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元日本兵取材報告:黒田千代吉さん(86歳)
*取材チームの大学生・板橋孝太郎による報告です。




所属:二十七師団支那駐屯歩兵第二連隊(極2904)〜百三十一師団独立歩兵第五九一大隊(秋水17891)

○埼玉県に生まれる。

○昭和十九年四月、徴兵検査を受ける。第一乙。

○昭和十九年七月、召集令状が来る。

○昭和十九年九月一日、二十七師団支那駐屯歩兵第二連隊極2904部隊要員として、東京赤坂の東部第六部隊(近衛歩兵第三連隊補充隊)に入隊。

○昭和十九年九月九日、兵舎より歩いて品川駅に向かう。途中家に電話のある兵は、抜け出して公衆電話から自宅に連絡していた。

品川駅には見送りに兵士の家族が大勢来ていた。黒田さんの家族は来ていなかったが、息子に会えなかったらしい人から食べ物を貰って食べた。

夕方列車に乗る。列車は防諜のため鎧戸が閉ざされ真っ黒で、お通夜のようだった。中には泣いている初年兵もいた。

○昭和十九年九月十一日、博多到着。博多から埠頭に行き輸送船に乗船。輸送船に乗り込むと、沈没したとき抱えて飛び込めと言われて太い竹筒が渡された。ほとんどの者が船酔いにかかり、弁当が配られていたがそれを食べる気はしなかった。吐いている者を見ていたら自分も戻してしまった。

「向うに陸がみえたぞ」という声が上がり、甲板に出て見ると特徴的な屋根のある家が見えた。「あれは釜山だ」と誰かが言っていた。そして釜山に着いた。

船から降りると近くの駅まで行くことになった。駅までの道の左右両側に憲兵が列を作って立っていた。逃亡兵を出さないように監視しているらしい。
その真中を通って駅へ向かった。

駅には列車が着いていた。初年兵は貨車に、上等兵以上は客車に乗車。
貨車は馬を運ぶのにつかわれたようで、馬糞の匂いがひどかった。そこにむしろをひいて乗った。

列車は朝鮮を北上し、鴨緑江をこえて満州に入った。鴨緑江に入るとひんやりした空気を感じた。

そして満州の奉天(現遼寧省瀋陽市)を通って北京に着いた。そこで降りるのかと思ったら乗ったまま。国防婦人会の人がいて羊かんを兵隊に配っていた。それをもらって食べる。

○昭和十九年九月十七日、揚子江を工兵隊の舟艇で渡って南京に到着。

長期の旅の疲れを取るために約一カ月間の休養。竹を組んで作ったアンペラで作った兵舎に入って寝泊まりした。
糧秣受領の使役に街にでた時、饅頭を時計と交換して買って帰って食べたり、足ならしのために孫文の墓のある中山陵まで遠足に行ったりしていた。
非常食の乾パンを内緒で持ち出して、こっそり金平糖を食べたこともある。若いからいくら食べてもおなかがすいた。

○昭和十九年十月十五日、南京から揚子江を船でのぼる。昼間は敵機にやられてしまうので夜に移動する。昼間は森に隠れていた。隠れたり移動したりを四回くらいする。

○昭和十九年十月十九日、石灰窰(現湖北省黄石市)に到着。そこから同省大冶市まで行軍。大冶は鉄鉱石が取れる町。そこにあった第二五一三部隊第九野戦補充隊(呂武2509部隊?)に転属。ここで基本的な兵隊教育を受ける。

手ぬぐいを使って油をしみこませて、ロウソクの代わりにする方法なども教わった。

演習にはさつま芋畑のあるところを使った。匍匐前進しながら、つるをひっぱるとイモがでてくるので銃剣で皮を削って食べれた。これはみんなやっていた。そういうところを隊長がみていたらしい。ある日演習が終わって集合すると、隊長が「この中に日本軍人としてあるまじき行為をした者がいる」と叱りつけた。時間がたって
も誰も名乗り出ないので、意を決して名乗り出て隊長のそばまでかけて行くと、隊長が耳元で小声で「よく名乗り出た」とほめてくれた。涙が出た。
そして隊長は班長を呼び、青い顔をして出て来た班長に「兵十名で黒田二等兵を内務班まで護衛しろ。飯と風呂は一番に出してやれ」と言った。それで一番先に兵舎に帰ることができた。後に残った者は二時間くらいした後に、演習場のまわりを走らされてから帰ってきた。この事件以降いろいろ目をかけられるようになった。

○昭和二十年二月六日、教育終了。本隊の極2904部隊を追及することになり大冶を出発。出発の前日は刺身などのごちそうに酒が飲み放題の宴会が開かれた。また内地に向かってそれぞれが「お父さん、お母さんさようならー」などと思い思いに別れの言葉を叫んだ。手紙も渡され、中にはぱらぱら泣いているのもいた。

