。
また、作文用紙の先生のコメントに、「前進せよ、陛下のために死ね」と書いてあり、
当時の狂った世の中の様子が伺えました。

このような事実は私達若い世代が必ず語り継いでいかなくてはならない、
そう強く思える1日でした。4人もの大学生が来てくれ、若い世代にも関心が高まっていると
感じました.



写真:沖松さんの小学校時代の作文

【参加者からの感想】

●もっとお話を聞きたい内容でした。
●「戦争と人権」の人権の部分をもっと知りたい。
●私の母は東京大空襲を逃げ延びた人です。母以外の生の戦争体験を聞かねばならないと
 強く思い参加しました。
●本日もお話ありがとうございました。今日、特に印象に残ったのは、沖松さんの
 中学生の頃の作文で、先生のコメントが「前進しろ、天皇のために死ね」という
コメントを残していたことでした。自由な考えを発言することができない時代、
社会であったことを感じ、とても怖く感じました。また、海軍で暴力が多かったと
いうことも意外でした。
 ドラマなどで陸軍の方が多いイメージがありました。

●貴重な機会を提供していただいてありがとうございました。軍人教育が実際に人々の中に
 浸透していたんだなと感じ、その教育がされていた証の作文を見せていただいて本当に
 驚きました。特攻隊になったとわかった時に最初に感じたことが母親の心配であったこと
 を聞き、いつの時代も親や家族の存在は偉大なんだなと思いました。



【写真】沖松さんが乗っていた「百式重爆撃機」(中島飛行機製作所製)
8人乗りだが、4名での出撃予定だった。

●本日は参加させていただきありがとうございました。戦争の体験という生の貴重な声を
 聞くことができ、来て良かったという思いで一杯です。年々、このような機会が少なく
 なってきていると感じているので、一回一回を大切にしていきたいと思っています。
 本や又聞きでは分からないことも多々あるので、今後も参加させていただきたいと
 考えています。ありがとうございました。

●皇国史観を精神的支柱にしたのが間違っていたというご意見が興味深かったです。
 ヒトラーと明治憲法が同じ生まれというのが大変興味深い。

●生の体験、感想を聞けて、興味を持って理解できた。皇国史観が間違いということ
 はよく理解できる。

●戦争体験者はどんどん少なくなっていく中、このような貴重な機会をいただき、
 ありがとうございました。大変勉強になりました。

★ご参加いただいた皆さま、
会場を提供してくださった専修大学の長谷川さん、ありがとうございました!
(斉藤由美子)


