NPO法人ブリッジ・フォー・ピース(BFP)の公式blogです。
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T.Tさん(歩兵141連隊・准尉・92歳)
 今回は、訪問する1ヶ月以上も前からアポイントを取っていたので、お話を聞かせて頂くT.Tさんには、落ち着かない日々を過ごさせてしまったようでした。息子さんからは、昔の資料を引っ張り出して色々と記憶をたぐり寄せている様子を時折ご連絡いただいていました。T.Tさんからも、家までの道案内を書いた丁寧なお手紙など、事前に送って頂いたりもしました。

 そうして迎えた当日。
足が弱くなっているというTさんは、ソファにどっしりと腰掛けて待っていてくださいました。事前に用意してくださった、沢山の資料を拝見しながら進められるお話に、とても92歳とは思えぬ力強さを感じました。

 恐怖心で動けなくなる将校がいた話など、戦場での裏話などもとても貴重なものでしたが、私の心を最も打ったのは「本当のことが分かるよう、物を知っておらんといかん」という、一般教養や教育に対する思いでした。

 当時を振り返り、「あれは帝国主義。世界中の流れだった」とおっしゃられました。幅広い視点を持って社会を読み解く。そんなことを教えて頂いたようでした。Tさんは、地方銀行を勤め上げた後、戦争や仏教に関する勉強を始めたということです。息子さんに連れられて見せて頂いた書斎には、図書館かと思うほどの本がぎっしりと並べられていました。
| 取材-フィリピン戦 | 23:09 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
H.Kさん(歩兵・上等兵・84歳)
「頑張ってね。ぼくはもう、あと数年だから」
私がビデオを回すのをやめた瞬間、H.Kさんから発せられた言葉。

温厚な人柄で、インタビュー中は戦争についての善悪など批判的なことを一切口にしなかっただけに、その言葉に全てが込められているような気がしました。

「侵略したつもりは、ありませんよ。
守るためにフィリピンへ行ったんです。一度去ったアメリカが、また基地をフィリピンに作ろうとしたから、守るために行ったんですよ、私たちは」

戦争のむごさについては、何度も語ってくださいました。
妻を残してきた兵隊は「家族がいる者を、なぜ巻き込むんだ」とすすり泣いていたそうです。またある時、赤痢にかかった戦友が人知れず手榴弾で自殺したと言います。H.Kさん自身、やむを得ず米兵を撃ち殺したことがあった話を、何事もなかったかのようにさらっと話す姿が、私の目には逆に痛々しく映りました。
| 取材-フィリピン戦 | 21:47 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
T.Sさん(歩兵・上等兵・86歳)
T.Sさんは、私がずっと捜し求めていたルソン島南部(虐殺があったという村)に配属されていた部隊に所属していた方。

実際に虐殺はあったのか、と聞く私に
「今考えたら、鬼のようだった。
でも、当時は悪いことと思っていなかった」
と答えてくださいました。

「師団長からくだされた命令は『全部ゲリラだから、捕獲しろ。怪しいものがいたら殺せ』というものでした」

米軍が上陸する前は、平和に仲良くフィリピンの人ともやっていたんですけどね。殺すか殺されるか。そんな状況になっていきました。

そんな過酷な戦場での体験をお話頂いた後、今一番腑に落ちないという話を聞きました。それは、下士官は恩給がもらえるのに、上等兵だという理由で、戦後恩給がもらえないということ。

陣地構築やゲリラ討伐。大変な仕事は、下っぱの兵隊ばかり。
「腑に落ちない」そう言って、不服そうな顔をするT.Sさんの横顔を見ながら、戦争の複雑な構造がまた少し見えてきたような気がしました。
| 取材-フィリピン戦 | 21:36 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
Y.Oさん(秋田歩兵17連隊・兵長・83歳)
「身体が透き通って見えるような、痩せこけた子供がいました。
助かってくれたらいいなと思って、米を少し置いていきましたよね。
すぐに死んでしまったかもしれない。でも、助かったら良いなと思って。
そのくらいですよ。フィリピンで良いことしたと思えるのは」

虐殺があったと言われる、ルソン島南部に派遣されていたOさん。
どのような事があったか質問する私に、最初に話してくださったのが、現地の子どもを助けた話でした。気持ちを癒したのはそれだけ。そう不機嫌そうに話す姿が、戦場の生々しさを一層浮き彫りにするように感じました。

軍隊は、人間性を失わせることの連続だったとのこと。
満州へ移動した初日の晩。帽子をかぶらずに、仲間とトイレに行った時に、事件は起こりました。

「誰だ?!帽子をかぶらない奴は!」
そう上官は罵り、往復ビンタをくらったそうです。
帽子をかぶらない位でなぜ…。そう思ったそうですが、それも悲しいことに、段々と慣れていきました。