仁井曹長の当番兵になっていたが、出発前に曹長がやって来て「よろしくたのむ」と握手をされた。

一旦武昌大学(後に合併して現在武漢大学)に行って、装備を受領した後に駅に行って列車に乗る。行軍すると思っていたので意外だった。しかし途中で線路が爆破されていたため、数時間のっただけですぐ行軍することに。

足に豆ができて衛生兵にみてもらった。するとヨーチンにしみ込ませた糸を針につけて、それを豆に刺してとおしてくれた。衛生兵と言っても包帯とヨーチンくらいしか持っていないので「ヨーチン兵」と呼んでいた。

○昭和二十年三月二十日、湖南省岳陽を経て同省長沙に到着。

長沙で糧秣輸送の決死隊が編成され、それに配属される。民間のジャンク船に偽装して糧秣を買いに行くのが任務だった。軽機関銃三挺を積んでいたが、敵を見てもこっちから撃ってはならないと厳命された。

そして無事に任務を終え、また行軍に移り湖南省衡陽に到着。ここで極2904部隊は全滅したと伝えられ、秋水591大隊に転属命令が出る。

○昭和二十年四月二十四日、衡陽を出発。行軍のあまりの辛さに手榴弾や小銃を使って自決するものがでた。またマラリヤなどの病気にかかって亡くなる者もいた。

便衣兵に兵隊が拉致されることもあった。拉致されると尋問を受けた後に殺される。

○昭和二十年五月十日ごろ、曲江(現広東省韶関市)に到着。

○昭和二十年六月十日ごろ、カン州(現在江西省:難しい漢字)に到着。秋水591大隊本隊に合流。長い行軍が終わる。当初千二百名いた初年兵が、四百人に減っていた。ここで休養した後、戦闘訓練を行う。刺突訓練などをやっていた。

ある日、日本軍の分哨が攻撃され戦闘になった。そして便衣兵一名が捕えられた。刺突訓練を行っていた時、その便衣兵を銃剣でついて殺した。

○昭和二十年七月十六日、転進命令が出てカン州を出発。また行軍。

○昭和二十年八月十九日ごろ、劉家(江西省南昌市あたり)で終戦を知る。
○昭和二十年九月、安徽省安慶に移動。ここで武装解除。収容所に入れられ捕虜生活が始まる。

中国兵と一緒に倉庫の警備をした。中国兵は時計を持っていなので、交代の時間を図るために線香時計を使っていた。線香を燃やして、何本か燃えたら衛兵が交代するという仕組みだった。
中国兵を見ていると、10分くらいしたらしゃがんでじっとしている。近くで見てみると、線香に一生懸命息を吹きかけて早く燃やそうとしていた。中国兵の衛兵は何回も何回も交代していた。

中国兵と一緒に船で南京に糧秣受領に行ったこともある。その時船内で餅つきをやろうということになり、薪を持ってきて杵の形に削り、臼がないので味噌樽をもってきて中身を川に捨てて空にして、砂袋を底に敷いて臼の代わりにした。そして餅をついていると興味を持った中国兵もやって来て、仲良く一緒に餅をつき、一緒に餅
を食べた。この話をあとで戦友にするとうらやましがられた。

収容所生活をした後、上海に移動し、船に乗り博多へ。

○二十一年四月一日、故郷に着き復員。


●後世の人に

戦争はしてはいけない。中国など周辺国と仲良くするべき。

●アジアの人に向けたメッセージ

当時を振り返って、中国人にはいろいろ申し訳ないことをしたと思っている。

●自分の加害体験を話したことについて

昔は加害体験は後ろ指をさされるので、話さないほうがいいと思っていた。しかし自分の戦争体験を話せる機会があって、初めてそこで話してみた。すると胸の中で何かパッととけた感じがした。話したことを後悔してはいない。
| 取材-中国戦 | 22:44 | comments(5) | trackbacks(0) | pookmark |
元日本兵インタビュー抜粋 その1
  【11月23日(勤労感謝の日)、取材チームはTさんに都内にある会議室にお越しいただいて、「公開インタビュー」を行いました。BFPからは7人が参加、インタビュアーは浅井が務め、記録は板橋が書き留めました】



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 Tさんは大学卒業後、商社に就職。入社後直ぐに当時支那と呼ばれていた中国に派遣され、3年間商社勤めをされました。

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戦争末期の1944(昭和19)年2月になって現地で召集されて陸軍第59師団司令部の宣撫班に配属され、中国人捕虜で京劇団を構成、現地住民を対象にして「旅回り興行」を担当されていたそうです。