| BFP日々の出来事 | 16:35 | comments(0) | - | pookmark |
第7回通常総会を開催しました!
先週末は、都内で第7回BFP通常総会を開催しました。
20代の会社員から80代の元日本兵の方が集まり、8月のイベントで基調講演をお願いしている東京学芸大学の大石学先生もわざわざ来てくださいました。ご参加くださった皆様、本当にありがとうございました。
お陰様で法人化後、赤字になる事もなく、順調に活動が継続出来ています。ご支援くださっている皆様に、改めて感謝の気持ちで一杯になりました。
さらに、大切な仲間の一人がこの場で婚約発表!楽しく、嬉しい1日でした。 今年度の達成目標も承認を得られたので、また一年年良い成果が残せるようにしたいと思います。引き続きの応援、ご支援を宜しくお願い致します。
| BFP日々の出来事 | 22:03 | comments(0) | - | pookmark |
2016年度ご支援くださった皆さま
ご報告が遅くなりましたが、昨年度BFPの活動を支えてくださった皆様です。 本当にありがとうございました。この他にも118名の方が会員として支えてくだいました。 伊藤義人様(レインボーリング)、長谷川宏様(専修大学教授)、田中雅文様(日本女子大学)、西浦昭英様(東京都在住)、楠山雅彦様(大阪府在住)、宇賀神聡子様(鐘ヶ淵9条の会)、池田幸一様(シベリア立法推進会議)、金子榮之様(大阪府在住の元日本兵)、木戸泰弘様(ホワイトステッキ)、近藤周子様(千葉市在住)、藤岡惇様(立命館大学)、加藤礼子様(東京都荒川区在住)、細田浩様(法政大学)、 川崎松男様(滋賀県在住)、渡辺忠義様(千葉県在住)、嶌村麗子様(東京都在住)、加藤千登勢様(フィリピン在住)、北川直実様(オフィスY&K)、丸本功彦様(東京都在住)白石ケイ子様(緑町きらきらプロジェクト)、伊藤泓子様(東京都在住)、福井義光様(岡崎市在住) 、いけだなつこ様(東京都在住)、嶌村麗子様 (東京都在住)、山地和文様(東京都在住)、箕浦桂子様(岡崎商工会議所)、太田恒司様(岡崎市在住)、早坂智佳子様(山形県在住)、今泉光司様(東京都在住)、志賀功様(京都府在住)、室田元美様(東京都在住)、下山哲史様(広島県在住)、松井弘様(NPO法人蕗の薹)、佐原伸様(東京都在住)、森よね子様(埼玉県在住)、平田雅己(名古屋市在住)、石塚勉様(江東区在住)、渡辺一枝様(作家)、岩崎敦子様(東京都在住)、澤井京子様(さいたま市在住)、小澤陽祐様(千葉県在住)、伊吹 由歌子様(東京都在住)、益田美樹様(茨城県在住)、原幸子様(埼玉県在住)、庄司香様(東京都在住)、菊地恵子様(埼玉県在住)、石崎誠一様(安城市在住)、北千代様(埼玉県在住)、牧原東吾様(岡崎市在住)、高原孝生様(明治学院大学)、小国秀宣様(埼玉県在住)、MORIMICHIYO様(フィリピン在住)、 ヤマグチ カズコ様(神奈川県在住)、尾崎由美様(東京都在住)、佐野淳也様 (京都府在住)、浅井久仁臣様(岡崎市在住)、内山史子様(都留文科大学文学部比較文化学科)、福林徹様(POW研究会)、淺川和也様(さいたま市在住)、麻田秀潤様(新潟県極楽寺住職)、高川邦子様(映像翻訳者)、飯塚久美様(東京都在住)
| BFP日々の出来事 | 22:55 | comments(0) | - | pookmark |
新年度第1回ビデオ上映ワークショップ@専修大学
4月24日(日)の午後、専修大学・神田キャンパスにて、
BFPビデオ・メッセージ上映ワークショプを開催しました。
初めての参加者が5人、栃木県足利や千葉からいらした方の他、
3人が大学生でした。
皆さんがBFPのビデオを見るのは初めてとのことで、フィリピンクイズも
楽しんでいただき、お互いの感想や意見を話し合い、良い時間を持つことが
できました。



【感想から】
■フィリピンであった事を今回初めて知りました。平和への一歩はまず相手を
 理解し、状況等を知ることと思います。ビデオレターでの元兵士の話や被害
 者の話は本で読む時より生々しく伝わってきました。過去のことを我が事と
 して考えることは、よい未来を築く一歩だと感じました。また参加し、
 自分なりに伝えることをしたいと思います(YKさん)

■2015年8月、フィリピンを初めて訪れました。キリノ州の、本当に
 山奥の自給自足の村でホームステイした時、初めて日本とフィリピン
 の戦時中の関係を、ホストマザーから聞きました。2016年3月、
 今度はBFPのメンバーとして、取材のために訪比。そこで自分の
 知識のなさを改めて感じ、また自分がもっと早くこの場に来て直接話を
 聞けなかった悔しさを感じました。
 BFPのムービーを初めて見て、今までフィリピン人の話を中心に
 聞いてきた中、旧日本軍兵士の話も聞くことができて、フィリピン戦だけ
 でなく、それを通して戦争というものをより多角的にみつめ、考えを深める
 ことができたと思います。ここで考えることをやめず、歴史からきちんと
 私たちの世代が余すことなく学んで、伝えることができるよう努力していき
 たいと思いました。(SKさん)