特攻訓練を受けている時にも
「死ねば将校になれる」と激励され
「偉くならなくていいから、早く返してください」
そう言うとぶん殴られたそうです。

「人生にとって最悪の生活」
「戦争は最大の罪。国家犯罪」
そう断言するOさんの目から、悔しさからか、いつの間にか静かな涙が溢れていました。
| 取材-フィリピン戦 | 21:03 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
T.Iさん(独立混成部隊第26連隊・伍長・91歳)
「あいつぶっ殺してやる!
そう思って振り返ったら、もう逃げていなくなってた」

それまで、穏やかに話してくださっていたT.Iさんが、急に声を荒げてそうおっしゃったので、とっさにメモを取っていたノートから顔をあげました。

道案内に連れてきたフィリピン人が、ゲリラの巣窟のような地域までT.Iさん達を連れてきて、そのまま逃げてしまった時の話でした。

「多少悪いことをしてもいい。そんな気持ちになりますよ。
哀しいもんです」

そう、死ぬか生きるかの戦場での心境を語ってくださいました。今日1日生きる。そのことだけで精一杯だったと言います。

「戦争というのは、嫌なもんだ」
そういうと、当時の軍国主義や、アメリカに仕掛けられた戦争であるということを色々ご説明くださいました。

隣でじっと聞いていた同世代の奥様も、うんうんと静かにうなづいておられました。

| 取材-フィリピン戦 | 19:05 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
M,Oさん(第16師団司令部・参謀部・大尉・92歳)
「部下がいたのに、レイテから帰ってきてしまった…」
「フィリピンへは戦後行ってません。顔を覚えているフィリピン人もいるかもしれないから。行けません」

元参謀部大尉だったという、92歳のM.Oさんは悲痛な面持ちで、現在の心境を語ってくださいました。一兵隊ではなく、参謀部として過ごしていたM.Oさんは、現地の一軒屋を与えられ、見張りの兵隊が数人付くという条件のよい生活をしていた方。

陸軍予備士官学校で、2000人中20番以内という優秀な成績を認められ、参謀部に配属になったとのこと。出兵の際は、身なりを整えて天皇陛下へご挨拶にも行ったそうです。

フィリピンでは、かの有名な山下奉文大将につかえていたということで、色々と裏話も聞かせてくださいました。ルソン島北部の山に隠れていた5万人もの兵隊を
「このまま見殺しにするわけにはいかない。
おれが責任を取る!」
と無条件降伏の準備を進めるよう、早い段階で打診していたと言います。

山下奉文大将をどのように思っていたかと聞いてみると、
「神様のように思っていました」
とのこと。軍上層部の間での確執など、様々な話が聞かれます。悲運の人という記述を歴史書の中に多く見ますが、このように今でも部下に慕われ、思われていることを知りました。

この、M.Oさん、現在は老人ホームで暮らしていらっしゃいます。
今回私からの連絡を受け、ご自宅に戻ってお話を聞かせてくださいました。家族の間でもあまり話をしたことがないということで、ご家族も複数名集まってくださり、一緒に耳を傾けてくださいました。M.Oさんも、普段より生き生きされ、家族の方も驚いたそうです。

元参謀部として、複雑な思いを抱えながら、戦争のことはあまり語らずに生きてきた方が、ここにもいらっしゃいました。
| 取材-フィリピン戦 | 18:46 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
S.Eさん(陸軍マニラ野戦兵器補充要員・88歳)
「それはそれは、みじめでしたよ。
餓死寸前までいきましたからね。極限状態に陥ると
人間は動物になる。そう思います」

S.Eさんはそう言うと、山の中の転進で何も食べる物がなく、木の葉っぱなど、あらゆるものを食べた話をしてくださいました。

「お国のために尽くそうと思って志願したのに、
技術者としての自分の能力は、何も生かせませんでした。
命令通りに動いているだけで、何のために行ったかわかりませんよ」

40代の隊長が、若い兵隊についていくことが出来ず「殺してくれ」と言い、それが叶わないと分かると、隠れて自決した話など、戦友が亡くなる様子を目の当たりにしてきたEさん。