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 日中戦争が始まる前に印象的だったことは?と聞かれて「二・ニ六事件」と「南京陥落」を挙げられました。

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 二・二六事件があった時は、非常招集がかかって寒い中、校長の話を聞いたそうです。また、日本軍が当時の中国の首都であった南京を攻略した「南京陥落」では、勝利を祝う提灯行列が催され、その歓喜の輪の中に身を置いたと言われました。その当時は、戦果ばかりが報道されて、「南京大虐殺」のニュースは目に耳にしなかったそうです。

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1944年2月、会社に行くと、同僚から「おーT、来たか!」と言われてTさんは召集を知らされました。出征の時、会社の同僚が一緒に大隊本部までついてきてくれましたが、それはさみしいものだったとTさんは回顧します。

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この時日本が負けるか勝つのかは半々な気持だったそうです。戦局については現地でも全然分からなかったと言います。

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入隊したものの、ツベルクリン反応検査で陽性が出るなど、健康面で劣っていると判断されたため、過酷な訓練や環境を強いられることも無く過ごせたTさんは、多くの新兵が経験させられた捕虜の刺殺を強要される事もありませんでした。

 配属された地域の周辺でも、日本軍は中共軍(八路軍)と激しく戦っていました。日本軍の支配地域は「治安地区」、中共軍の支配地域は「敵地区」、どちらでもないところを「準治安地区」と 呼んでいたそうです。準治安地区の住民はとても保身的で、ある時は日本軍ある時は八路軍の味方につくというような感じだったので、その準治安地区の住民の心をつかむため(宣撫工作)に宣伝報道班が重要な役割を果たしました。

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Tさんが中心になって行った宣撫工作は、捕虜収容所にいた八路軍・国民党軍などの捕虜(約1000人)の中にいた京劇経験者を組織して京劇団を作り、準治安地区の住民(主に農民)を懐柔することでした。京劇好きの住民たちは大喜び、大いに受けました。

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終戦直前の1945年7月、ソ連軍の侵攻に備えて咸興(かんこう:現在の北朝鮮の咸興市)に移動。陣地構築作業に当たりました。

 終戦を告げる「玉音放送」のあった8月15日は、部隊全員でラジオを囲んだそうです。ラジオでは雑音が多くて何を言っているのかよく分からなかったが、負けたことは理解できました。

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その感想を聞くと、「みんなほっとしましたよ」とTさん。

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戦陣訓で「捕虜になるな」と叩き込まれてきた日本兵に自害した者はいたのですかとの問いに、「百九大隊長坪井少佐は割腹自殺をしたと聞きました」と言われました。しかし、大隊長に続く将官、兵士はいなかったそうです。

 同年9月末にソ連軍による武装解除を受けました。小銃の「菊の紋章」をヤスリで削ってから、帯剣、ガスマスクなどと一緒に捨てました。本隊は他の場所に移動しましたが、Tさんは病気で入院しました。

(つづく) <!--[endif]-->
| 取材-中国戦 | 11:54 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
日本兵取材の進捗状況

 先週はお二人の元日本兵にお会いすることができました。

 おひとりは、今のインドネシアのジャワ島とフィリピンの航空軍司令部で諜報活動をされていた尾形憲さんです。

 主な仕事は、戦争末期は特に米軍の艦船情報の収集にあったそうです。その情報を基に「特攻」が繰り出される訳ですが、毎日のように同期の特攻隊員が尾形さんのところに来たそうです。

「おっ、今度は貴様か」と言うものの、相手が帰ってこないことが分かっているだけに「行ってこいよ」とは言えなかったそうです。

成功を祈って送り出した翌日、尾形さんのところに、「我、突入す」という電報が特攻隊員から入ると何とも言えない気持ちになられたと述懐されました。

許せなかったのは、それら特攻隊員を送り出す責任者であった富永司令官だったと尾形さんは言葉を荒げました。「富永は『最後には私も参謀長の操縦する飛行機でお前たちに続く』と言っていながら、米軍がルソン島に上陸すると真っ先に台湾に逃亡した」と言うのです。

その時に見せた鋭い眼差しと舌鋒鋭い話し方は、87歳とは思えない、情熱がほとばしるものでした。

尾形さんは戦後、いろいろな仕事をしながら大学の通信制に通い、そこから大学院に進んで教授になるという異色の経歴を持つ方です。当時のことばかりでなく、「今の戦争」を語り出しても、まさに機関銃トーク。こちらが圧倒されるような凄いパワーをお持ちの方でした。

続いてお会いしたのが加藤正寿さん。

戦争末期となる昭和19(1944)年12月になって召集され、当時の北支(現中国華北地方)に送り込まれました。そこから南陽城攻略を計る「南陽作戦」に選抜されて3ヶ月に渡る大遠征に参加。