■今までの歴史教育の中で日本人の戦争被害者意識をもっていたが、フィリピンを
 はじめとするあらゆる国々で行っていた行為を、大学に入ってから初めて知り、
 ショックを受けたのが、今日の参加したきっかけである。やはり双方の声を
 聞かなければいけないと強く思った。フィリピンの人が戦争のことをどう
 思っているのか、今日聞けたことは今後の日比関係を築いていくには貴重な
 ものだ。海外に行ったとき、日本人としてみられる。本当に知らないことが多く
 ある中、自分からより目を向けて行かなければと思った。
 8月の終戦記念の日、テレビで多く流れるのは長崎や広島での式典の様子のみで
 マニラの追悼式は見た事がなかった。今なお残る戦争について、フィリピンにも
 まだ沢山問題がある。今後フィリピンに行くのでもっとたくさんのことを知りたい。
 (AMさん)

■今回このようなワークショップを開催していただきありがとうございました。
 まず初めに、驚いたのは戦争を通して亡くなられたフィリピン人の方が非常に
 多く、日本兵よりもはるかに多いことです。先の大戦というと、北東アジアの
 中国、韓国などにばかり焦点を当てていましたが、フィリピンでもこのような
 ことが起こったのかとショックを受けました。
 やはり今も昔もやっていることに大きな違いはなく、歴史から学べることは
 多くあると思うと同時に、もっと知りたいと思いました。
 つらい話を話す方も聞く方もいい気持ちがしないとは思うのですが、知らない
 で幸せでいるより、知ってそれを何かに活かしていきたいと思いました。
 世の中で戦争のことを学ぶとなると、右、左と言われたり、タブーの意識が
 あるのですが、もっと話し合いたいと思いました。(SIさん)

+++
会場を提供してくださった長谷川さん、ありがとうございました。

斉藤由美子
| BFP日々の出来事 | 00:46 | comments(0) | - | pookmark |
インドネシアのジャワ島に5年の戦争体験 小西光さん(98歳)
千葉県八千代市の塚原さんのご紹介で、インドネシアに5年近く
行っていた小西光さんの体験をお聴きしました。
小西さんは、寝たきりの生活と伺っていましたが、当日は体調が良い様子で
ソファに掛けたままで体験を話してくださいました。



左下の左端は塚原さん

小西さんは愛媛県伊予大洲(おおず)生まれ
1941年(S.16)12月に京大法学部を3ヶ月繰り上げで卒業し、
1月に理研へ入社(理研は当時航空機や兵器を作っていた)
2月には松山で入営(松山連隊)、見習い士官としての訓練の後、
昭和17年12月久留米から台湾〜シンガポールを経由して、
シンガポールからはオランダの客船に兵隊を乗せて魚雷を避けつつ、
4,5日かけてジャワ島へ到着。インドネシアではクリスマス島が
見える最南端の湾がある町に小隊長として一個中隊で滞在(ボゴール
に近く、本部はバンドンにあった。ポロブドールの遺跡あるジョグジャ
カルタにも近い)
小西さんは久留米から、たまたまインドネシアへ送られ、生きて帰れた
けれど、同時期にガダルカナルやラバウルへ送られた人たちもいて、
生死は本当に紙一重でした。

日本の敗戦は通信隊がデリーの放送(日本語)を傍受して知りました。
(小西さんが滞在したエリアはインドの方が近い)
インドネシアを植民地にしていたオランダ人たちの生活は
豊かで、いかに日本が貧しく、遅れていたかを思い知らされて
いたので、負けるのも当然と思ったそうです。

戦闘などの体験はしなかったものの、日本の敗戦後は警察が
インドネシア人に囲まれてしまい、必死で脱出したこともあったと
いいます。
1946年(S.21) 6月に名古屋へ復員、30歳になっていました。

70代になってから絵の勉強を始めたそうで、玄関から応接間まで、
エキゾチックですてきな油絵がたくさん飾られていました。
インドネシアのバティックやイカットという織物も飾られていて、
青春の5年間を過ごしたインドネシアが大きなウエイトを占めて
いるのではと感じました。

★敗戦後のインドネシア独立運動がらみのこと等、もっとたくさん
のことをお聴きしたかったのですが、体調のこともあり、70年以上
経った今では断片的なエピソードしか覚えていらっしゃらないよう
で、残念な思いが残りました。
ご紹介いただいた塚原さん、ありがとうございました!
(斉藤由美子)

| BFP日々の出来事 | 17:16 | comments(0) | - | pookmark |
2015年度ご支援くださった皆さま

 2015年度は、以下の方々が支援してくださいました。この他に、会員として支えてくださった方が129名います。本当にありがとうございました。

*順不同(非公開希望の方を除く)