フィリピンへの慰霊は、生還者のせめてもの「償い」と言います。

「初めて慰霊に行った時、魂が寄ってくるような感じがしました。
夜も寝られませんでしたね」

「『おーい!来たよー』と叫びました。
『約束通り来たよー』と、言わずにはいられないのです」

「あんな、みじめめなこと、二度とやってはいけません。
こんなみじめなのないですよ」

かつては、志願して戦地へ向かったEさん。最後に、今の日本社会や政治について聞いてみると
「なるようにしか、ならないと思って考えないようにしています」
との返事。何だか、とても切ないものを感じずにはいられませんでした。
| 取材-フィリピン戦 | 17:54 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
J.Hさん(14方面軍報道部・大尉・92歳)
「このまま死んでは、死に切れませんよ!」
そう強く、静かに、何度も訴えておられたJ.Hさん。

青春時代、9年9ヶ月という長い期間を戦争に費やしたHさん。
戦争が一生だったような感じがするというこの人は、軍上層部の機密情報を知る立場の任務についていた方。だからこそ、今、どうしても言っておきたいことがあると言うのです。

それは「軍上層部にいた数名の、戦争が大好きな人達の間違った判断」。
現場からは、幾度となく戦争はもうやめた方がいいと助言をしていたそうです。

「何度も戦争を止める機会はありました。
でも、聞く耳を持たず、結局沖縄戦になり、原爆が落とされ、
一億総玉砕ということが言われた。
あれは、確信犯的な戦争ですよ。どうして止めなかったのか」

そして、戦争責任がきちんと議論されないまま、過ぎていった戦後についても憤りを露にされました。

「戦争を始め、止められる立場にあった人達は
全部天寿を全うし、家族と平和な戦後を暮らしていた。
こんなことが、許されるのか!という気がします」

そういうHさんも、戦後はこのような話をしていいものか、悪いものか、分からなかったと言います。
ある時期は、今更戦争の話なんてすべきではないと、口をつぐんでいた時期もあったとか。

でも…
「最近は、訴えていかないといけない。そんな気持ちでいます。
当時のことを知る人、私しかいないのではないでしょうか。
立場上、軍上層部の情報を聞く位置にいました。
中枢で下働きしていましたからね」

92歳とは思えないはっきりとした口調、分析、表情…。

この他にも、歴史を見る視点など大切なことを教えて頂きました。どのようにして、Hさんから教えて頂いたことを残していけるのか。私にとっても、とてつもなく大きな課題が目の前に現れたような気持ちでいます。
| 取材-フィリピン戦 | 18:56 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
S.Nさん(独立歩兵部隊・将校、89歳)
5月10日、K.Nくん、飯島彩音さんとお話を伺いに行きました。
前回、直子さんと訪れた際には89歳で週1回は1,000m〜3,000mくらい泳ぐというNさん。4月に90歳を迎えられ、私が「最近も3,000mくらい泳ぐのですか?」とたずねると「いえ、3,500mです!」年齢だけでなく泳ぐ距離まで増えているなんて…。

以下、そんなお元気で自称『歌謡曲マニア』とおっしゃるNさんとのインタビュー内容です。今回はインタビューにはおなじみの飯島彩音さんと今回インタビュー初同行の頼もしいK.Nくんにお願いしました。

●飯島彩音 S.Nさん訪問レポート
narukawa

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先日お会いした成川さんは、おそらく私がお会いした元日本兵の方で最高齢だったのではないかと思います。が、とても溌剌としたその姿やお話からは、90歳のイメージを覆すエネルギーがあふれていました。

成川さんのお話を聞いていて感じるのは、常におかれた状況に対して一生懸命であったんだな、ということでした。

まず、成川さんのお話を聞いて気づかされたのは、戦争前夜、一般的にイメージするように誰もが戦争賛美していたのではなかったのだな、ということです。大学のような場所にあっては、「馬鹿なこと」と思える空気があったのです。

大学では、アメリカが日本の300倍もの生産力があると、戦前にささやかれていたというのです。

それが、いざ軍隊に入る段になると「切り替え」が起きた、と成川さんはお話してくださいました。親族からは活躍することを望まれ、また、組織の中で生き残るためにも・・ということでした。

そして、戦争が終わると、仕事に一生懸命の日々を送ったといいます。
そこにも「切り替え」があったのでしょうが、戦争の夢を10年間見続けたとおっしゃっていました。

成川さんが中学卒業50周年記念に書いたという手書の戦場の説明は、戦争体験が、決して簡単に「切り替え」られるものでも、忘れられるものでもなかったんだということを示していたと思います。

また、今回は、3人でお話を聞きに行かせてもらいましたが、それも私には新鮮な体験でした。戦争のことに限らず、同じ場所・時間を共有し、世代を超えて気楽にお話をする・・これだけでも、大きな意義があるのではないかなと、初めて気づくことができました。

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●K.N S.Nさん訪問レポート

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今回、戦争を体験した成川さんに戦争で体験したことについて色々お話を伺うことができました。

まず始めに驚いたことは、成川さん曰く、
「戦争が始まる前から日本が負けると確信していた」という所です。

本来、戦争は勝てるという見込みがないとやらないものです。
ではなぜ、日本は戦争を起こしたのでしょうか?