遠征を始めて間もなく戦闘を体験しました。目の前で上官である古年兵が顔を撃ち抜かれて死ぬなど被害は少なくなかったそうです。戦争の恐ろしさを実感したと苦笑いで語られました。

現地住民との接触はほとんど無かったそうです。それは、事前に察知した住民たちが避難していた為で、部落のほとんどがもぬけの殻になっていたそうです。ただ一度だけ逃げ遅れた姉妹が家の中にいたのを見つけたことがあるそうです。

「早く逃げろと言って逃がしてやりました」と加藤さん。

当時、日本兵の間では、食糧の略奪は日常的に行なわれ、女性の強姦も決して珍しいことではなかったそうです。 

死を意識したのは満州(現中国東北部)でソ連軍の進軍を阻止する決死隊の一員に指名され、爆薬を抱えてタコツボ(ひとりが入れる穴)に入って一夜を過ごした時だと言われました。

タコツボの中で両親のことが思い出され、涙されたそうです。

その時加藤さんは、「死を直前にして兵士はみんな親の名を呼んでいました。『天皇陛下バンザイ』と叫ぶ人は誰ひとりいませんでしたよ」と言われます。

戦時の指導者への不信感を募らせた加藤さんは、彼らが合祀されている靖国神社に行くことはないそうです。「8月15日には千鳥ケ淵の無名戦士の墓にお参りに行きます」と言われました。

取材を終えると、後ろでテレビを観ていた(はずの)お連れ合いが、「こんな話、初めて聞きました」と驚きの表情で声をかけてこられました。

| 取材-中国戦 | 15:30 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
9月15日取材報告
金子安次さんにお話を聞きました。

金子さんが、中国撫順の収容所にいた頃考えていたこと・・
『戦争とは何だったんだろう。自分は天皇のために戦争に行った。それなのに今天皇はうんともすんとも言ってくれない。ずっとだまされていたんだと気づいた。』

何でもお話します!と何度もおっしゃっていた金子さんの強い思いを受け止めたいと思います。







| 取材-中国戦 | 01:44 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
2度目の元日本兵取材へ行きました!
大学生の柳川です。 

先日は元特務機関員の中谷孝さんのお話をうかがってきました。

中谷さんは日本の車工場で働いていました。
戦争の足音が激しくなる中、その工場では車の生産をやめさせられ飛行機の部品づくりに仕事内容がかわったそうです。

車の仕事ができなくなった中谷さんに中国での新たな仕事の話が届きました。内容もよさそうだったので中国に移りましたが日本で聞いていた仕事の内容とは全く違う、差別が横行する現場に直面したそうです。

そんな仕事に抵抗をおぼえた頃に特務機関員の仕事の話がきました。

主な特務機関員の仕事として日本軍が占領したあと、その地を管理するといったものがありました。中国語を介して、占領したことなどを住民につたえるといった仕事をそうです。

45年8月15日を中国で迎えた後、後処理を自ら志願してさまざまな処理の仕事しました。
移動するときに中谷さんは中国の服を着て中国人を装っていたそうです。
その後復員されました。

柳川陽介


*以下、監事の浅井から補足
中谷さんは自らのホームページ『日中戦争の中の青春』で「戦場の中国で若きスパイとなった男の、せつない物語」と題して自らの経験を綴られています。

所属した陸軍特務機関は、その役目は「敵」の情報を収集する諜報活動、地域住民を味方につけるための宣撫工作、そして敵対勢力に働きかけて寝返らせる作戦を実行するなどで知られていますが、中谷さんが所属した班の任務は、占領地の行政復活、警察再編による治安維持、学校の再開、治安情報収集などで、実戦部隊に比べて戦闘体験はあまりなかったようです。

 それだけに、実戦経験は今でも記憶に新しいようで、参加した作戦の話をしたら何時間でもお話できてしまうほどです。中でも心に深く刻まれているのは、捕虜の殺害場面に居合わせたことのようで、軍刀で斬首する「試し切り」や下級兵に度胸を付けさせるために銃剣で身体を突く行為を話す時の目力は、印象的でした。

 また「朝鮮人従軍慰安婦」の話も聞くに堪えないものでした。

「街で見かけた、忘れられない光景」と言って話されたのは、街中で泥酔して泣き叫び、憲兵に引きずられて慰安所に連れ戻されていった朝鮮人女性のことです。その時は、困った人だ位にしか思わなかったそうですが、後になって朝鮮人慰安婦が強制連行されていたという話を聞き、心を痛めたとのことです。それだけに、従軍慰安婦の存在そのものを否定するような最近の流れに危惧を抱かれていました。

| 取材-中国戦 | 13:20 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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