佐久間美佐子様(沖縄県在住)、渡辺忠義様(千葉県在住)、池田真里様(東京都)、岩井忠正様(9条の会小平/小平平和委員会)、宇賀神聡子様(鐘ヶ淵9条の会)、伊藤義人様(レインボーリング)、木戸泰弘様(ホワイトステッキ)、浅川和也様(埼玉県在住)白石ケイ子様(緑町 きらきらプロジェクト)、 楠山雅彦様(大阪府在住)、野間優子様(全国一般大阪府本部)、池田幸一様(シベリア立法推進会議)、藤岡惇様(立命館大学)、佐藤寿様(元日本兵)、細田浩様(法政大学)、ヤマグチカズコ様(神奈川県在住)、古浜興太郎様(沖縄在住)、 加藤礼子様(東京都荒川区在住)、徳留絹枝様(「捕虜:日米の対話」設立者)、 川見能人様(朝日新聞記者)、井上拓也様(世田谷区)、伊藤泓子様(東京都在住)、倉光祥子様(武蔵野市在住)、石塚勉様(江東区在住)、丸本功彦様(埼玉県在住)、鬼松成剛様(愛知県在住)、別府まゆみ様(高知県在住)、大島俊明様(愛知県在住)、ふるやん様(会社員)、須田征士様(山形県在住)、箱田貴一様(神奈川県在住)、久保田ひろみ様(千葉県在住)、山本勉様(三重県在住)、北千代様(埼玉県在住)、長谷川宏様(専修大学教授)、伊佐淳様(福岡県在住)

| BFP日々の出来事 | 22:49 | - | - | pookmark |
3/27 第2回フィールドワーク 東京大空襲の被災地を歩く 両国から浅草寺まで
BFPとしては昨年10/31の登戸研究所に続いて2回目のフィールドワークが
好評のうちに終了しました。
桜が開花し始めたばかりの東京、花冷えで、雨も心配されましたが、
何とかお天気も大丈夫だったようで何よりでした。
平和ガイドを快く引き受けてくださった廣田房枝さん、
ありがとうございました。

両国駅を出発後〜横網町公園(かつての陸軍被服廠跡)〜慰霊堂〜納骨堂〜復興記念館
〜墨田区役所〜言問橋〜台東区慰霊碑〜浅草寺



【廣田さんから】
・参加者のうち3人が学生、1人は中国上海からの留学生だった。このことは事前に
 知らされていたので、横網町公園内の梵鐘や震災後の虐殺、浅草寺のまんしゅう
 母子像など、他のグループより時間をかけて説明した。
・復興記念館2階の展示はかなり興味深く見いっていた。
・時期的に花見客の多さを心配したが、隅田川沿いは思ったほどではなかった。
 しかし日曜日だったことから、浅草寺内の人ごみはこれまで以上だった。
 震災や戦災にも焼け残って350年の歴史をもつ浅草神社を案内したかったが、
 境内内でイベントが行われていて歩ける状態ではなかったので、参加者には
 話をして断念。



浅草寺の被災イチョウ(木の中が黒こげになっている)

【参加者の感想】
・勉強になった。また来たい。
・実際に現場を歩いて、当時の様子を考えた。
・個人的に行ったことのあった場所でも知らないことがたくさんあった。
・昨日アイルランドから帰国したばかりだが、人々が過去をどう繋ぐかを考え
 ながら歩いた。
・戦争のことは過去のこととせずに今を考える。戦争は繰り返してはいけない。
・日本の歴史や文化を勉強した。中国も戦争の被害を受けたが、平和は大切。
 守らなければいけない。
・浅草寺には何度もきているが、今でも生々しく傷跡が残っていることを知った。
 戦争について考えることができた。


墨田区役所1階のタペストリー(平和を願って、折り鶴で作られている)