一般的に日本は、アメリカなどが行った経済封鎖などで戦争をせざるえない位に追いつめられたといわれていますが、それだけではないと思います。事実、日本は過去に鎖国をやっており、ほとんど外国と貿易せずともなんとかやっていけた過去があります。やはり根底には、日清戦争と日露戦争での勝利で日本が負ける訳がないという妙な自信があったのだと思います。

それに加えて、この時代の日本は勉強ができる環境が悪く、ほとんどの国民は世界情勢についてはよくわからず、全て国任せにしていたので、日本の暴走を止めることはしませんでした。

*一部で勉学ができる人たちは戦争に対して否定的でしたが、そういった人達は日本でもある程度の地位に就いており、批判をすればその地位を剥奪され、批判できない空気が漂っていたそうです。

成川さんも勉学ができた人だったので、当時から負け戦である事が分かっていましたが、現実は批判する事も不可能な雰囲気だったらしく、戦争に参加せざる得ませんでした。そして、成川さんは戦争に対してのわだかまりを抱えたまま、将校という立場でフィリピンに赴き生死をかけた戦場に身を置く事になります。

戦場では、油断をすれば死んでしまう状況なので、わだかまりや憤りは全て吹っ飛び、現状を乗り越える事がやっとだったようです。成川さんの「自分が生き残れたのは、運と体力と精神力があったから」という言葉が印象的で、それだけ悲惨であったということを感じさせられました。

唯一、この戦争が起こった事で日本にもたらしたものは、格差の消滅であり、それが後の総中流を生み出し、今もほぼ全ての国民が豊かな生活を送れる結果になったようです。

僕は成川さんの話の中でたくさんの可能性を得ることができました。まず、今後また戦争が起きるかどうかですが、それは限りなく低いと思います。

というのも、昔と違って今は色々な勉強できる環境も整っており、それによって様々な分野を追求している人もたくさんいます。そして、僕たちがこれから戦争をなくす為にするべき事は、戦争というものを毛嫌いする事ではなく、起こった事実をきちんと受け止めそれを様々な角度から追求していく事です。

それが、平和への第一歩になるのではないかと思いました。

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| 取材-フィリピン戦 | 23:04 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
Y.Hさん(マニラ陸軍航空廠・上等兵・85歳)
「あっ、神さんですか。存じ上げておりますよ」

電話口でそう告げるHさんに、拍子抜けしてしまいました。なんと、2年前のNHKラジオで私が話した時のことを鮮明に覚えていてくださったとのこと。フィリピンに関心をもって活動している人がいることを知り、嬉しくなった、とラジオを聴いた直後のことを振り返ってくださいました。

戦後は技術者として、家族のために、そして日本国の発展のために、働いてきたと話すHさん。フィリピンや戦友の慰霊は、定年退職したあと、ようやく始めることが出来たそうです。

「大腿部を打ち抜かれた戦友を、1人谷底に残してきてしまいました。
出血多量だったですからね。助けてやれないですよ」

1点を見つめ、つぶやくように話してくださいました。
そして日比合同でフィリピンに慰霊碑を作る活動に退職後従事してきたことを教えてくださいました。

「戦争だから仕方ないという考えをする人がいると思うけれど、戦争になる前に解決しなきゃいけない。人間と人間が殺しあうなんてことは、あってはいけない」

「相手を人間として考えたら、違った友好関係が結べるはず。人間としての付き合いをしていくことが大事だと思いました」

温和な顔で話すHさん。今では想像が出来ないけれど、でも当時は戦争だったのだから人を殺したことがあるかと聞くと、

「鉄砲は撃ちました。人に当たったかどうかは、分かりません
確認は出来ないですからね」

との答えでした。そういうHさんも、左腕に弾が貫通した後が、今も痛々しく残ります。その他、もう右腕にもう1発受けたそうです。

「戦後復興の時は、『追いつけ、追い越せ』という気迫で、日本人は皆がむしゃらに働きました。国が豊かに栄え、ゆっくり老後を過ごしたいと私も思っていました。でも、このところ、そうはいっていない事が大いに気になり始めています。また、慰霊碑建立も、政府は何も関与せず、全て自費でまかなってきました」

Hさんの中に、国や政府に対する明確な怒りは、言葉としてはっきりと出てこなかったのですが、もやもやしたものを根底に抱え始めておられるところが、私は気になって仕方がありませんでした。
| 取材-フィリピン戦 | 20:22 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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