【伊吹由歌子さんの感想】
広田さんは素晴らしいガイドで、被害者としての日本の戦禍のみでなく、
加害の側面も交えた説明をいただき、実地にいまだに燃えた人体の脂も染み出るなど、
具体的にリアルに想像できる名ガイドでした。

浅川先生はアイルランドからご帰国直後の翌日のフィールドワーク、ご参加、
有難うございました。6時から別のイベントを控えた先生にかわり、
6名がお茶しながら、井上拓也さんのリードのもと、話し合う時を持つことが
できてよかったです。埼玉で二十数年続き「戦争展」にかかわる森さん、
石垣島出身のお若い綿貫さんも戦中の出来事について、加害を含む貴重な事実と
戦後の経緯など、貴重なお話しも伺えました。上海から東大修士課程への留学生で
私がお誘いしたHou Wenbang さんも、非常に多くを学んだと、みなさんにお会い
できたこと感謝しておられました

■ご参加いただいた皆さま、ありがとうございました!(斉藤由美子)
| BFP日々の出来事 | 18:18 | comments(0) | - | pookmark |
テニアン島のガマを逃げまどい家族を亡くした 瀧澤全雄さん(82歳)

3月13日(日)元BFP会員の霜島さんのご紹介で、千葉県八千代市在住の瀧澤さんを訪ねました。



左: テニアンでの家族の写真、手前一番右が瀧澤さん
右: 現在の瀧澤さん
下: 少年兵から預かった腕時計

瀧澤さんは1933年(昭和8年)5月11日テニアン島生まれ。
父は「南洋興発」(「海の「満鉄」と言われた国策会社)の製糖工場で技術者として
テニアンに渡りました。サイパンに住んでいた母きよ子さんと結婚。
瀧澤さんは6人兄弟の上から3番目、テニアンでは大きな家に住み、
食事は沖縄から来たお手伝いさんが作ってくれていたそうです。

■第一次世界大戦後、南洋群島は日本の委任統治領になり、
サトウキビ栽培のために一家で移住した人も多く、沖縄からも
たくさんの人が来ていたこと、朝鮮半島からも労働者として連れて
来られた人たちもいたと言います。また広島に原爆を落とした
「B-29、エノラゲイ」もテニアン島から飛びたったことは知られています。

1944年(昭和19年)2月には大きな空襲があり、その後6月11日には、
海が見えなくなるほどの アメリカ軍の艦船から一斉に艦砲射撃が
始まりました。当時瀧澤さんは小学校5年生で学校にいましたが、
夢中で爆撃の中を逃げ出しました。

家族とは朝別れたままで6月から8月にかけての1ヶ月半近く、洞窟(ガマ)の
中を転々と逃げまどいました。 空腹でたまらず、食べられる草を探して口
にしました。ガマの中は血の匂い、腐った臭いがただよっていました。
逃げまどっているうちに、左膝を貫通する銃創を負い、島の最南端カロリナス岬
で米軍に保護されジープで野戦病院に連れていかれました。
全雄さんを探していた父とは野戦病院で再会しましたが家族で助かったのは、
父と姉と全雄さんだけでした。
お母さんとは6/11の朝別れたまま、1月に生まれたばかりの弟を抱えた
母たちの消息は知れず、 もちろん遺骨もありません。

1946年(昭和21年)2月18日に浦賀に着く船(駆逐艦くすのき)で帰国、
頭からDDTをかけられました。
テニアン島でも、住民の中で、日本が負けたことを信じない「勝ち組」と
「負け組」が できて、争っていたといいます。瀧澤さんは日本が負けるわけない
という勝ち組でしたが、 浦賀に着いて、焦土と化した日本を見て、ようやく
負けたことを知りました。
父の実家の信州に行き、その後は理髪師として、ホテルや成田空港で働き
続けてきました。 今は心臓を悪くしてしまいましたが、「生まれ故郷の
テニアン島に帰りたい。兄弟がいれば・・・と悔しくてなりません。
美しかった母の消息を知りたい」そんな思いで胸がいっぱいになる日々です。

ガマに逃げた時に隣にいた少年飛行兵(16歳)が艦砲射撃を受けて
負傷し、ピストルで 自決したとき、預かった腕時計を、長年大事に身に
着けてきたけれど、心臓を悪くした今、できることなら、その少年兵の
遺族に返してあげたいと強く願っていると話されました。【斉藤由美子】

+++

【石黒さんの感想】
家族でテニアンに行き、小学校5年生の時にアメリカ軍が上陸した時の
経験をお話ししてくださいました。1人でガマを渡り歩き、一月ほど食料や水が
ない中逃げ回ったとのことです。 機関銃の打ち方も教わっていて、今でも似た
ような音がすると記憶が蘇り、飛び起きてしまうと仰っていました。
由美子さんが持ってきた当時のテニアンの学校の集合写真を見ると、
思い出し、 悔しさのあまり涙ぐんでしまわれる場面もありました。

■お二方の取材、とても勉強になり、また、残された時間でもっともっと
取材を行っていかなくてはと感じました。
また、送り迎え等をしてくださった元会員の霜島さん、
瀧澤さんの案内をしてくださった霜島さんのご友人の方に大変お世話になりました。

| BFP日々の出来事 | 01:43 | comments(0) | - | pookmark |
敗戦で香港九竜半島の捕虜収容所に〜恐怖の日々  吉村武雄さん(95歳)
3/13(日)BFPの元会員霜島さんの紹介で、千葉県八千代市の曹洞宗長福寺
の元ご住職(東堂さま)吉村武雄さん(95歳)
の体験をお聞きしました。




吉村さんは大学3年生だった1943年(昭和18年)12月に学徒出陣で
甲種幹部候補生として名古屋の高射砲部隊に入隊。
神宮外苑の学徒出陣壮行会では駒沢大学の校旗を掲げて行進しました。
当時は「誰も死を恐れてはいなかったし、また生きて帰れるとも
思っていなかった」といいます。
入隊後4ケ月ほど東京で電波兵器(レーダー)の訓練を受け、
翌年(昭和19年)には釜山から汽車で北京〜天津〜徐州〜南京の
第5航空情報連隊(ハヤブサ部隊)へ(本部は広東)将校として配属。
1945年(昭和20年)初には上海から台湾の松山空港へ2人乗りの重爆撃機で
行き、1カ月待機したのちに香港の啓徳空港に配属となりました。
九竜半島を見下ろす大帽山の上からレーダーで24時間警戒にあたりましたが、
既に日本は制空権も制海権もない状態でした。
8月15日の1週間前には敗戦を知っていたので(電波で情報が入った)
武器は岩山に隠しました。

敗戦で九竜半島の捕虜収容所に入れられてからは、わずかなタピオカしか
与えられず、ひもじく苦しい日々でした。同時に軍法会議にかけられて
銃殺されるのではないか・・・との恐怖でいっぱいでした。お腹が空いているのに、
片道10キロの啓徳空港での残骸処理の重労働にかり出され、隊から離れれば
現地の人(中国人)になぶり殺しにあったりもしました。
収容所の看守はオーストラリア人やインド人(英軍)が多く暗かった印象。
朝になると、2重の鉄条網を越えて逃げ出した人々の銃殺死体が転がって
いることもあり、恐怖が募りました。小隊長だったのでとにかく「部下を全員
無事に日本に返す」ことを決意していました。

1945年(昭和20)の暮れ、ようやく石炭船で鹿児島の加治木(かじき)港という
漁港に復員しました。戦後は中・高校の国語の教師を30年間勤めました。
生かされた命だからと荒廃していたお寺の復興に努められ、今は見事な
お寺になりました。
「欲から離れることが、身体の健康(小欲足知)」「真心は必ず相手に
伝わる(目に見える)」
「計算抜きで、真心こめて、日々をすごしてほしい」と繰り返して
おっしゃられた言葉が心に響きました。【斉藤由美子】


【石黒さんの感想】
95歳とは思えないほど、明瞭な口調でお話ししてくださいました。
様々な所へ派遣され、苦労したとのことでした。
戦争を知らない世代へのメッセージを聞くと「戦争はもう2度とやっては
いけない。もし他人を思いやる真心があったならば、あんなことは起こらなかった」
と仰ていました。



| BFP日々の出来事 | 01:10 | comments(0) | - | pookmark |
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